上 下
210 / 228

強者の郷【8】

しおりを挟む
 澪が母親の姿を思い出させるその朱々の仕草を見ても、傷痕にあの軋むような焼けるような痛みを感じなくなっていたのは、隣にいる歩澄のお陰である。
 何度も歩澄と体を重ねる内に、澪の感覚も記憶も歩澄でいっぱいになっていく。
 そのことに澪本人はまるで気付いていないが、おそらく朱々は優美に舞を踊るのだろうなと思った。

「堅苦しい挨拶はもうよいだろう。せっかく出向いてきたんだ。思う存分飲んでいけ。洸烈郷一の酒を用意した」

 煌明がそう言うと、歩澄は口角を上げ「こちらも酒を用意した。異国から輸入したばかりの上質な酒だ」と秀虎に用意させた酒を並べた。
 澪には全て見たことのない酒であった。透明のものから茶色、赤色と色とりどりである。澪はこれが酒なのかと首を傾げるが、煌明は相反して身を乗り出した。

 煌明が酒豪であるのは有名な話で、特に高価な酒には目がない。潤銘郷を通じて異国の酒を入荷すればそれなりに金はかかる。それどそれを土産にと並べられれば、喉を鳴らさずにはいられなかった。

 当然それを知っている歩澄は、散々手土産を持たずにやって来て、ここぞとばかりに大量の酒を持ち入ったのだ。

「どれも潤銘郷でしか手に入らぬものだ。欲しがっていただろう。澪まで招いてくれた礼だ」

 そう言ってその中から美しい木箱に入ったままの酒を差し出した。それは、一本一両は下らない酒である。潤銘郷ほど裕福でない洸烈郷のこと。毎日飲めるような代物ではない。喉から手が出るほど欲しいが、酒のためにそこまで経費は使えぬと我慢してきたものであった。

「こ、これは……おい! 直ぐに宴の準備をしろ! いや、まず酒だけいただこう!」

 我慢ができないのか、逸る気持ちが前面に出でいる煌明。目を丸くした澪が歩澄を見上げれば、肩をすくめておかしそうに笑った。


 慌てた様子の家来達が騒々しく準備を進めた。先に持ってこさせた器に豪快に酒を注ぐ煌明。もはや客人には目もくれず、酒に夢中である。

「煌明様、お客様に失礼ではありませぬか」

 眉を下げた朱々がそう言う。しかし煌明は「俺と歩澄の仲だ。お前が気にするようなことではない」と言って高価なその酒をぐっと煽った。

「かーっ! うめー! こりゃうめぇ酒だな!」

 上機嫌な煌明は、最初の殺気はどこへやら、子供のように夢中で酒と向き合う。空穏は、目頭を押さえて項垂れていた。

 澪が歩澄の袖をくいくいと引っ張り「仲良しなのですか?」と尋ねる。

「まさか。あやつが信用しているのは酒だけだ。逆を言えば酒さえ与えておけば害はない」

 馬鹿にするかのような物言いに、澪はつい笑ってしまいそうになるのを堪えた。

 一人で酒を飲む煌明をそのままに、酒を手にした朱々が歩澄と澪の前にやってきた。
 
「このようなもてなしとなってしまい、申し訳ありません」

 非常に申し訳ない。そのような表情を浮かべた。近くで見ると更に美しく、まるで作り物のようだと澪は思った。
 
「いや、よい。立場は同じだ。気にもとめていない」

 緩やかにそう言った歩澄は、朱々の手から酌を受け入れる。

「寛容なお心遣いをありがとうございます。澪殿もどうぞ」

 紬とは違い、朱々は澪に攻撃的な視線を投げつけることはなかった。しかし、未だ拭えない作り物のような表情に気味悪さは付きまとう。敵意は見せないものの、温もりのある穏やかな笑顔とも少し違う気がした。

「悪いが、澪は酒がだめでな。茶をもらえるか」

 澪が言うよりも先に歩澄が言った。洸烈郷では男女問わず酒飲みが多く、朱々は驚いたように「まあ……」と思わず声が溢れた。

「このように美味なものを口にできないとは、残念ですね」

 まるで哀れむかのような目を向けられ、澪は苦笑いを浮かべた。

「直ぐに用意させます故」

 そう言って一旦朱々が離れると、澪は歩澄に向かって「……ここは感覚が少し違いますね」と言った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と叫んだら長年の婚約者だった新妻に「気持ち悪い」と言われた上に父にも予想外の事を言われた男とその浮気女の話

ラララキヲ
恋愛
 長年の婚約者を欺いて平民女と浮気していた侯爵家長男。3年後の白い結婚での離婚を浮気女に約束して、新妻の寝室へと向かう。  初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と愛する夫から宣言された無様な女を嘲笑う為だけに。  しかし寝室に居た妻は……  希望通りの白い結婚と愛人との未来輝く生活の筈が……全てを周りに知られていた上に自分の父親である侯爵家当主から言われた言葉は──  一人の女性を蹴落として掴んだ彼らの未来は……── <【ざまぁ編】【イリーナ編】【コザック第二の人生編(ザマァ有)】となりました> ◇テンプレ浮気クソ男女。 ◇軽い触れ合い表現があるのでR15に ◇ふんわり世界観。ゆるふわ設定。 ◇ご都合展開。矛盾は察して下さい… ◇なろうにも上げてます。 ※HOTランキング入り(1位)!?[恋愛::3位]ありがとうございます!恐縮です!期待に添えればよいのですがッ!!(;><)

