その傷を舐めさせて

雪村こはる

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お付き合いすることになりまして

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(桂さん……)

 絵に描いたように美しい顔の、左頬から唇の脇にかけてを覆う白いガーゼ。拳が肉を打つ音を思い出し、心にまた鋭い痛みが迸る。

「勝手に退職してすみません」

 あくまでも他人行儀に、私は言葉を選びながら言う。

「どうか早めに後任を決めていただき、私のことは忘れてください」

 桂さんは、私を見つめている。ほのかに差す夕陽のように穏やかな微笑で。

「理由を聞いてもいいですか」

「……私では、お役に立てないとわかったからです。むしろ私がいるせいで、桂さんにご迷惑がかかると」

「具体的には?」

「それは……その、色々です。あなたはとても優しい方で、私のために尽力してくださる。でもそのせいであなたまでもが、余計に傷つくことになってしまう」

 ――あんたのせいだ!

「……それに、あなたの周りにはあなたに相応しい優れた方がたくさんいます。私なんかが隣にいたら、それこそ邪魔になってしまう」

 そこで一旦言葉を切り、私は挑むように顔を上げる。

「だから、離れようと決めました。……これがきっと、一番正しい選択だと思うんです」

 いつしか声に熱がこもっていた。あの日、病室を離れて以来、胸の奥底でくすぶっていた火種が、ここぞとばかりに火を吹きあげて喉からほとばしり出たようだった。

 桂さんは少し笑って、自分の左頬へ手を伸ばす。指先がガーゼを軽くなぞって、またスカイくんの方へと戻っていく。

「そうですか」

 彼の口元には、まだ微笑みが残っている。

「貴女は本当に、僕を大切に思ってくれているんですね」

 吸いそびれた空気が喉で詰まって、顔に朱が差すのがわかった。

 爪が手のひらに食い込むほど強くこぶしを握り締める。早鐘を打ち続ける鼓動は、瞬きくらいでは落ち着いてくれない。

 行き交う人々の靴音が遠巻きに聞こえてきて、まるで私と彼だけが現実から切り離されているみたい。……うつむき黙る私を見つめ、桂さんは軽く小首を傾げる。

「僕と貴女は本当によく似ている。自分に自信が持てないところも、他人の言葉を真に受けるところも、……大切な人のためならば、簡単に自分を犠牲にできてしまうところも」

 桂さんが前へ出る。

 びくと震えた私の足は、地面に吸いついたみたく動かない。

「確かに今回、僕は結果として間違ったことをしたのでしょう。貴女と距離を置きさえすれば、僕が傷つくことはなくなる。それは確かに事実のひとつの側面なのかもしれません」

「…………」

「でも貴女は一つ、大きな思い違いをしています。貴女の想いに負けないくらい、僕も貴女を大切に想っている。どんな苦しみからも守りたい。ずっと笑顔でいてほしい。……わかりますか? 僕だけが傷つかなければそれでいいわけじゃない。貴女が幸せでいてくれて初めて、僕は幸せになれるんです」

 私の目の前で足が止まる。

「……だから、僕のためを想ってくれるのなら」

 私を見つめる彼の瞳。

 鏡の中の自分を見るように、瞳の奥で私の顔がくっきりと輪郭を結ぶ。



貴女自身僕の好きな人のことを、一緒に大切にしてもらえませんか」



 ――力を失った指先から、旅行鞄がどさりと落ちた。

 雑踏が遥か遠くに聞こえる。視界が水の膜に覆われて、私を取り囲む何もかもが、淡くぼやけてぐちゃぐちゃになってなんにも見えなくなっていく。

 頬を伝っていく微熱。空気に触れたちまち冷えたそのひと雫を、彼の長い指がなぞるように、慈しむように掬い取る。

 彼に幸せになってほしいと思った。

 そのために私はいらないと思った。

 だから離れた。でもそれは……あまりにも独りよがりだった。

 だって私は――桂さんの好きな人。

 あなたを幸せにするためには、私が幸せにならなくちゃいけない。

 彼が傷つく未来の先に私の幸せが無いのと同じ。私自身を蔑ろにした先に、彼の幸せがあるはずないんだ。

 頬を撫でる桂さんの手が、ふと静かに動きを止めた。彼はゆっくりと身体を起こし、私の背後へ目を向ける。

「由希子……」

 こぼれ落ちるようなか細い声。

 私は静かに振り返り、卓弥の方へ向き直った。

「ごめんなさい」

 卓弥のわずかに開いた唇から、乾いた音がひゅうと漏れる。

 ごめんなさい。もう一度心の中で繰り返し、私はまっすぐ卓弥を見つめる。

「私、一緒には行けない。……でも」

 卓弥は、何も言わない。

 彼はただその場で棒立ちになり、私と、そのすぐ後ろに立つ桂さんとを見つめている。

 私は旅行鞄を持ちあげ、卓弥のもとへ歩み寄った。両手でそっと鞄を差し出す。卓弥はまだ私を見つめている。

「今まで愛してくれてありがとう」

 卓弥の落ちくぼんだ瞳が、震えるように見開かれた。
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