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婚姻届
【40】
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「先生は、奏ちゃんがパリに行く間どうするんですか?」
「僕は、仕事が休めないので一緒に行くのは無理なんです。でも、土日は完全に休みなので金曜日の仕事終わりに直に行く予定です。時差があるから、一緒にいられる時間は限られていますけどね」
そう言って彼は、ふわりと笑った。
クリニックなら土曜日は午前中診察があったりするのだろうが、古河医師の勤める病院は総合病院であるため、土日の外来が完全に休診となる。
その貴重な休みを使ってフランスまで行くのだから、相当奏ちゃんに惚れ込んでいるのだろう。
「そうですか。気を付けて行ってきて下さいね。もちろん、奏ちゃんも」
「うん。まあ……、ヨーロッパは初めてじゃないし、何とかなるかも」
意外にも平然としている奏ちゃん。もっと不安そうにしていてもおかしくはないのに。
あのオシャレな一家の娘だし、ダリアさんはロシア人の母親がいるし、子供の頃から海外に行く機会が多かったとは聞いていたけれど、それにしたって初日は1人で向かうだろうに頼もしい限りだ。
「何か、凄いなぁ……。私は、1人で海外なんて無理だよ」
「でしょうね」
「なっ……」
あっさり肯定されてしまい、はっとして顔を上げれば、おかしそうにクスクスと笑う彼女。こんなふうにからかわれると、本当に律くんと一緒にいるみたいだ。
「1人で行く機会なんてないだろうから大丈夫でしょ。どうせあっくんと一緒に行くわけだし」
「う、うん……。2人で旅行も不安がないわけじゃないけど……」
「何で?」
「え? だって土地勘もないし、言葉の壁もあるし」
「ああ。あっくん、フランス語も英語もペラペラだから大丈夫だよ」
「えぇ!?」
思わず二度見する私。彼が頭がいいだろうことはわかっていたけれど、まさかそこまでとは……。
「あっくんやりっちゃん程じゃないけど、私もフランス語喋れるし。だからあんまりパリに行くことに抵抗ないのかも」
「えー……。守屋家ってどうなってんの?」
「どうなってるって……。子供の頃は、よくホームパーティーを開いたり、招待されたりしたんだよ。お母さんの友達はほとんど外国人だったからね。皆、日本語を話せたけど、お母さんが語学に堪能だから自然と現地の言葉に戻るんだよね。聞いてる内に覚えたのもあるけど、お父さんがこれからはきっと、グローバル化する時代だから、語学力は身につけておいた方がいいって言って習わされたんだ」
「グローバル化が進む時代って……20年くらい前の話ってことだよね?」
「うん。でも、周りも幼稚園くらいから英語は習ってる子多かったよ」
記憶を辿るかのように、一瞬視線を外し、そう答えた。
奏ちゃんはもっと世間知らずで、失礼だけど律くんやあまねくんと比べると学力も劣るものだと思っていた。しかし、彼女にはおそらく同年代の子達よりも優れたものをいくつももっている。
「そっか……。時代は変わるねぇ……」
「ねぇ、うちのおばあちゃんみたいなこと言わないでよ」
「え!? おばあちゃん、そんなこと言ってたっけ!?」
「言うよ。おばあちゃんと一緒にい過ぎて、似てきてんじゃないの」
「えー……」
そりゃ確かに、守屋家に行けばずっとおばあちゃんとダリアさんと一緒にいるし、実家に帰ってきていても、仕事で誰もいなくて暇になれば、いつも遊びに行っていた。
あの穏やかな雰囲気に癒されてしまうし、当然あまねくんや奏ちゃんと過ごす時間よりもおばあちゃんとダリアさんと過ごす時間の方が多いわけだから、普段からしている会話がぽろっと出てしまってもおかしくはない。
「何だか、昔の話を聞くことが多いから、今無職だし今の時代のことより過去に触れることの方が多いしね……。それでかも。私も仕事探そう……」
「そろそろ働くの?」
「うん。奏ちゃん見てたら、私も働きたくなってきたよ」
「そもそも嫌で辞めた仕事じゃないしね。あの男はもう県外にいるんでしょ?」
「うん。多分もうこっちに戻ってくるのは無理だから、危険はないかな」
「そう。足、動かないんだっけ?」
「うん。刺された時に脊髄損傷したみたいでね、下半身不随だってさ」
「ふーん。まあ、自業自得だけど、意識戻ったら足動かなかったとか考えただけで地獄だよね」
奏ちゃんはそう言って、アイスティーを口元に持っていき、その小さな唇でストローを咥えた。
磯部さんから連絡が来たのが10日前のことだ。雅臣の意識が戻り、呼吸器も外れたとのことだった。内臓の機能は回復に向かっているが、腰から下が動かない事に気付き、検査をしたようだ。最後にうつ伏せ状態で刺された時に腰椎、脊髄を損傷したらしい。
最初の一撃だって大ダメージだっただろうが、それだけなら彼は意識を取り戻した後も全身の回復を待つだけで済んだことだろう。
今更そんなことを言ってもどうにもならないが、今は彼の体の回復を待つのみ。それを待ってから、私との裁判が始まる。
いつになるかわからない途方もない待ち時間。何年かかるかねぇなんて実家で話していたら、このままでは姉のように婚期を逃すと思ったのか、あの父が「彼が県外に行って身動きできないなら、そう危険もないだろうし、そろそろ籍くらい入れたらどうだ」なんて言い出した。
母と一緒になって驚いたけれど、このまま2年も3年も裁判が終わらなければ、結婚はおろか子供を産むリスクも高まるだけだ。
