上 下
9 / 21

望まずも追う身

しおりを挟む
 夜空で煌煌こうこうと輝く月が惣兵衛には不気味に思えた。

 「その傷は痛いだろう?お前さんを強く叩きすぎて後悔していたのだ」

 「はあ…」

 今更気遣われても承服できないが、どうしても荷物を取り返したい。

 「それより、ここで何をする気でしょうか?」

 「…うん?いやいや安心せい、お前を食うつもりはない。というか人間を食い物とは思ってないぞ」

 「なら…」

 「言ったように遊郭に赴く心づもりでな。申し訳ないが、今朝から何人か襲ったのだ。お前さんの路銀も足しにして遊郭で豪遊したいと思う」

 そう言って、惣兵衛の振り分け籠から手提げ袋を物色している。財布から少なからず詰まった路銀を嬉しそうに自分の手提げ袋に移し、残りは地面に捨てた。何とか荷は助かったのかもしれないが、無一文でどうやって東海道を旅すれば良いのか?

 奉行所に届け出ても妖怪に奪われましたと言っては、役人に頭のおかしい奴だと牢屋に入れられるのではないかと思った。

 「どうも満月の晩は盛っていけない。お前さんにも迷惑かけたが、野犬が近付かない様にここで焚火を焚いてやるから勘弁してくれよ」

 この雨でどこも濡れ切っている中で、どうやって見つけて来たのか分からないが、焚き付けの枝を取り出して薪をしている。しばらくはそうやって作業していると荷物を抱えだして、出立の準備を始めた。

 「たとえ道中で会っても判るまいよ。なんたって牢人は世に溢れているし、別の人間に化けているからな。お若い惣兵衛さん達者で」

 そのまま源之進は林に囲まれた丘から降りて行った。

 残された惣兵衛は体の痛みを抱えながらも、焚火の熱に誘われて不思議と心地よいのだった。そして、そのまま落伍らくごするように意識を失ってしまった。

                  ○

 日の出をとうに過ぎた頃である。

 「う…」

 鳥の鳴き声で少しずつ眠りから覚醒している。

 辺りはぼんやりと明るいが、曇り空なので実際には太陽はもっと高くに昇っているかもしれない。惣兵衛はパラパラと降る雨の滴で起きた。少しずつ体を動かすと昨日よりも断然に回復しているようだ。たった一晩でここまで治癒するものかと思われたが、霊験を授かったという存在なのだから、その焚火にもご利益があるのかもしれない。

 そう考えるが、自分をよくよく見れば違うのだと気付いた。

 「…どない考えても厄災を運ばれたわ。あの化け妖怪の奴はどこまで逃げよった。そや、江戸に向かうのなら川の上流か?」

 フラフラしながら立ち上がると、放置された振り分け籠の荷物を惣兵衛は確認する。すると、妖怪の顔を見た時のような、ぞっとする感覚に襲われた。

 「ない!どこにもないで」

 振り分けの籠に大事に布に包み、さらにそれを耐水のため油紙に包んで入れておいた角谷の文が無い。どこかに忘れてきたはずはない。籠はきつく縛ってあり、何かの拍子に何処かに転がっていくことはないはずだ。

 「あの妖怪か?昨夜には気づけへんかったぞ。いつの間に抜き出したんや」

 何で惣兵衛の大切な文を持って行くのだろうか?やはり妖怪というのは人間に悪戯いたずらする本分を持っているのか?

 今からではどう努力しても追い付けないような気がする。何と言っても、相手は妖怪の類なので追うのは正気の沙汰ではない。しかし、角谷の店の場所は手書きの地図で描かれており、あれがなければ辿り着くのは手探りの行為になる。

 茫然と考えていると雨足が強くなったので、煙が上がっている焚火を踏みしめてから、よろよろと丘を降りだした。

 下に降りてみると、何やら百姓たちが慌しく動き回っている。川が氾濫したと言うのは本当なのだろうか?若い百姓を捕まえて聞いてみた。

 「ちょっとそこの御方!」

 「何だい!この忙しいのに」

 男は忙しない様子である。

 「手前は旅の者ですが、この先の上流で川が氾濫したと聞いたのですが、本当でありましょうか?」

 「何を言っている!ここのつつみが破れそうなんだ!」

 どうやら下流の村落と畑を守るために百姓が頑張っているようだが、惣兵衛が知りたいのはこれから向かう中山道方面の状況だ。

 「それは大変でありますね。しかし、上の方で氾濫したと言う話を昨日聞いたのです?」

 「今朝まではそんな伝言は届いてないな」

 それだけ言って百姓は行ってしまった。

 (昨夜の源之進の話は偽りだったのだろうか?)

 路銀は袖とふんどしの中にも隠している。無一文になったわけではないが、惣兵衛は駄目元で再び籠の中身を見た。すると、小さい紙きれが入っているのに気づいたのである。

 「なんやこれ?」

 身に覚えのない紙きれで、そこにはこう書かれていた。

 〈惣兵衛へ。路銀が無くて大変だろう。ここからなら京都へ引き返すに遠くはない。角谷とやらにはわしから奉公を断るので心配召されるな。礼は不要成り。―源之進〉

 こんなふざけた伝文は初めてだ。惣兵衛に又も怒りが湧いてきた。

 「あの野郎!こうなったら軒先で野宿してでも江戸に着いてやる」

 惣兵衛もこうなったら意地だ。訳の分からない存在に商いの邪魔をされてたまるかという思いであった。

 しかし、惣兵衛は本当の意味での身銭だけが頼りだった。路銀が半分になったので、持参した食料も賢く使わなければならない。本当に野宿すれば江戸に辿り着くだけの雑費にはなるだろう?

