鮮明な月

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序章

1.モノローグ

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その人に初めて会ったのは、俺がまだほんの四歳位の頃の話。
自分でも、驚くほど鮮明に未だにあの頃のことを覚えている。
それは俺の両親が不慮の事故で死んで、たった一人で身内の叔父に引き取られた直後の事だったからかもしれない。四歳の俺は両親とはもう二度と会うことが出来ないという現実を理解するには、どうしたってまだ幼すぎた。訳もわからずに家に帰りたいと叔父の家を飛び出した俺は、まだこの街の事なんて一つも知らない子供に過ぎなかったのだ。
当然のように迷子になって、しかも怖くて悲しくて寂しくて、泣くしかなかった。見ず知らずの土地で見ず知らずの人間の中で、迷子になってる俺が泣いているのに誰もが訝しげに眺めて避けて通る。そんな中で、その人はまるで美しく清廉な月の様にフワリと俺の目の前に姿を見せたのだった。

夕闇の中で仄かに白々と透き通る白磁の肌。
綺麗な綺麗な黒曜石の様な黒目がちの瞳。
まるで童女の様な整った美しくあどけない顔立ち。
今でも目に浮かぶその顔はまだ幼かった俺の顔を覗きこみフワリと笑う。

どうしたの?君。

優しく甘い声は泣きじゃくる俺の頬を優しく指先で拭い、まるで赤ん坊をあやす様にそっと引き寄せる。暖かく仄かな柔らかな甘い香りのするその腕の中に抱きとられて、俺はその懐かしい様な心地よい場所に顔をうずめ抱きあげられる。
トントンと規則正しく背を叩く優しい手。
母に似た優しい香り
父に似た優しい仕草
それが酷く嬉しくて俺はされるがままに任せてその腕の中にいた。
その人は恐らく中学になるかならないかだったろうけれど、まだ年若い叔父には(その人はもっと若かったのだが)無いその暖かさが心地よくてずうっとそうしていて欲しいと幼い心は無意識に願っていた。

それが俺とその人との出会い。
出会いがそれだけで終わっていたら、もしかしたら俺とその人との間は今も何もなかったのかもしれない。
ただ迷子で泣いている子供をあやしたその人。
それだけの関わりになったのかもしれない。
でも、そうならなかったのは、俺と叔父の住む土地で出会った同級生とその人が浅からぬ関係にあったから。



※※※



その人と再会したのはそれから暫くしての事。
やっと叔父と住むことにも慣れ始め、家の直ぐ傍に住んでいた同じ歳の少年と遊ぶようになって暫くした時の事だった。その少年の自宅は凄く古い旧家で合気道の道場をしていたが、そこにその人は居た。
日差しの中でも童女のような綺麗な面立ち。
香るような鮮やかな肢体。
見惚れてしまうほど優雅な動きに自分は息を呑み立ち竦む。
隣にいた俺の遊び仲間の少年が、子供らしい声を上げてその人の名前を呼ぶ。

榊恭平 

初めて聞いたその名前の向こうで、華のような綺麗な微笑みでその人は笑う。そして見覚えのあったのだろう俺の顔を見て思いだしたように微笑みかけながら、俺の遊び仲間にも同じように優しく笑う。その笑顔でその人にとって俺の遊び仲間と俺は、まだ単なる顔見知りの子供の一人と言う同列の存在でしかなかったのだと初めて知った。それがなんだか凄く寂しい事のような気がして、俺はそのとき無性に戸惑ったのを覚えている。
何だか俺だけに笑って欲しいというようなそんな感情。
相手は自分の名前すら知らないのに、ありえないことなのに、そうその時俺は何故か願っていた。
綺麗なその微笑みを俺だけに向けてくれたら、あの温かい腕を俺だけにかけてくれたら幼い独占欲でそう願っていた。

今にして思えば、その想いは幼いながらに初恋だったのだろうと思う。
華のように美しい、月のようにひっそりとそれでいて、けして隠せない存在感をもつその人。それは、幼心に決して叶わぬ想いなのだろうと、俺にも分かっていた。何故なら、俺とその人が初めて出会ったのは俺が四歳・その人が十二歳のこと。

