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2巻
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第一章 さくらのせいれいとお花見ごはん
ひらひらひらひら。
さくらの花でいっぱいだ。
空も雲もお星さまも、ぜんぶぜんぶ、さくらになったみたい。
それにね、けんのごはんもみんなさくらみたいだよ。
いろんな色で作られてて、とってもきれいなんだ。
さくらもけんがごはんにしたら……おいしいのかな?
❖
トントン、ぐつぐつ、ジュージュー……
様々な音が、台所から聞こえている。台所のテーブルの上はみるみる皿で埋まっていった。
甘辛いタレでこんがり焼いた魚は褐色、きれいに巻かれた卵焼きは鮮やかな山吹色、彩りを与える野菜たちは新緑の色、そして最後に桜麩を用意して、ほんのり淡い桜色を足す。
様々な香りを放つ、色とりどりの料理を見た悠の瞳は、まるで宝石箱を開けたときのように輝いていた。
「きれい!」
「ああ、こういうのは彩りも大事だからな」
悠の言葉を聞いて、包丁の付喪神の剣は嬉しそうに頷いた。剣は包丁の持ち主であった代々の料理人たちの技と志を継ぎ、普段は流しの料理人として働いている。
家の前で行き倒れていた悠を剣が保護してから、数か月が経った。
二人で台所に立つことは、もうすっかり日課になっている。
昨日の夜から仕込んでいたものも含めて、ようやくすべて料理が出来上がった。
剣は粗熱をとった料理たちを、手早く切り分けて重箱にそっと収めていく。
甘いしょっぱいなどの味別に分けておかずを配置する。それに彩りも考えて、見栄えがよくなるよう注意して並べ、春の味覚が詰まったお重が二段、完成した。
「おかずはこれでよし! じゃあ最後のお重に取りかかるか」
そう言うと、剣はあらかじめ用意していた大きな桶を引き寄せた。
中に入っているのは、大量の白米。それらは、ほんの少しツンとする香りを放っている。
「おすし!」
ついひと月ほど前、剣たちとちらし寿司ケーキを作った経験から、米が何に使われるかを悠が見事に言い当てる。剣は思い切り悠を撫で回した。
「大正解! よく覚えてたな」
ぐりぐり頭を撫でられて、悠はくすぐったそうに顔を綻ばせる。しかしすぐに、寿司桶の横に次々並べられるボウルに、不思議そうに視線を移した。
「見てな」
きょとんとする悠に剣はそう言って、しゃもじを手に取った。
雛祭りのときに作ったちらし寿司ケーキとは、用意されている材料が違う。
剣が空いているボウルを手元に置き、寿司桶から四分の一ほど寿司飯を掬い入れる。そこへ、用意していた具材のうちの一つを入れて混ぜ始めた。
ご飯を混ぜ終わると、剣は別の器を手元に寄せた。そこに入っているのは、つゆにつけ込んだ油揚げだ。じっくりつけ込んだおかげで、つゆの色に染まってしんなりした油揚げが、何枚も器の中に重なっている。
剣はそこから一枚取り、切り込みをぱっくり開いた。大きく開いた油揚げの中に、混ぜた寿司飯を詰め、しっかりと口を閉める。
「いなり寿司の出来上がりだ」
「いなりずし?」
「そう。こうして油揚げの中にご飯を詰めて作る寿司だよ」
「……おいしい?」
「もちろん」
剣がそう答えると、悠は頬を真っ赤にして嬉しそうに笑った。食べる前から美味しいと確信したかのようだった。
「あとはこのいなり寿司をたくさん作ったら出来上がりだ。手伝ってくれるか、悠?」
「うん!」
寿司桶の中にはまだ四分の三ほどご飯が残っていて、他に具材もある。
それらを使ってすべてのいなり寿司を作り終えたとき、果たして悠はどんな顔をするだろうか、と剣は考えた。今以上に目をキラキラさせて、食べたそうな顔をするだろうか。
そう思うと、剣もまた作るのが楽しくて仕方ないのだった。
「よし、じゃあ手早く作って出かけようか。伊三次との花見場所で合流したら、このお弁当食べような」
