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箱根峠
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由比の宿場から少し離れた廃寺にて、夕暮れを迎えようとしている。
惣兵衛は本坂通りをひたすら歩き続けて、まずは市野の付近でボロ屋に泊まり、それから東海道に合流して掛川かけがわ、藤枝ふじえだ、由比という具合に江戸に近付いている。
明日に向かう沼津からは箱根宿と関所への峠を歩かなければならない。
しかし、もはや東海道の楽しい旅気分ではなく、なんの旅情も満喫していなかった。
いちいち街道筋から離れて安宿や野宿できる場所を探すのは面倒だった。茣蓙を引いて、振り分けの籠を枕代わりに寝るのである。
「はあ…、ひもじいわ」
そうやって現実の苦労を忘れるため、目を瞑って過去を思い返していると、仲間との楽しい思い出と共に、一緒に働いていた頃の角谷のまじめな性格も蘇ってくる。
掃除から言葉遣いや仕事の行動手順に至るまで完ぺきにこなし、物事の判断基準も厳しかったことを思い出したのである。
なので、余計に奉公話を謝っても破断にならないかと現実の苦労に引き戻されたのであった。
○
その日の晩…、
先を行く源之進は箱根峠の御用林の中にいた。常人には緊張の関所破りであるけれど、なんとも呑気な面持ちである。
木々の合間から覗く夜空には月が輝いており、片手には酒の瓶が握られている。
「森は生気を取り戻し~!動物霊もお出迎え~!わしは異界の住人さ!」
謎の鼻歌を口ずさみ、提灯一つ持たずに暗闇を進んでいる。
番所に詰めている小田原藩の侍たちに見つかったら、きっと大騒ぎになるだろうが、辺りには虫の音が響くのみであった。
「おい、うつけ!」
少し離れた下草の合間から、何の気配も見せずに怪しい狼は歩み寄っていた。
「わっ!」
あまりに唐突だったので、源之進は久方ぶりに驚いて叫んだ。
その瞬間に必死の逃亡を試みるが、奇妙にも体が思うように動かない。まるで全身の神経を引っこ抜かれたかのように、意識を働かせても硬直しているのである。
「まあ…久し振りに相まみえるのだ。貴殿の苦労でも聞こうではないか?」
「く…、苦労…?」
不思議と口だけは動くようだ。
「本来は暮さざる場所なれば、渡世とせいの煤にまみれているはずだ」
「何を言いたのか分からんけど、わしは人間の世に馴染んどるぞ。この満身の疲労は浮世にまみれた証だぜ」
「ふん、なるほどな…」
狼は呆れたような口調で納得していた。
「…それよりも、こっちこそ四百年ぶりに口を利くのだから問いたいもんだ。幾たびもわしを付け狙う意はどこか?」
「ふむ…、ちょっとした興味なのだよ」
「では、あの崖の下に居たのは何故だ?」
源之進は会話に集中させて少しでも狼が近づくのを防ぎたい。
「あの坊主は貴殿に縁でもあるらしいな。なに…、死肉でも漁ろうかと思ってな」
「まだ息はあったのではなかろうな?」
「…さあて?我も世の理の外で暮らしているのは貴殿と同じだ。俗らしい享楽に身をやつしたくもなる」
「なら…」
どことなく真実ではないと感じる。仇討ちをしようとは思ってないが、父として慕った相手を食われたのなら源之進は知りたいのである。
「微かな血の匂いにつられてみたが、香が臭いので坊主は食わない趣味でな。さすがは仏の道にあると見えて、奴の魂は鬼哭するでもなく黄泉へ参ったぞ」
その言葉には嘘はないように感じ、問答の矛を収めた。
「ところで貴殿には異界の口を出る前の記憶がないようだな」
「…朧気には幼い自分を思い出せるが、…霧の中から抜け出して人間の幼子になっていたのも漠然として明瞭ではないからな。わしに異界に戻る方法はあるのかな?」
「どれだけ霊験を授かっても異界の口は開かぬ、然るべき儀式を踏むのだから」
「儀式…」
「まあ、貴殿には神威を得ることは難しいか」
狼は淡々と会話を続けており、源之進を襲う兆しはなかった。それでも自分と比べ物にならない力を秘め、妖気を納める技はまねできないものだ。霊験を授かるというよりも、その物であるように思えた。
