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鈴鹿峠の段
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その晩、
「…東海道に賊は出ることはないよな。毎日のように旅人が通るのだから熊だって避けるはずや」
宿で汚れた足袋などを桶で洗い、夜具に潜り込んだ惣兵衛は考えた。
商人としての仕事作法は嫌というほど習っているけれど、まだまだ世間知らずな部分もある。初めての経験に武者震いを覚えつつも、漠然とした不安に気を張り詰めなければ逆に安心できないのである。とは言っても、明日の山越えをひかえて体を休めないわけにもいかない。
惣兵衛は初めて寝るのにも体力を使うと知った。
翌朝、鳥のけたたましい鳴き声に驚きながら起床する。部屋を出ると、宿の囲炉裏を囲んだ客たちは峠について話し合っている。そこに一人だけ峠を越えてきた泊り客がいて、危ない場所での注意点を教えてくれた。
大雨の後で倒木があるのと、砂利が滑りやすくなっていることに気を付けろと言う。
「あんた。登山よりも土砂崩れは大丈夫だろうかね?」
客の一人は言った。
「そりゃあ心配の種でしたがね。アッシの時には山肌は無傷だったよ」
「危険ならば日を伸ばそうか?」
他の客人が話した。
「いやいや。この時期はいつ雨が降るか分からんさ。伸ばしたら峠を越えられるのは梅雨明けになりますよ」
間髪を入れずに今度は宿の主人が教えてくれる。
「ああ、難儀な時に旅に出たな」
周りの客と共に惣兵衛は腕を組みながら思案する。
宿を出ると旅人たちに杖を配っている土地の者たちが居り、惣兵衛もありがたく頂戴した。ともかく山は登れるのだから出発する所存であった。いよいよ麓の一里塚を前にして旅人たちは協力しようと言いあう。集団でいれば賊も熊も近寄っては来ないだろうとの考えだ。
「いよいよ山歩きや」
山歩きに慣れているという男が先達をして、山道を一列となって登ってゆく。道は幕府の命で土地の人間によって手入れされていたので迷うことはないけれど、山中の環境は雨によってところどころ影響を受けているようだった。
たった二日の道中でネを上げるわけにはいかないが、この山道にはどっと疲労を蓄えられる。
「ここらで休もうじゃないか?」
半刻もすると、先達していた男が歩みを止めて言った。
「やった」
惣兵衛は近くの岩に倒れるように座り込んだ。
横を沢が流れており、各々は水を汲んで飲んでいる。
惣兵衛は石に腰かけて座っていると旅の仲間に声をかけられた。洛外の百姓だという仙蔵はお陰参りのために旅をしているらしく、五年間も道で野菜を売って路銀を貯めていたらしい。今年で元服したので出発したようだった。
京都では長年の知り合いだらけだったので、この出会いだけでも惣兵衛には新鮮だ。それから休憩になるたびに彼と話をしていた。
そうして昼飯を食べた後であった。
「なんだ…、こりゃあ?」
先を歩く先達の男は声を荒げている。
何事かと後ろから顔を出すと男の視線を注意深く追った。すると、山中の地面に家屋の屋根瓦が散乱している。さらに目を凝らすと家の柱と思しき古い木材が地面から顔を出していた。
「戦国の世の隠れ里か?」
まるで知っているかのように、仙蔵はいかにも玄人らしく云った。
(そんなあほな…)
この場所は何だろうかと皆が不思議に思っていると、年長の男が話し出した。
「多分だけども、これは昔の坂下の宿場跡地じゃないかな?」
「むかし…?」
男の話によると大雨によって坂下宿は一度無くなっているらしい。目的地の今の坂下宿は数里先に再建された。
「なるほど」
仙蔵は外したけれど予想の範疇のような言い方だった。
「だったら、仏様のために皆で拝んでから進もうやないか」
「そうやのう」
皆も同意して手を合わせた。こうして宗派は異なるけれども旅人たちは同じ思いで祈ったのである。
しばらくすると、峠の向こう側の景色も見えるようになった。
「久しぶりの海や」
惣兵衛はきれいな景色を見るだけで心身を癒す。
街道の一番高い場所に辿り着くと、遠くの方に町や海が微かに見える。琵琶湖と違って水平線に広がる海を見ると、湾曲していて世界の端であるかのようだ。
下り道では足を踏み外す人間が増えて、土山の麓で貰った杖が役に立った。
さらにしばらくすると麓に屋根も見える。
「あれ坂下宿やろう?」
嬉しそうに仙蔵が指を指して叫ぶ。
彼の明察の通り、道に沿って町屋が並ぶ場所は伊勢の坂下だろう。
「うん。あとちょっとだな」
「嬉しや」
坂を下る足運びも軽快になった。
険しい山道に惣兵衛の足も疲労で棒になっている。しかも、謎の獣の鳴き声や下草を揺らす音に心身も削られていた。仲間には恥ずかしくて言えないが、山を知らない惣兵衛には恐ろしい魑魅魍魎の潜む場所に感じられるのである。