さすがに娘の命にも関わってくるとなれば、父もいつまでも意地を張っているわけにもいかなくなったようだった。
「僕は、仕事が休めないので一緒に行くのは無理なんです。でも、土日は完全に休みなので金曜日の仕事終わりに直に行く予定です。時差があるから、一緒にいられる時間は限られていますけどね」
そう言って彼は、ふわりと笑った。
クリニックなら土曜日は午前中診察があったりするのだろうが、古河医師の勤める病院は総合病院であるため、土日の外来が完全に休診となる。
その貴重な休みを使ってフランスまで行くのだから、相当奏ちゃんに惚れ込んでいるのだろう。
「そうですか。気を付けて行ってきて下さいね。もちろん、奏ちゃんも」
「うん。まあ……、ヨーロッパは初めてじゃないし、何とかなるかも」
意外にも平然としている奏ちゃん。もっと不安そうにしていてもおかしくはないのに。
あのオシャレな一家の娘だし、ダリアさんはロシア人の母親がいるし、子供の頃から海外に行く機会が多かったとは聞いていたけれど、それにしたって初日は1人で向かうだろうに頼もしい限りだ。
「何か、凄いなぁ……。私は、1人で海外なんて無理だよ」
「でしょうね」
「なっ……」
あっさり肯定されてしまい、はっとして顔を上げれば、おかしそうにクスクスと笑う彼女。こんなふうにからかわれると、本当に律くんと一緒にいるみたいだ。
「1人で行く機会なんてないだろうから大丈夫でしょ。どうせあっくんと一緒に行くわけだし」
「う、うん……。2人で旅行も不安がないわけじゃないけど……」
「何で?」
「え? だって土地勘もないし、言葉の壁もあるし」
「ああ。あっくん、フランス語も英語もペラペラだから大丈夫だよ」
「えぇ!?」
思わず二度見する私。彼が頭がいいだろうことはわかっていたけれど、まさかそこまでとは……。
「あっくんやりっちゃん程じゃないけど、私もフランス語喋れるし。だからあんまりパリに行くことに抵抗ないのかも」
「えー……。守屋家ってどうなってんの?」
「どうなってるって……。子供の頃は、よくホームパーティーを開いたり、招待されたりしたんだよ。お母さんの友達はほとんど外国人だったからね。皆、日本語を話せたけど、お母さんが語学に堪能だから自然と現地の言葉に戻るんだよね。聞いてる内に覚えたのもあるけど、お父さんがこれからはきっと、グローバル化する時代だから、語学力は身につけておいた方がいいって言って習わされたんだ」
「グローバル化が進む時代って……20年くらい前の話ってことだよね?」
「うん。でも、周りも幼稚園くらいから英語は習ってる子多かったよ」
記憶を辿るかのように、一瞬視線を外し、そう答えた。
奏ちゃんはもっと世間知らずで、失礼だけど律くんやあまねくんと比べると学力も劣るものだと思っていた。しかし、彼女にはおそらく同年代の子達よりも優れたものをいくつももっている。
「そっか……。時代は変わるねぇ……」
「ねぇ、うちのおばあちゃんみたいなこと言わないでよ」
「え!? おばあちゃん、そんなこと言ってたっけ!?」
「言うよ。おばあちゃんと一緒にい過ぎて、似てきてんじゃないの」
「えー……」
そりゃ確かに、守屋家に行けばずっとおばあちゃんとダリアさんと一緒にいるし、実家に帰ってきていても、仕事で誰もいなくて暇になれば、いつも遊びに行っていた。
あの穏やかな雰囲気に癒されてしまうし、当然あまねくんや奏ちゃんと過ごす時間よりもおばあちゃんとダリアさんと過ごす時間の方が多いわけだから、普段からしている会話がぽろっと出てしまってもおかしくはない。
「何だか、昔の話を聞くことが多いから、今無職だし今の時代のことより過去に触れることの方が多いしね……。それでかも。私も仕事探そう……」
「そろそろ働くの?」
「うん。奏ちゃん見てたら、私も働きたくなってきたよ」
「そもそも嫌で辞めた仕事じゃないしね。あの男はもう県外にいるんでしょ?」
「うん。多分もうこっちに戻ってくるのは無理だから、危険はないかな」
「そう。足、動かないんだっけ?」
「うん。刺された時に脊髄損傷したみたいでね、下半身不随だってさ」
「ふーん。まあ、自業自得だけど、意識戻ったら足動かなかったとか考えただけで地獄だよね」
奏ちゃんはそう言って、アイスティーを口元に持っていき、その小さな唇でストローを咥えた。
磯部さんから連絡が来たのが10日前のことだ。雅臣の意識が戻り、呼吸器も外れたとのことだった。内臓の機能は回復に向かっているが、腰から下が動かない事に気付き、検査をしたようだ。最後にうつ伏せ状態で刺された時に腰椎、脊髄を損傷したらしい。
最初の一撃だって大ダメージだっただろうが、それだけなら彼は意識を取り戻した後も全身の回復を待つだけで済んだことだろう。
今更そんなことを言ってもどうにもならないが、今は彼の体の回復を待つのみ。それを待ってから、私との裁判が始まる。
いつになるかわからない途方もない待ち時間。何年かかるかねぇなんて実家で話していたら、このままでは姉のように婚期を逃すと思ったのか、あの父が「彼が県外に行って身動きできないなら、そう危険もないだろうし、そろそろ籍くらい入れたらどうだ」なんて言い出した。
母と一緒になって驚いたけれど、このまま2年も3年も裁判が終わらなければ、結婚はおろか子供を産むリスクも高まるだけだ。
さすがに娘の命にも関わってくるとなれば、父もいつまでも意地を張っているわけにもいかなくなったようだった。
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