上 下
255 / 289
婚姻届

【40】

しおりを挟む
「先生は、奏ちゃんがパリに行く間どうするんですか?」

「僕は、仕事が休めないので一緒に行くのは無理なんです。でも、土日は完全に休みなので金曜日の仕事終わりに直に行く予定です。時差があるから、一緒にいられる時間は限られていますけどね」

 そう言って彼は、ふわりと笑った。

 クリニックなら土曜日は午前中診察があったりするのだろうが、古河医師の勤める病院は総合病院であるため、土日の外来が完全に休診となる。
 その貴重な休みを使ってフランスまで行くのだから、相当奏ちゃんに惚れ込んでいるのだろう。

「そうですか。気を付けて行ってきて下さいね。もちろん、奏ちゃんも」

「うん。まあ……、ヨーロッパは初めてじゃないし、何とかなるかも」

 意外にも平然としている奏ちゃん。もっと不安そうにしていてもおかしくはないのに。
 あのオシャレな一家の娘だし、ダリアさんはロシア人の母親がいるし、子供の頃から海外に行く機会が多かったとは聞いていたけれど、それにしたって初日は1人で向かうだろうに頼もしい限りだ。

「何か、凄いなぁ……。私は、1人で海外なんて無理だよ」

「でしょうね」

「なっ……」

 あっさり肯定されてしまい、はっとして顔を上げれば、おかしそうにクスクスと笑う彼女。こんなふうにからかわれると、本当に律くんと一緒にいるみたいだ。

「1人で行く機会なんてないだろうから大丈夫でしょ。どうせあっくんと一緒に行くわけだし」

「う、うん……。2人で旅行も不安がないわけじゃないけど……」

「何で?」

「え? だって土地勘もないし、言葉の壁もあるし」

「ああ。あっくん、フランス語も英語もペラペラだから大丈夫だよ」

「えぇ!?」

 思わず二度見する私。彼が頭がいいだろうことはわかっていたけれど、まさかそこまでとは……。

「あっくんやりっちゃん程じゃないけど、私もフランス語喋れるし。だからあんまりパリに行くことに抵抗ないのかも」

「えー……。守屋家ってどうなってんの?」

「どうなってるって……。子供の頃は、よくホームパーティーを開いたり、招待されたりしたんだよ。お母さんの友達はほとんど外国人だったからね。皆、日本語を話せたけど、お母さんが語学に堪能だから自然と現地の言葉に戻るんだよね。聞いてる内に覚えたのもあるけど、お父さんがこれからはきっと、グローバル化する時代だから、語学力は身につけておいた方がいいって言って習わされたんだ」

「グローバル化が進む時代って……20年くらい前の話ってことだよね?」

「うん。でも、周りも幼稚園くらいから英語は習ってる子多かったよ」

 記憶を辿るかのように、一瞬視線を外し、そう答えた。
 奏ちゃんはもっと世間知らずで、失礼だけど律くんやあまねくんと比べると学力も劣るものだと思っていた。しかし、彼女にはおそらく同年代の子達よりも優れたものをいくつももっている。

「そっか……。時代は変わるねぇ……」

「ねぇ、うちのおばあちゃんみたいなこと言わないでよ」

「え!? おばあちゃん、そんなこと言ってたっけ!?」

「言うよ。おばあちゃんと一緒にい過ぎて、似てきてんじゃないの」

「えー……」

 そりゃ確かに、守屋家に行けばずっとおばあちゃんとダリアさんと一緒にいるし、実家に帰ってきていても、仕事で誰もいなくて暇になれば、いつも遊びに行っていた。

 あの穏やかな雰囲気に癒されてしまうし、当然あまねくんや奏ちゃんと過ごす時間よりもおばあちゃんとダリアさんと過ごす時間の方が多いわけだから、普段からしている会話がぽろっと出てしまってもおかしくはない。