それでも麓の宿場が見えると元気になり、少しすると宿場に到着したのだった。
「…東海道に賊は出ることはないよな。毎日のように旅人が通るのだから熊だって避けるはずや」
宿で汚れた足袋などを桶で洗い、夜具に潜り込んだ惣兵衛は考えた。
商人としての仕事作法は嫌というほど習っているけれど、まだまだ世間知らずな部分もある。初めての経験に武者震いを覚えつつも、漠然とした不安に気を張り詰めなければ逆に安心できないのである。とは言っても、明日の山越えをひかえて体を休めないわけにもいかない。
惣兵衛は初めて寝るのにも体力を使うと知った。
翌朝、鳥のけたたましい鳴き声に驚きながら起床する。部屋を出ると、宿の囲炉裏を囲んだ客たちは峠について話し合っている。そこに一人だけ峠を越えてきた泊り客がいて、危ない場所での注意点を教えてくれた。
大雨の後で倒木があるのと、砂利が滑りやすくなっていることに気を付けろと言う。
「あんた。登山よりも土砂崩れは大丈夫だろうかね?」
客の一人は言った。
「そりゃあ心配の種でしたがね。アッシの時には山肌は無傷だったよ」
「危険ならば日を伸ばそうか?」
他の客人が話した。
「いやいや。この時期はいつ雨が降るか分からんさ。伸ばしたら峠を越えられるのは梅雨明けになりますよ」
間髪を入れずに今度は宿の主人が教えてくれる。
「ああ、難儀な時に旅に出たな」
周りの客と共に惣兵衛は腕を組みながら思案する。
宿を出ると旅人たちに杖を配っている土地の者たちが居り、惣兵衛もありがたく頂戴した。ともかく山は登れるのだから出発する所存であった。いよいよ麓の一里塚を前にして旅人たちは協力しようと言いあう。集団でいれば賊も熊も近寄っては来ないだろうとの考えだ。
「いよいよ山歩きや」
山歩きに慣れているという男が先達をして、山道を一列となって登ってゆく。道は幕府の命で土地の人間によって手入れされていたので迷うことはないけれど、山中の環境は雨によってところどころ影響を受けているようだった。
たった二日の道中でネを上げるわけにはいかないが、この山道にはどっと疲労を蓄えられる。
「ここらで休もうじゃないか?」
半刻もすると、先達していた男が歩みを止めて言った。
「やった」
惣兵衛は近くの岩に倒れるように座り込んだ。
横を沢が流れており、各々は水を汲んで飲んでいる。
惣兵衛は石に腰かけて座っていると旅の仲間に声をかけられた。洛外の百姓だという仙蔵はお陰参りのために旅をしているらしく、五年間も道で野菜を売って路銀を貯めていたらしい。今年で元服したので出発したようだった。
京都では長年の知り合いだらけだったので、この出会いだけでも惣兵衛には新鮮だ。それから休憩になるたびに彼と話をしていた。
そうして昼飯を食べた後であった。
「なんだ…、こりゃあ?」
先を歩く先達の男は声を荒げている。
何事かと後ろから顔を出すと男の視線を注意深く追った。すると、山中の地面に家屋の屋根瓦が散乱している。さらに目を凝らすと家の柱と思しき古い木材が地面から顔を出していた。
「戦国の世の隠れ里か?」
まるで知っているかのように、仙蔵はいかにも玄人らしく云った。
(そんなあほな…)
この場所は何だろうかと皆が不思議に思っていると、年長の男が話し出した。
「多分だけども、これは昔の坂下の宿場跡地じゃないかな?」
「むかし…?」
男の話によると大雨によって坂下宿は一度無くなっているらしい。目的地の今の坂下宿は数里先に再建された。
「なるほど」
仙蔵は外したけれど予想の範疇のような言い方だった。
「だったら、仏様のために皆で拝んでから進もうやないか」
「そうやのう」
皆も同意して手を合わせた。こうして宗派は異なるけれども旅人たちは同じ思いで祈ったのである。
しばらくすると、峠の向こう側の景色も見えるようになった。
「久しぶりの海や」
惣兵衛はきれいな景色を見るだけで心身を癒す。
街道の一番高い場所に辿り着くと、遠くの方に町や海が微かに見える。琵琶湖と違って水平線に広がる海を見ると、湾曲していて世界の端であるかのようだ。
下り道では足を踏み外す人間が増えて、土山の麓で貰った杖が役に立った。
さらにしばらくすると麓に屋根も見える。
「あれ坂下宿やろう?」
嬉しそうに仙蔵が指を指して叫ぶ。
彼の明察の通り、道に沿って町屋が並ぶ場所は伊勢の坂下だろう。
「うん。あとちょっとだな」
「嬉しや」
坂を下る足運びも軽快になった。
険しい山道に惣兵衛の足も疲労で棒になっている。しかも、謎の獣の鳴き声や下草を揺らす音に心身も削られていた。仲間には恥ずかしくて言えないが、山を知らない惣兵衛には恐ろしい魑魅魍魎の潜む場所に感じられるのである。
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