惣兵衛は本坂通りをひたすら歩き続けて、まずは市野の付近でボロ屋に泊まり、それから東海道に合流して掛川かけがわ、藤枝ふじえだ、由比という具合に江戸に近付いている。
明日に向かう沼津からは箱根宿と関所への峠を歩かなければならない。
しかし、もはや東海道の楽しい旅気分ではなく、なんの旅情も満喫していなかった。
いちいち街道筋から離れて安宿や野宿できる場所を探すのは面倒だった。茣蓙を引いて、振り分けの籠を枕代わりに寝るのである。
「はあ…、ひもじいわ」
そうやって現実の苦労を忘れるため、目を瞑って過去を思い返していると、仲間との楽しい思い出と共に、一緒に働いていた頃の角谷のまじめな性格も蘇ってくる。
掃除から言葉遣いや仕事の行動手順に至るまで完ぺきにこなし、物事の判断基準も厳しかったことを思い出したのである。
なので、余計に奉公話を謝っても破断にならないかと現実の苦労に引き戻されたのであった。
○
その日の晩…、
先を行く源之進は箱根峠の御用林の中にいた。常人には緊張の関所破りであるけれど、なんとも呑気な面持ちである。
木々の合間から覗く夜空には月が輝いており、片手には酒の瓶が握られている。
「森は生気を取り戻し~!動物霊もお出迎え~!わしは異界の住人さ!」
謎の鼻歌を口ずさみ、提灯一つ持たずに暗闇を進んでいる。
番所に詰めている小田原藩の侍たちに見つかったら、きっと大騒ぎになるだろうが、辺りには虫の音が響くのみであった。
「おい、うつけ!」
少し離れた下草の合間から、何の気配も見せずに怪しい狼は歩み寄っていた。
「わっ!」
あまりに唐突だったので、源之進は久方ぶりに驚いて叫んだ。
その瞬間に必死の逃亡を試みるが、奇妙にも体が思うように動かない。まるで全身の神経を引っこ抜かれたかのように、意識を働かせても硬直しているのである。
「まあ…久し振りに相まみえるのだ。貴殿の苦労でも聞こうではないか?」
「く…、苦労…?」
不思議と口だけは動くようだ。
「本来は暮さざる場所なれば、渡世とせいの煤にまみれているはずだ」
「何を言いたのか分からんけど、わしは人間の世に馴染んどるぞ。この満身の疲労は浮世にまみれた証だぜ」
「ふん、なるほどな…」
狼は呆れたような口調で納得していた。
「…それよりも、こっちこそ四百年ぶりに口を利くのだから問いたいもんだ。幾たびもわしを付け狙う意はどこか?」
「ふむ…、ちょっとした興味なのだよ」
「では、あの崖の下に居たのは何故だ?」
源之進は会話に集中させて少しでも狼が近づくのを防ぎたい。
「あの坊主は貴殿に縁でもあるらしいな。なに…、死肉でも漁ろうかと思ってな」
「まだ息はあったのではなかろうな?」
「…さあて?我も世の理の外で暮らしているのは貴殿と同じだ。俗らしい享楽に身をやつしたくもなる」
「なら…」
どことなく真実ではないと感じる。仇討ちをしようとは思ってないが、父として慕った相手を食われたのなら源之進は知りたいのである。
「微かな血の匂いにつられてみたが、香が臭いので坊主は食わない趣味でな。さすがは仏の道にあると見えて、奴の魂は鬼哭するでもなく黄泉へ参ったぞ」
その言葉には嘘はないように感じ、問答の矛を収めた。
「ところで貴殿には異界の口を出る前の記憶がないようだな」
「…朧気には幼い自分を思い出せるが、…霧の中から抜け出して人間の幼子になっていたのも漠然として明瞭ではないからな。わしに異界に戻る方法はあるのかな?」
「どれだけ霊験を授かっても異界の口は開かぬ、然るべき儀式を踏むのだから」
「儀式…」
「まあ、貴殿には神威を得ることは難しいか」
狼は淡々と会話を続けており、源之進を襲う兆しはなかった。それでも自分と比べ物にならない力を秘め、妖気を納める技はまねできないものだ。霊験を授かるというよりも、その物であるように思えた。
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