 その様に決心して惣兵衛は一心不乱に歩き出した。

 「見つけたら頭どついたる」

 一人で文句を垂れながら歩いている。

 あの百姓が言っていた通りに、歩けども川が氾濫している場所は見当たらない。昨日は中山道への道程を半分ほどの場所で気絶させられていたので、一日の道程の半分ほどで着いた。

 その道中で太陽が昇るにつれて、天候は晴天になりつつあった。

 「さあて、渡し船は通っているやろか?」

 辺りの通行人もどんどん川沿いに上流に向かっている。どこに渡し船が待機しているか惣兵衛も注意深く探していると、川幅が狭くなっている場所で、それらしい物が遠くに見えた。

 辿り着いてみれば確かに渡し場である。しかも、善右衛門の予想した通りに川の両岸には木に括りつけられた紐が掛かっている。

 しかし、朝からの晴天で流れは大人しくなっている。

 「この先でも同じように渡れるやろか」

 源之進も待っていないかと探しても姿はなかった。

 駄目もとで船頭に訊ねると、朝一で牢人を乗せたという。昨日の内にここに来て、そのまま渡ったのだろう。船に乗れる人数には限界があり、惣兵衛は沢山の旅人とともに順番を並んで待つ事になった。

 そうやって一日中は順番を待つので日がどんどんと過ぎていき、最後の川に掛かっている渡しを通行する頃には日は暮れていた。惣兵衛はヘトヘトになりながらも中山道の鵜沼宿うぬまの手前まで到達し、安宿を取ったのである。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

戦国ニート~さくは弥三郎の天下一統の志を信じるか~

ちんぽまんこのお年頃
歴史・時代
戦国時代にもニートがいた!駄目人間・甲斐性無しの若殿・弥三郎の教育係に抜擢されたさく。ところが弥三郎は性的な欲求をさくにぶつけ・・・・。叱咤激励しながら弥三郎を鍛え上げるさく。廃嫡の話が持ち上がる中、迎える初陣。敵はこちらの2倍の大軍勢。絶体絶命の危機をさくと弥三郎は如何に乗り越えるのか。実在した戦国ニートのサクセスストーリー開幕。

蘭癖高家

八島唯
歴史・時代
 一八世紀末、日本では浅間山が大噴火をおこし天明の大飢饉が発生する。当時の権力者田沼意次は一〇代将軍家治の急死とともに失脚し、その後松平定信が老中首座に就任する。  遠く離れたフランスでは革命の意気が揚がる。ロシアは積極的に蝦夷地への進出を進めており、遠くない未来ヨーロッパの船が日本にやってくることが予想された。  時ここに至り、老中松平定信は消極的であるとはいえ、外国への備えを画策する。  大権現家康公の秘中の秘、後に『蘭癖高家』と呼ばれる旗本を登用することを―― ※挿絵はAI作成です。

おむつオナニーやりかた

rtokpr
エッセイ・ノンフィクション
おむつオナニーのやりかたです

鬼媛烈風伝

坂崎文明
歴史・時代
大和朝廷の<吉備津彦>による吉備討伐軍 VS 鬼ノ城の鬼神<温羅>の「鬼ノ城の戦い」から数年後、讃岐の「鬼無しの里」からひとりの少女が吉備に訪れる。大和朝廷の<吉備津彦>による吉備討伐軍 VS 鬼ノ城の鬼神<温羅>の「鬼ノ城の戦い」から数年後、讃岐の「鬼無しの里」からひとりの少女が吉備に訪れる。 鬼媛と呼ばれた少女<百瀬媛>は、兄の風羅(ふうら)との出会いによって吉備の反乱に巻き込まれていく。 騒乱のるつぼと化した吉備。 再び、戦乱の最前線に立つ吉備津彦と姉の大和朝廷最強の巫女<百襲媛>たち、混乱の中で死んだはずのあの男が帰ってくる!  鬼媛と稚猿彦の出会い、「鬼ノ城戦記」、若い世代の物語。

令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました

フルーツパフェ
大衆娯楽
 とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。  曰く、全校生徒はパンツを履くこと。  生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?  史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。

生意気な女の子久しぶりのお仕置き

恩知らずなわんこ
現代文学
久しくお仕置きを受けていなかった女の子彩花はすっかり調子に乗っていた。そんな彩花はある事から久しぶりに厳しいお仕置きを受けてしまう。

明治仕舞屋顛末記

祐*
歴史・時代
大政奉還から十余年。年号が明治に変わってしばらく過ぎて、人々の移ろいとともに、動乱の傷跡まで忘れられようとしていた。 東京府と名を変えた江戸の片隅に、騒動を求めて動乱に留まる輩の吹き溜まり、寄場長屋が在る。 そこで、『仕舞屋』と呼ばれる裏稼業を営む一人の青年がいた。 彼の名は、手島隆二。またの名を、《鬼手》の隆二。 金払いさえ良ければ、鬼神のごとき強さで何にでも『仕舞』をつけてきた仕舞屋《鬼手》の元に舞い込んだ、やくざ者からの依頼。 破格の報酬に胸躍らせたのも束の間、調べを進めるにしたがって、その背景には旧時代の因縁が絡み合い、出会った志士《影虎》とともに、やがて《鬼手》は、己の過去に向き合いながら、新時代に生きる道を切り開いていく。 *明治初期、史実・実在した歴史上の人物を交えて描かれる 創 作 時代小説です *登場する実在の人物、出来事などは、筆者の見解や解釈も交えており、フィクションとしてお楽しみください

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

処理中です...