伊三次は元天狗だ。普段はその正体を隠して、私立探偵として働く。剣が悠を拾ったときも、部下である管狐の銅・銀とともに、色々と世話をしてくれたものだ。
「うん! たのしみ!」
悠の返事が、さっきよりもずっと大きく元気なものだったので、剣は笑いを堪えるのに苦労しながら、次の油揚げに手を伸ばした。
❖
四月の初旬、剣と伊三次、銅・銀は皆で集まる計画を立てた。
理由は一つ。悠に桜の花を思う存分見せてやるためだった。
花見の話をしてから、悠はずっと楽しみにしていた。図鑑で桜について調べたり、ニュースの開花情報を見たりしては、早く行ってみたいと言っていたのだ。
本日は快晴。しかも家族連れの少ない平日。まさに、絶好の花見日和だった。
先ほど作ったお弁当を持って、桜が見事だと評判の公園に剣と悠が足を踏み入れる。すると、想像をはるかに上回る、空を覆い尽くすほどの桜で溢れていた。
空がすべて桜で埋め尽くされたかのように、どこを見ても淡いピンク色の花弁が舞っている。ひらりと舞い落ちる花びらの一つ一つを、悠のまん丸で大きな目が追っている。そして風に乗ってどこかへ飛んでいくたびに「ほぁ」と感嘆の声を漏らす。
「悠、散っている花びらだけじゃなくて、上も見てみな」
剣にそう言われて、悠は頭上を見上げた。すると悠の目が、更に大きく見開かれる。
花びらを降らせる桜の木が、悠のはるか上にあった。
ピンク色の天井が風が吹くたびにゆらゆら揺れて、まるで訪れた者を歓迎しているようだ。
「きれい……!」
「ああ、きれいだな」
今日の日にちや場所、段取りは、すべて伊三次たちが決めてくれた。
おかげで剣は彼らの希望するメニューをすべて作る羽目になったが……
(まぁいいか。悠がこんなに喜んでるなら)
そう思い、剣は胸中で伊三次たちに礼を述べた。
そして先に来て、場所を確保して待っているはずの三人の姿を捜した。
あの三人はとても目立つ。剣は遠目でもすぐに見つけられると思っていたのだが、なかなか見当たらない。そう思っていると、前方から素っ頓狂な声が聞こえた。
「ぴゃっ!」
悠の声だった。
何事かと悠のほうを見ると、真っ白な光が二つ、悠の周囲を飛んでいる。
悠は嫌がってはいない。くすぐったそうにしているというか、じゃれているような様子だ。
「おーい、銀に銅、それくらいにして案内してくれ」
剣が笑いながらそう声をかけると、光はゆっくりと舞い上がり、そして徐々に人の輪郭を成した。
「申し訳ありません、剣殿」
「桜に夢中になっている童が面白くて、ついからかってしもうた」
そう言って、銀と銅は二人揃ってぺこりと頭を下げた。
二人とも、今は白い光でも狐の姿でもなく、黒っぽいシャツと綿のズボンに身を包んだ人間の姿をしている。
髪が銀色で、瞳が金色であることを除けば、端整な顔立ちの青年にしか見えない。
「二人とも、今は昼間で、ここは公園だぞ。さっきみたいなことして、大丈夫か?」
二人の容姿はただでさえ人目を引くというのに、急に光が人間の姿に化けるところを見らたら、大騒ぎになりかねない。
だが、今は人の少ない平日。剣が周囲を見回しても、近くに人がいる様子はない。
「大げさじゃのう、剣殿は。我々とて、それくらい心得ておりますぞ」
「仮に銅が何かしでかしても、私がなんとか取り繕いますので、ご安心を」
「……待て、何かしでかすのが我であることが前提なのは何故じゃ?」
銅の追及を無視して、銀は剣の荷物をひょいっと受け取った。
「剣殿のお手製の花見弁当ですな。主様も、それはもう楽しみにしておられました。ささ、こちらへ……」
「ありがとう、銀。悠と一緒に作ったんだ。悠も食べてほしそうにしてたよ」
「おい、待たんか! 我の問いは……」
すたすた歩き去ろうとする銀を追いかける銅。
その服の裾を、下からきゅっと引っ張る手があった。悠の手だ。
「あかがね、おべんとう、おいしい、はやく」
悠は、以前よりも口数が増え、言葉遣いもしっかりしてきた。しかし、何か夢中になったり、とてつもなく楽しみなことがあると、こうしてたどたどしくなる。