俺の名前は源川仁聖。

そう、誕生日の関係で月によっては8つも年の離れたその人は、俺と同じ男性だった。
そうして俺が自分の気持ちが思慕ではなく恋慕なのだと自覚したのは、彼と出会ってから三年目の事だ。それまでは俺自身・友人経由で時折顔をあわせる程度、相手を綺麗な顔をしたお兄さん程度にしか思っていなかった。ただ見かければ無意識に何時までも目で追ってはいたけど、俺自身がその理由もわからず不思議だなんて思っていたんだ。



※※※



俺と血の唯一繋がった叔父との暮らしは、家族生活というには余りにも普通の家庭とはかけ離れていた。叔父・源川秋晴はフリーのカメラマンで海外に出かける事も多かったし、小学校に入る前は一応俺に遠慮して仕事を請けてくれたけど、それが永遠に続くわけでもない。
俺自身も別段叔父に常に傍にいて欲しいとは思わなかったし、最初はいたお手伝いさんも段々煩わしくなってしまって自分で出来る事はするようになってしまったんだ。だから小学生になった時にはもうお手伝いさんは不要だと告げたし、叔父にも好きなように仕事を受けて構わないと言った。結婚もまだで子供もいない叔父に、過剰に負担をかけるのも悪いと子供ながらに考えたんだ。

そんな小学校低学年にしちゃ出来た子供になった俺は、その日予想外の出来事に見舞われる。
二人暮らしのために住み替えたマンションに、無用心だが小学生一人で住んでるような俺にとっては死活問題。一見年齢よりも少し大きく育ったとは言え、俺もまだ子供だったんだと思う。同級生で幼馴染の宮内慶太郎と遊んでいるうちにどこかで≪家の鍵≫を落としてしまったのだ。

鍵っ子なら経験はあるだろうけど、これは痛いんだよな。

その上丁度叔父が暫く海外に撮影で出ていて、俺には誰も頼れる人がいないのだ。今なら別な方法を考えられたろうけど、その時はまだ無理で鍵を探すしか思い浮かばなかった。慶太郎と分かれた後に気がついた俺は今歩いたはずの場所を必死に遡り捜し歩いたけど、そう言う時って逆にどうやっても探し物は目に入らないものだ。結局見つけられずに、夕暮れの帳が落ち始め公園の隅で愕然としたまま俺は泣き出してしまった。
どうしたらいいのか分からずに泣いている俺の周りが次第に濃い夕闇に落ち始めた時、フワリとまたあの日の月のようにその人は姿を見せていた。
泣き声を気にして見にきたのだろうか、黒曜石の綺麗な綺麗な瞳は俺を真っ直ぐに見つめるとオヤ?というように緩む。

「……慶太郎の友達だったよね?えっと…ジンセイ君だっけ?」

軽くまるで羽のような滑るような動作で榊恭平は中学の制服姿で俺の前に屈みこんだ。白いシャツに濃紺のタイをしたその姿は、普段見ることの多かった孝太郎の家の道場での袴姿とは違って身近な分凄く格好いい。だけど泣きじゃくっていてそれ処ではない俺の頭を撫でながら、その人は優しく微笑む。

「どうしたの?何で泣いてるの?」

見知った顔。
そのキーワードに俺は泣きじゃくりながら事情を話す。
鍵をなくして帰れない事を理解した彼は、穏やかに笑いながらあの時のように俺を抱き寄せると温かい腕の中にすっぽりと抱き込んだ。制服が汚れるなんてこと微塵も考えない様子で彼は俺の体を抱き上げてぽんぽんと背中を叩きながら、あやす様に優しく話しかける。

「一緒に探してあげるから、泣かなくていいよ?一人でがんばったね?」

俺も鍵っ子だったから同じこと経験してる、と彼は優しく微笑みながら俺を抱き上げたまま鍵を探す為に俺が歩いた道を問いかけながら歩き出した。相手が自分をすっかり子供扱いなのには戸惑ったけど、その腕の中は酷く優しくて暖かくて。鍵を探し続けて疲れきっていた俺は何時の間にか、すっかり眠り込んでしまっていたのだった。



※※※



腕の中ですっかり眠りこけてしまった幼い体を抱きなおして、青年は暫し逡巡した。見知った子供とは言え、榊恭平は随分自分がした行為は行き過ぎていたような気がすると思ったのだ。まいったなと自嘲気味に呟いた瞬間、街灯の光に鈍く光るものを見つけて歩み寄った。

