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ラポール形成

【34】

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 玄関を出て辺りを見渡す。ヒールは低めだが、パンプスで来てしまったことを後悔した。これじゃ走れない。
 追いかけてきますとは言ったものの、既に彼女の姿は見当たらない。

 彼女が行きそうな所もわからないし、この辺りの地理も詳しくはない。それでも探さないよりはいいと、とにかく可能な限り走った。

 周りを見ながら走っていくと、河川敷を見つけた。何となく、行くならあそこのような気がして、街灯が少ない中、目を凝らして彼女を探す。

 ようやく傾斜になっている芝生の上で膝を抱える彼女らしき人物を見つけた。近寄ってみると、服装からして奏ちゃんで間違いなさそうだ。
 膝頭に顔を埋めている。泣いているのだろうか。

「名前、間違えられたからおばあちゃんに冷たくすんの?」

 隣にしゃがみ込んで、そう問いかける。

「……」

 無視ですか。

「おばあちゃん、認知症なんだから仕方ないでしょ」

「……」

「名前間違えられるのがショックなのはわかるけどさ」

「……わかるわけないじゃん」

 ようやく喋った。私は、彼女には触れずしゃがみ込んだまま真っ直ぐ前を向く。芝生の青臭い香りがする。
 風が吹く度に、草同士が擦れてさらさらと音がする。上着を置いてきてしまったものだから、少し肌寒い。

「わかるよ。奏ちゃんがおばあちゃんのこと大好きだったのも聞いたし。だから、おばあちゃんから自分の名前が出てこないのが切ないのはわかる」

「……」

「でもおばあちゃん、奏ちゃんのこと忘れちゃったわけじゃないよ。私には孫が3人いて、1番下は女の子で奏って言うのって教えてくれたから」

「……え?」

「認知症はね、昔の記憶はなくならないの。新しいことを覚えるのが難しくなるだけ。だから、奏ちゃんのこともちゃんと覚えてるよ。娘さんと間違えたのは、昔の記憶の方が鮮明になるから、混乱するだけ」

「……本当?」

「本当。ちゃんと、おばあちゃんと顔見て話した?  きっと顔を見たら思い出すよ。自分で帰ってくるの避けてたら、どんなに若い人だって顔も忘れちゃうでしょ。ちゃんと定期的に顔見せてあげなよ」

「……そんなことあんたに言われたくない」

「別に私だって奏ちゃんのことはどうでもいいけどさ、おばあちゃんが可哀想だから言ってるんだからね」

 本当可愛くないこと言うんだから。私も足が痺れてきてしまい、その場に腰を降ろした。

「……性格悪……」

「あんたよりマシよ。自分がどれだけ性格悪いかわかってる?」

「……」

「私のことは他人だし、別に嫌いなままでもいいけど、おばあちゃんのことは大事にしてあげて。認知症が進行してきて1番傷付いてるのはおばあちゃんだから」

「すぐ忘れちゃうんでしょ」

「人間ってさ、楽しい記憶はすぐに忘れるんだけど、嫌だった記憶っていつまでも残ってるの」

「え?」

「認知症の人もさ、すぐに忘れちゃうけど、ふと記憶が蘇ることがあるんだよ。その時に何度もごめんねって謝る姿は、私も胸が痛くなる」

「他人なのに」

「他人だからだよ。身内だと近過ぎて見えないの」

「……何で介護士にしたの?」

「私が中学生の時におじいちゃんが脳梗塞で倒れたの。その時、誰かの役に立てる仕事に就きたいって思った」

 こんな風にきっかけを聞かれるのは久しぶりだった。思い出す度に初心に戻らなきゃと思わされる。
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