今のは『お弁当が美味しそうだから、早く食べよう』の意だ。
純粋な瞳を向けられ、銅は一瞬にして気が抜けてしまった。
「お主にはかなわんのう……」
苦笑いとともに、銅は悠の手を握って剣たちに追いつき、四人で弁当の中身についてあれこれ話し始める。
❖
しばらく歩くと、レジャーシートを敷いて待っている伊三次が見えてきた。
「おまえたちは本当……食い物のことしか頭にねえのか」
今回の花見の発起人である伊三次が呆れ顔で言う。
「主様こそ、剣殿の料理を食べたがっていたではありませんか!」
「そうです。主様も料理に挑戦してみたらいかがですか? 私たちのいつもの食事といったら……」
銅と銀が不服そうに対抗する。
(本当、伊三次たちは食に関することで争いが絶えないなぁ……)
伊三次と銀・銅が、日々の食事についてさもしく、喧々囂々とやり合っている様子を横目で見ながら、剣はささっと重箱を広げていった。
文句を言い合う三人だったが、剣が重箱の蓋を取ると、その言い合いがぴたりとやんだ。
「おお、美味そう!」
「誠に」
「さすがは剣殿じゃ!」
急に意見が一致した伊三次と管狐たちに、悠は順番に割り箸を渡していく。
「どうぞ」
「おお、ありがとうな、悠。おまえは、本当にいい子だなぁ……」
何やらしみじみ言って悠の頭を撫で回す伊三次。
悠はくすぐったそうにしている。横で聞いていた双子は、ぴくんと反応した。
「主様……『おまえは』とはどういう意味でしょうか」
「言葉どおりだよ」
銀の言葉に伊三次が答える。
「童が『いい子』であるのは疑う余地はありませぬが、我々は?」
「さあな」
銅の問いを軽く受け流して、伊三次は悠の頭だけを撫で続ける。
怒りの視線を向ける双子と伊三次の間に、剣が割り込んで言った。
「はいはいはい、そこまで。ここは俺と悠に免じて、皆仲良く……な?」
剣呑な雰囲気はやんだが、まだ双方はふてくされたままだ。
剣はさっと一つ目と二つ目のお重を引き寄せて、料理を見せていく。
「ほら、悠と一緒にたくさん作ったんだぞ~! 昨日の夜から仕込んで頑張ったんだぞ~」
剣の言葉で、伊三次と銀・銅、三人の視線が重箱の中に集中した。
詰められたメニューの一品ずつに、目を留めている。
「……出汁巻き卵が桜形になってるな。あと桜麩もある」
「そうそう。伊三次の希望だったからな」
「芋の蜜煮に高野豆腐の田楽もありますな」
「うん、銀の希望だったな」
「……幽庵焼きに、たこの桜煮まで……」
「そりゃあ、銅の希望だったからな。それに、まだあるんだぞ」
伊三次、銀・銅が口々に言い、剣が笑顔で答える。
剣が悠に目配せすると、悠は『待ってました』と言わんばかりに、わくわくした顔で、三つ目のお重の蓋を開いた。そこに入っていたのは……
「「「い……いなりずし!」」」
伊三次たちの声が重なった。
悠が開けた三つ目のお重には、甘辛いつゆをたっぷり吸った、つやつやのいなり寿司がぎっしり詰まっていた。甘い香りときれいに整列した美しい見た目に、銀と銅は言葉をなくした。それまでのピリピリした気持ちなど、どこかへ吹き飛んでしまったかのように、じっと重箱の中を見つめている。そして、時々ちらちらと伊三次と剣のほうを見て、食べてもいいかうかがっている。
「あー、まぁなんだ。悪かった。剣と悠の弁当を、堪能するとしようか」
伊三次はそう言うと、今度は剣のほうを見た。
剣が静かに手を合わせる。悠もそれに倣い、続いて伊三次たちも手を合わせた。
全員が手を合わせたのを確認して、剣は高らかに告げた。
「では皆、花見のご飯をたくさん召し上がれ。いただきます!」
「「「「いただきます!」」」」
他の面々も大きな声でそう言って、一斉に箸を取った。思い思い好きな料理を一口パクリと食べる。そのあとに発する言葉は、もう決まっていた。
「美味い!」
「美味しいですね」
「美味いのう!」
「おいしい!」
「そうか、よかった」
笑顔を見せる伊三次たちに剣はホッとして、自分も一口、頬張った。この面子が集まると、早く食べないとすぐになくなってしまうのだ。