いや、あんたらアホでしょ

青太郎
恋愛
約束は3年。 3年経ったら離縁する手筈だったのに… 彼らはそれを忘れてしまったのだろうか。 全7話程の短編です。

政略より愛を選んだ結婚。~後悔は十年後にやってきた。~

つくも茄子
恋愛
幼い頃からの婚約者であった侯爵令嬢との婚約を解消して、学生時代からの恋人と結婚した王太子殿下。 政略よりも愛を選んだ生活は思っていたのとは違っていた。「お幸せに」と微笑んだ元婚約者。結婚によって去っていた側近達。愛する妻の妃教育がままならない中での出産。世継ぎの王子の誕生を望んだものの産まれたのは王女だった。妻に瓜二つの娘は可愛い。無邪気な娘は欲望のままに動く。断罪の時、全てが明らかになった。王太子の思い描いていた未来は元から無かったものだった。後悔は続く。どこから間違っていたのか。 他サイトにも公開中。

転生テイマー、異世界生活を楽しむ

さっちさん
ファンタジー
題名変更しました。 内容がどんどんかけ離れていくので… ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ ありきたりな転生ものの予定です。 主人公は30代後半で病死した、天涯孤独の女性が幼女になって冒険する。 一応、転生特典でスキルは貰ったけど、大丈夫か。私。 まっ、なんとかなるっしょ。

【完結】平凡な魔法使いですが、国一番の騎士に溺愛されています

空月
ファンタジー
この世界には『善い魔法使い』と『悪い魔法使い』がいる。 『悪い魔法使い』の根絶を掲げるシュターメイア王国の魔法使いフィオラ・クローチェは、ある日魔法の暴発で幼少時の姿になってしまう。こんな姿では仕事もできない――というわけで有給休暇を得たフィオラだったが、一番の友人を自称するルカ=セト騎士団長に、何故かなにくれとなく世話をされることに。 「……おまえがこんなに子ども好きだとは思わなかった」 「いや、俺は子どもが好きなんじゃないよ。君が好きだから、子どもの君もかわいく思うし好きなだけだ」 そんなことを大真面目に言う国一番の騎士に溺愛される、平々凡々な魔法使いのフィオラが、元の姿に戻るまでと、それから。 ◆三部完結しました。お付き合いありがとうございました。(2024/4/4)

素材採取家の異世界旅行記

木乃子増緒
ファンタジー
28歳会社員、ある日突然死にました。謎の青年にとある惑星へと転生させられ、溢れんばかりの能力を便利に使って地味に旅をするお話です。主人公最強だけど最強だと気づいていない。 可愛い女子がやたら出てくるお話ではありません。ハーレムしません。恋愛要素一切ありません。 個性的な仲間と共に素材採取をしながら旅を続ける青年の異世界暮らし。たまーに戦っています。 このお話はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。 裏話やネタバレはついったーにて。たまにぼやいております。 この度アルファポリスより書籍化致しました。 書籍化部分はレンタルしております。

婚約破棄されまして(笑)

竹本 芳生
恋愛
1・2・3巻店頭に無くても書店取り寄せ可能です! (∩´∀`∩) コミカライズ1巻も買って下さると嬉しいです! (∩´∀`∩) イラストレーターさん、漫画家さん、担当さん、ありがとうございます! ご令嬢が婚約破棄される話。 そして破棄されてからの話。 ふんわり設定で見切り発車!書き始めて数行でキャラが勝手に動き出して止まらない。作者と言う名の字書きが書く、どこに向かってるんだ?とキャラに問えば愛の物語と言われ恋愛カテゴリーに居続ける。そんなお話。 飯テロとカワイコちゃん達だらけでたまに恋愛モードが降ってくる。 そんなワチャワチャしたお話し。な筈!

シルバーヒーローズ!〜異世界でも現世でもまだまだ現役で大暴れします!〜

紫南
ファンタジー
◇◇◇異世界冒険、ギルド職員から人生相談までなんでもござれ!◇◇◇ 『ふぁんたじーってやつか?』 定年し、仕事を退職してから十年と少し。 宗徳(むねのり)は妻、寿子(ひさこ)の提案でシルバー派遣の仕事をすると決めた。 しかし、その内容は怪しいものだった。 『かつての経験を生かし、異世界を救う仕事です!』 そんな胡散臭いチラシを見せられ、半信半疑で面接に向かう。 ファンタジーも知らない熟年夫婦が異世界で活躍!? ーー勇者じゃないけど、もしかして最強!? シルバー舐めんなよ!! 元気な老夫婦の異世界お仕事ファンタジー開幕!!

処理中です...