《みなかわじんせい》

デカデカと鍵自体に書かれたたどたどしい平仮名を見下ろして、恭平は思わず苦笑する。子供らしいその文字は、普段の少年の意志を示したように元気に強く書き込まれていて何だか微笑ましかった。やがて抱きかかえたままの苦しい体勢で鍵を拾い上げた青年は、腕の中ですっかり寝入ってしまったその顔を眺めて暫し考え込んでいた。



※※※



暖かく心地いい揺らぎの中でプカリと意識が、音楽のような声音に引き起こされた。

「ええ、そうなんです。勝手とは思ったんですが、放っておけなくて。」

仁聖を抱きかかえたままの体勢で、その人は電話口に向かって申し訳なさそうに小さく話している。ボンヤリした意識の中で肩に頭を預けて、その柔らかい声に耳を傾けた。

「はい、それで、お家の方に連絡を……はい。」

受話器の向こう側で何かを説明する声に、その人は少し身を硬くして仁聖の体を無意識に抱きかかえなおした。暫しの無言。そうして、少し困ったような溜息をついて、理解したと言いたげに口を開く。

「そうなんですか……………分かりました。」

何かを問いかける電話の向こうの声。それに彼は穏やかに先を続ける。

「起きたら送っていきます、いえ…………家から近いみたいだし。」

そこで初めてその人が誰かに連絡して、自分の話を聞いていたことに気がつく。眠りからモゾモゾと顔を上げると間近に彼と目が合う。仁聖が叔父と暮らしている事や、叔父が殆ど家にいない事、そんな事を教えられたのだという事は目の前の表情で分かったし、恐らく電話をしているのは仁聖の同級生で知り合いだと知っている宮内慶太郎の家の人なのだろう。視線を外して受話器を置いたその人の横顔は何だか酷く大人びて透き通るようで、思わず仁聖は見とれてしまっていた。その視線に室内の柔らかな光の中で、その人は穏やかに微笑みながら仁聖を見下ろす。

「起きた?もう遅いから、お家まで送って行ってあげるね?」

優しい声に幼い少年は思わず、まじまじと青年を見つめながら現状を認識しようと首を傾げた。そこでやっと辺りが見たことのない内装の部屋で、自分が住んでいる家よりもずっと暖かくフンワリとその人の香りがするのに気がつく。不思議そうに辺りをキョロキョロと見渡す仁聖に、彼は優しく落ち着かせようとするように語りかけてくる。

「ごめんね?君の事詳しく知らなくて、…………宮内さんに聞いたんだ。」

眠っちゃって起きなかったからと言う彼の言葉で、やっとそこが彼の家なのだと仁聖も気がついた。勝手な事してごめんね?ともう一度優しく青年は口にする。抱きかかえられたままだった自分の状態に気がついて身動ぎすると彼は笑いながら屈みこんで、スルリと腕から少年を解き放って自分が視線を会わせるようにしゃがむ。そしてポケットから取り出した仁聖の名前の入った鍵には、小さな鈴のついたキーホルダーが揺れていて少年は手の中に置かれたそれに目を見張る。見つけてくれただけでなく、見覚えのないキーホルダーをつけて手元に戻された鍵に目を丸くしている仁聖に、彼は穏やかに微笑む。

「音が出るものがついていたらなくしにくいよ?俺もそうだったから。」
「なくしたことあるの?」

沢山ねと悪戯っぽく明るく笑ったその笑顔に、思わず見とれていた仁聖は気恥ずかしそうに視線を伏せている。真っ直ぐに自分を見るその人の視線が何だかこそばゆいような気がして頬を染めていると、青年は笑いながら仁聖の頭を撫でた。

「じゃあ、一緒に行こう、仁聖君。」



※※※


何故そこまで彼が自分に優しくしてくれたのか。
結局は彼自身がとても元来優しかったのだろうし、同じ鍵っ子の共感もあったのだろうとは思う。だけど、俺にはそうしてくれたのは最初で最後の人で、俺にとっては特別な存在に変わったのだった。思わずまたここに遊びに来てもいいかと尋ねた俺に、彼は驚いたようだったが構わないよと笑ってくれた。
優しくて穏やかで、暖かい香りのする人。

俺はその時から彼の………………榊恭平の事が大好きだったのだ。
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