「すごいな! この出汁巻き卵どうやったんだ?」
伊三次がもぐもぐ言いながら、剣に尋ねる。
「ああ、それは……普通の出汁巻き卵を作って、竹串を五箇所にあてて、輪ゴムで固定してしばらく待つんだよ。そうすると、こういう花の形に変形するんだ」
「へぇ……」
感心しながらまたぱくっと一口食べる伊三次を横目に、剣も次のおかずに箸を伸ばそうとした。すると今度は、伊三次の横の銀から、感嘆のため息が漏れる。
「この芋の蜜煮の相変わらず美しいこと……感服いたします。どうすれば、このように美しく作れるのですか?」
「いや、別に特別な作り方はしてないよ」
そう剣が言ったものの、銀の目は期待に満ちている。
「えーと、たぶん大事なのはアク抜きじゃないか。黒っぽくならないようによく水にさらすのがコツかな……あとはよくあるレシピどおりだよ。砂糖、みりん、塩で煮て……」
「アク抜きの極意とは……⁉」
よほど蜜煮が気に入ったのか、銀はいつになくグイグイ来る。普段は冷静なので、印象が大きく違って、剣は戸惑っている。すると銅が、剣に迫る銀の首根っこを掴んで止めた。
「やめんか。お主が聞いたところで焦がすだけであろうが」
「何を⁉」
「そういうのは我が聞いておく。お主は下がって芋を食っておれ」
銅がしっしっと手を払うと、銀は悔しそうにしつつも引き下がった。不器用な自覚があるため、こう言われても何も言えないのだ。
銅はニンマリと笑みを浮かべて、先ほどの銀よりも近く、剣に詰め寄る。
「剣殿、剣殿! このたこの美味さの秘訣をお教え願いたい!」
どうやら、質問攻めからはまだ解放されないようだ。剣は諦めて、箸を置いた。
「秘訣って言っても、普通のことしかしてないよ。昨日の晩から寝かせてたから味がよく沁みてるくらいじゃないか?」
剣がそう口にすると同時に、隣から小さな悲鳴が聞こえた。
悠がたこの桜煮を見て震えていたのだ。
「なんじゃ童よ。たこが怖いのか?」
そう尋ねる銅に、悠は首を横にぶんぶんと振って、おそるおそる呟いた。
「それ……いたい」
「痛いとは? 事切れておるから何もせぬぞ?」
銅が不思議そうに言う。
悠のその言葉に、剣は心当たりがあった。縮こまる悠を撫でながら、剣が代わりに説明した。
「たこの下処理をしたときに、悠に手伝ってもらおうとしたんだけど……そのときにショックを受けたみたいでな。弁当箱に詰めるときも、たこのときだけこの調子だったんだ」
「どのような恐ろしい処理を?」
「いや、普通だよ。思いっきり叩いたんだ、大根で」
「「「大根で⁉」」」
銅だけでなく、伊三次と銀の声まで重なった。悠はというと、そのときの光景を思い出したのか、俯いてしまった。
「たこは大根で叩いて煮ると柔らかくなるんだ。大根の酵素が、たこの繊維質をほぐすのにいいって言われてるんだよ」
「なるほど……それで、悠の目の前でたこをぶっ叩いたんだな。一切遠慮なく」
伊三次がため息を吐きながら言う。
「……まぁ、そういうわけだ」
悠はとても感受性が強い。食材に対しても感情移入してしまうようだった。
すでに捌かれた肉や魚ならともかく、まだたことわかる姿をした状態で、したたかに打ちつけられている様を見たら『痛そう』と思ってしまうのも無理はない。
悠は怯えていたのではなく、たこを哀れんでいたのだ。
「まったく……変なところで鈍いんだからなぁ、剣は」
「どっちにしろ俺がやるつもりだったんだけど……悠じゃ叩く力が足りないからな」
「そういうことじゃない」
「私もそう思います」
「左様ですな……」
全員から突っ込まれ、剣は素直にそれを受け止めた。
悠は、やはりその光景がトラウマになっているのか、たこだけ見事に避けて食べている。他の料理は満面の笑みでもぐもぐしているというのに。
「なんとか、あの場面を忘れさせてやれないもんかな」
「そんなもの、容易いでしょう」
悠の分までたこを頬張りながら、事もなげに銅は言った。
「おまえはまたお気軽にそんなことを……」