「何だか、昔の話を聞くことが多いから、今無職だし今の時代のことより過去に触れることの方が多いしね……。それでかも。私も仕事探そう……」

「そろそろ働くの?」

「うん。奏ちゃん見てたら、私も働きたくなってきたよ」

「そもそも嫌で辞めた仕事じゃないしね。あの男はもう県外にいるんでしょ?」

「うん。多分もうこっちに戻ってくるのは無理だから、危険はないかな」

「そう。足、動かないんだっけ?」

「うん。刺された時に脊髄損傷したみたいでね、下半身不随だってさ」

「ふーん。まあ、自業自得だけど、意識戻ったら足動かなかったとか考えただけで地獄だよね」

 奏ちゃんはそう言って、アイスティーを口元に持っていき、その小さな唇でストローを咥えた。

 磯部さんから連絡が来たのが10日前のことだ。雅臣の意識が戻り、呼吸器も外れたとのことだった。内臓の機能は回復に向かっているが、腰から下が動かない事に気付き、検査をしたようだ。最後にうつ伏せ状態で刺された時に腰椎、脊髄を損傷したらしい。
 最初の一撃だって大ダメージだっただろうが、それだけなら彼は意識を取り戻した後も全身の回復を待つだけで済んだことだろう。

 今更そんなことを言ってもどうにもならないが、今は彼の体の回復を待つのみ。それを待ってから、私との裁判が始まる。

 いつになるかわからない途方もない待ち時間。何年かかるかねぇなんて実家で話していたら、このままでは姉のように婚期を逃すと思ったのか、あの父が「彼が県外に行って身動きできないなら、そう危険もないだろうし、そろそろ籍くらい入れたらどうだ」なんて言い出した。

 母と一緒になって驚いたけれど、このまま2年も3年も裁判が終わらなければ、結婚はおろか子供を産むリスクも高まるだけだ。
 さすがに娘の命にも関わってくるとなれば、父もいつまでも意地を張っているわけにもいかなくなったようだった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

これ以上ヤったら●っちゃう!

ヘロディア
恋愛
彼氏が変態である主人公。 いつも自分の部屋に呼んで戯れていたが、とうとう彼の部屋に呼ばれてしまい…

隣の人妻としているいけないこと

ヘロディア
恋愛
主人公は、隣人である人妻と浮気している。単なる隣人に過ぎなかったのが、いつからか惹かれ、見事に関係を築いてしまったのだ。 そして、人妻と付き合うスリル、その妖艶な容姿を自分のものにした優越感を得て、彼が自惚れるには十分だった。 しかし、そんな日々もいつかは終わる。ある日、ホテルで彼女と二人きりで行為を進める中、主人公は彼女の着物にGPSを発見する。 彼女の夫がしかけたものと思われ…

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

初めてなら、本気で喘がせてあげる

ヘロディア
恋愛
美しい彼女の初めてを奪うことになった主人公。 初めての体験に喘いでいく彼女をみて興奮が抑えられず…

女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。

矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。 女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。 取って付けたようなバレンタインネタあり。 カクヨムでも同内容で公開しています。

夜の公園、誰かが喘いでる

ヘロディア
恋愛
塾の居残りに引っかかった主人公。 しかし、帰り道に近道をしたところ、夜の公園から喘ぎ声が聞こえてきて…

ミックスド★バス~家のお風呂なら誰にも迷惑をかけずにイチャイチャ?~

taki
恋愛
【R18】恋人同士となった入浴剤開発者の温子と営業部の水川。 お互いの部屋のお風呂で、人目も気にせず……♥ えっちめシーンの話には♥マークを付けています。 ミックスド★バスの第5弾です。

先生!放課後の隣の教室から女子の喘ぎ声が聴こえました…

ヘロディア
恋愛
居残りを余儀なくされた高校生の主人公。 しかし、隣の部屋からかすかに女子の喘ぎ声が聴こえてくるのであった。 気になって覗いてみた主人公は、衝撃的な光景を目の当たりにする…

処理中です...