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酔いどれ

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 江戸の町は夕闇に包まれようとしている。

 「おおおぉぉぉ…」

 惣兵衛は煌煌こうこうと光る街並みに呆けている。

 これほど立派な屋敷を構えた遊郭があろうとは、吉原よしわらという名の一廓に入れば異界に迷い込んだかのような気分になる。

 そこは惣兵衛が初めて見る空間であった。このように派手というか豪華絢爛ごうかけんらんたる建物は京都でも見た事は無い。惣兵衛はご機嫌な角谷に連れられて、その座敷に腰を下ろしたのだった。

 見る間に二人の膳には料理や酒が運ばれ、そして最後には芸妓が座敷に入って来たのだった。

 ここに来るまでの街並みも色に溢れたものだったが、その芸妓の女性たちは惣兵衛の目に、ひと際美しく見えた。

 奉公人の身分でお座敷遊びなど、本来ならば恐れ多いのだが、旦那の角谷も付いて来るように言ったのだ。遠慮することもないと惣兵衛は芸妓の芸を楽しみながら酒を酌み交わす。

 気賀関で追いついた惣兵衛を見て、源之進も奉公話を断るのを取りやめたのだろう。ここまで苦労を重ねたが一件落着だと胸を撫で下ろすのだった。

 「しかし、長兵衛は江戸に来てから陽気になったのだな。昔はまじめで堅物で通っていたのに」

 「そりゃ奉公のころとは段違いな銭を稼いでみろ、懐も気も大きくなるわい。それに銭など使わなければ川原で投げて遊ぶしかないぞ」

 「江戸っ子冥利とはいかにもやな」

 角谷は京都では無いような、嬉々とした顔で芸妓と余興を楽しんでおり、月日の流れは彼を変えたようだと思った。

 「さあさあさあ、お客さんも踊ってみなさいよ」

 お座敷では芸妓の演奏が続いて、角谷に誘われて惣兵衛も一緒に踊ってみたりする。

 「どうだ。愉快だろう惣兵衛!」

 「そうやのう、何やらお殿様にでもなった気分や」

 「わっはっはっはっはっ!」

 半刻もすると、酒を吸い込む勢いの角谷は酔いどれの千鳥足になっている。そうしていると惣兵衛の目から、時折に角谷の顔が不明瞭になって定まらない。

 惣兵衛は目を擦りながら、一生懸命に街道を歩いて来たのだから、野宿で十分な眠りも妨げられたので、疲れて目がかすんでいるのだと思った。

 しかし、一向に角谷の顔にだけ現れた靄は晴れる事はなく、もはや顔一杯も包まれていた。

 「お…、こりゃ一体何だ?」

 周りの芸妓もそれに気づいたようで、一様に驚いている。

 「ちょっと!…お客さん、お顔どうなさったの?」

 「お顔が何だ?」

 角谷は自分の顔を触ってみて、血相を変えてかわやへ行くと言い出した。座敷を飛び出るように身支度をして、訳が分からない座敷の一同はそれを見送ろうとしている。

 「ほれ…、これで良いかな?」

  角谷は最後に芸妓の一人に代金まで渡した。

 「なんなんや、長兵衛の顔、…顔?」

  直感的に思い立った惣兵衛は、直ぐに角谷を追った。

 格の高そうな客が忙しなく通る中で惣兵衛は廊下を走り抜けていく。入り口で番頭に、角谷の旦那は外に出て行かなかったかと問えば、ここしばらく誰も外には出ていないと言う。

 それを聞いて惣兵衛が、木の看板に大きく厠と彫ってある場所に飛び込んでみれば、そこにも誰の姿もなかった。

 「くそ…、何処に行った化け妖怪め!」

 キョロキョロと辺りを見渡すと厠の床に、彫刻のふくろうの工芸品が置いてある。

 「これは妙な所で、どっかの郷土品を飾ってあるな」

 惣兵衛は一瞬、そっぽを向いた振りをして横目で梟を盗み見た。そうすると、目を動かして惣兵衛同様にこちらを見ているのだ。

 「こら!」

 惣兵衛は渾身の力で、梟の頭に厠に置いてあった下駄を振り下ろした。

 「ぎゃ!」

 それが頭に命中した矢先に梟の置物は源之進の姿に戻って、大慌てで惣兵衛を突き倒しては、建物の入り口を目指して、すっ飛んで行ったのだった。

 「待たへんか~!!」

 源之進は待てと言われて待つものかと全速力で走り去ろうとするが、元々力が弱まっていた上に、酒をたくさん飲んで酔いが体に回っていた。

 しかし、惣兵衛もそれは同じようなもので、一日街道を歩き果たした後で、流石に体力が残っていなかったのである。

 そんなヘトヘトの逃亡劇で、江戸の町で追いかけっこは四半刻も続いたのだった。
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