「余計なことはしないほうがいい。事態が悪化する」
伊三次も、銀も、揃って眉根を寄せてたしなめる。
「失敬な! 本当に容易いからそう言っておるのであろうが」
三人の喧嘩を悠はハラハラして見つめていたが、銅は構わず剣の肩を掴んで告げた。
「剣殿、料理のトラウマを取り除くのは料理しかありませぬ! たこを打ちのめす光景を童が忘れてしまうほどの美味い料理で、よき思い出を作ってやるのです」
「銅……簡単に言ってくれるなぁ……」
銀は珍しく銅に同意しているのかうんうん頷き、伊三次は呆れながらコップに酒を注いでいた。桜が舞ってこんなにも華やかなのに、どうして自分だけ悩まなくてはならないのか。
そう心の中でぼやきながら、剣はがっくりと項垂れた。
すると、伊三次がため息交じりに言う。
「別に難しいことじゃねえだろ。悠が食べたことのない料理なんて山ほどあるんだから」
「そりゃあ、そうだけど……」
剣の憂鬱を吹き飛ばすように、少し強い風が剣たちの間を吹き抜けていった。
風に運ばれて、小さな花びらが目の前を舞う。はらはら舞い落ちる様は、まるで季節外れの雪のようだ。そんな淡雪に似た花びらがひとひら、伊三次の持つコップの中に落ちる。
「いいねぇ、風流だ」
伊三次はコップを弄び、しばし花びらが舞う様を楽しんでいた。
「そうだ」
すると、まだうんうん唸っている剣に向かって、伊三次が突然声をかける。
「悩まなくても、悠が今、ものすごく気に入ってるものがあるじゃねえか」
「ものすごく気に入ってるもの?」
尋ねる剣に微笑んでから、伊三次は悠と視線を合わせた。相変わらずたこ以外を元気に頬張っている。
「なあ悠、桜、好きか?」
そう聞きながら、伊三次は桜の木を指さした。桜が舞っている様を見て、悠が力いっぱい頷く。
「そうかそうか。そんな悠に、とってもいいお知らせがある」
「おしらせ?」
「そう。実はな……この桜、食べられるんだ」
「え⁉」
悠は、持っていたいなり寿司を落としそうになりながら叫んだ。そして、伊三次と頭上の桜を何度も何度も見比べている。信じがたいらしく、最後には剣に視線を向けた。
「まぁ……塩漬けにしたものを料理に使うのは、よくあるな」
剣がそう言うと、悠は衝撃を受けていた。
これほどきれいで可憐なのに、その上食べられるのか。悠がそんな風に思っているのが、はっきり顔から伝わってきた。そして、悠の行動は早かった。
持っていたいなり寿司を手早く食べ終わり、手を拭く。そして次の瞬間には、レジャーシートの脇に寄せていた靴を履いていた。
「え、どこに行くんだ?」
剣が尋ねると、悠は凜々しい面持ちで答えた。
「さくら、さがす!」
そう告げると、悠は走り去ってしまった。
「あれま……思い立ったが吉日ってか。誰に似たんだろうな」
伊三次の暢気な言葉に反論する間もなく、剣は立ち上がった。
しかし、すぐに袖を引かれ、引き戻される。
「そんなすぐに追いかけなくていいだろ」
「悠はこの公園に来たのは初めてなんだぞ。迷子になったりしたら……」
「公園の中にいれば心配ないだろ。いざとなったら、こいつらに迎えに行かせるさ」
伊三次が言うと、銀・銅の二人は頷いた。確かに、剣が歩き回るより、二人が気配を探るほうがずっと早くて確実だ。だからといって、保護者である自分が何もせずにいていいものか……剣は考えあぐねる。
「あんまり四六時中べったり張り付いているのもよくないぜ。子どもの初めての冒険を見守ってやろうや」
そう言われてしまっては、剣には返す言葉がなくなる。大人しく座り直した剣に、伊三次はコップを渡し、酒を注ごうとした。
酒が入るより前に、剣は素早くお茶を注いで、ぐいっと一気に飲み干した。
ひらひらひらひら。
さくらの花でいっぱいだ。
空も雲もお星さまも、ぜんぶぜんぶ、さくらになったみたい。
それにね、けんのごはんもみんなさくらみたいだよ。
いろんな色で作られてて、とってもきれいなんだ。
さくらもけんがごはんにしたら……おいしいのかな?
❖
トントン、ぐつぐつ、ジュージュー……
様々な音が、台所から聞こえている。台所のテーブルの上はみるみる皿で埋まっていった。
甘辛いタレでこんがり焼いた魚は褐色、きれいに巻かれた卵焼きは鮮やかな山吹色、彩りを与える野菜たちは新緑の色、そして最後に桜麩を用意して、ほんのり淡い桜色を足す。
様々な香りを放つ、色とりどりの料理を見た悠の瞳は、まるで宝石箱を開けたときのように輝いていた。
「きれい!」
「ああ、こういうのは彩りも大事だからな」
悠の言葉を聞いて、包丁の付喪神の剣は嬉しそうに頷いた。剣は包丁の持ち主であった代々の料理人たちの技と志を継ぎ、普段は流しの料理人として働いている。
家の前で行き倒れていた悠を剣が保護してから、数か月が経った。
二人で台所に立つことは、もうすっかり日課になっている。
昨日の夜から仕込んでいたものも含めて、ようやくすべて料理が出来上がった。
剣は粗熱をとった料理たちを、手早く切り分けて重箱にそっと収めていく。
甘いしょっぱいなどの味別に分けておかずを配置する。それに彩りも考えて、見栄えがよくなるよう注意して並べ、春の味覚が詰まったお重が二段、完成した。
「おかずはこれでよし! じゃあ最後のお重に取りかかるか」
そう言うと、剣はあらかじめ用意していた大きな桶を引き寄せた。
中に入っているのは、大量の白米。それらは、ほんの少しツンとする香りを放っている。
「おすし!」
ついひと月ほど前、剣たちとちらし寿司ケーキを作った経験から、米が何に使われるかを悠が見事に言い当てる。剣は思い切り悠を撫で回した。
「大正解! よく覚えてたな」
ぐりぐり頭を撫でられて、悠はくすぐったそうに顔を綻ばせる。しかしすぐに、寿司桶の横に次々並べられるボウルに、不思議そうに視線を移した。
「見てな」
きょとんとする悠に剣はそう言って、しゃもじを手に取った。
雛祭りのときに作ったちらし寿司ケーキとは、用意されている材料が違う。
剣が空いているボウルを手元に置き、寿司桶から四分の一ほど寿司飯を掬い入れる。そこへ、用意していた具材のうちの一つを入れて混ぜ始めた。
ご飯を混ぜ終わると、剣は別の器を手元に寄せた。そこに入っているのは、つゆにつけ込んだ油揚げだ。じっくりつけ込んだおかげで、つゆの色に染まってしんなりした油揚げが、何枚も器の中に重なっている。
剣はそこから一枚取り、切り込みをぱっくり開いた。大きく開いた油揚げの中に、混ぜた寿司飯を詰め、しっかりと口を閉める。
「いなり寿司の出来上がりだ」
「いなりずし?」
「そう。こうして油揚げの中にご飯を詰めて作る寿司だよ」
「……おいしい?」
「もちろん」
剣がそう答えると、悠は頬を真っ赤にして嬉しそうに笑った。食べる前から美味しいと確信したかのようだった。
「あとはこのいなり寿司をたくさん作ったら出来上がりだ。手伝ってくれるか、悠?」
「うん!」
寿司桶の中にはまだ四分の三ほどご飯が残っていて、他に具材もある。
それらを使ってすべてのいなり寿司を作り終えたとき、果たして悠はどんな顔をするだろうか、と剣は考えた。今以上に目をキラキラさせて、食べたそうな顔をするだろうか。
そう思うと、剣もまた作るのが楽しくて仕方ないのだった。
「よし、じゃあ手早く作って出かけようか。伊三次との花見場所で合流したら、このお弁当食べような」
伊三次は元天狗だ。普段はその正体を隠して、私立探偵として働く。剣が悠を拾ったときも、部下である管狐の銅・銀とともに、色々と世話をしてくれたものだ。
「うん! たのしみ!」
悠の返事が、さっきよりもずっと大きく元気なものだったので、剣は笑いを堪えるのに苦労しながら、次の油揚げに手を伸ばした。
❖
四月の初旬、剣と伊三次、銅・銀は皆で集まる計画を立てた。
理由は一つ。悠に桜の花を思う存分見せてやるためだった。
花見の話をしてから、悠はずっと楽しみにしていた。図鑑で桜について調べたり、ニュースの開花情報を見たりしては、早く行ってみたいと言っていたのだ。
本日は快晴。しかも家族連れの少ない平日。まさに、絶好の花見日和だった。
先ほど作ったお弁当を持って、桜が見事だと評判の公園に剣と悠が足を踏み入れる。すると、想像をはるかに上回る、空を覆い尽くすほどの桜で溢れていた。
空がすべて桜で埋め尽くされたかのように、どこを見ても淡いピンク色の花弁が舞っている。ひらりと舞い落ちる花びらの一つ一つを、悠のまん丸で大きな目が追っている。そして風に乗ってどこかへ飛んでいくたびに「ほぁ」と感嘆の声を漏らす。
「悠、散っている花びらだけじゃなくて、上も見てみな」
剣にそう言われて、悠は頭上を見上げた。すると悠の目が、更に大きく見開かれる。
花びらを降らせる桜の木が、悠のはるか上にあった。
ピンク色の天井が風が吹くたびにゆらゆら揺れて、まるで訪れた者を歓迎しているようだ。
「きれい……!」
「ああ、きれいだな」
今日の日にちや場所、段取りは、すべて伊三次たちが決めてくれた。
おかげで剣は彼らの希望するメニューをすべて作る羽目になったが……
(まぁいいか。悠がこんなに喜んでるなら)
そう思い、剣は胸中で伊三次たちに礼を述べた。
そして先に来て、場所を確保して待っているはずの三人の姿を捜した。
あの三人はとても目立つ。剣は遠目でもすぐに見つけられると思っていたのだが、なかなか見当たらない。そう思っていると、前方から素っ頓狂な声が聞こえた。
「ぴゃっ!」
悠の声だった。
何事かと悠のほうを見ると、真っ白な光が二つ、悠の周囲を飛んでいる。
悠は嫌がってはいない。くすぐったそうにしているというか、じゃれているような様子だ。
「おーい、銀に銅、それくらいにして案内してくれ」
剣が笑いながらそう声をかけると、光はゆっくりと舞い上がり、そして徐々に人の輪郭を成した。
「申し訳ありません、剣殿」
「桜に夢中になっている童が面白くて、ついからかってしもうた」
そう言って、銀と銅は二人揃ってぺこりと頭を下げた。
二人とも、今は白い光でも狐の姿でもなく、黒っぽいシャツと綿のズボンに身を包んだ人間の姿をしている。
髪が銀色で、瞳が金色であることを除けば、端整な顔立ちの青年にしか見えない。
「二人とも、今は昼間で、ここは公園だぞ。さっきみたいなことして、大丈夫か?」
二人の容姿はただでさえ人目を引くというのに、急に光が人間の姿に化けるところを見らたら、大騒ぎになりかねない。
だが、今は人の少ない平日。剣が周囲を見回しても、近くに人がいる様子はない。
「大げさじゃのう、剣殿は。我々とて、それくらい心得ておりますぞ」
「仮に銅が何かしでかしても、私がなんとか取り繕いますので、ご安心を」
「……待て、何かしでかすのが我であることが前提なのは何故じゃ?」
銅の追及を無視して、銀は剣の荷物をひょいっと受け取った。
「剣殿のお手製の花見弁当ですな。主様も、それはもう楽しみにしておられました。ささ、こちらへ……」
「ありがとう、銀。悠と一緒に作ったんだ。悠も食べてほしそうにしてたよ」
「おい、待たんか! 我の問いは……」
すたすた歩き去ろうとする銀を追いかける銅。
その服の裾を、下からきゅっと引っ張る手があった。悠の手だ。
「あかがね、おべんとう、おいしい、はやく」
悠は、以前よりも口数が増え、言葉遣いもしっかりしてきた。しかし、何か夢中になったり、とてつもなく楽しみなことがあると、こうしてたどたどしくなる。
今のは『お弁当が美味しそうだから、早く食べよう』の意だ。
純粋な瞳を向けられ、銅は一瞬にして気が抜けてしまった。
「お主にはかなわんのう……」
苦笑いとともに、銅は悠の手を握って剣たちに追いつき、四人で弁当の中身についてあれこれ話し始める。
❖
しばらく歩くと、レジャーシートを敷いて待っている伊三次が見えてきた。
「おまえたちは本当……食い物のことしか頭にねえのか」
今回の花見の発起人である伊三次が呆れ顔で言う。
「主様こそ、剣殿の料理を食べたがっていたではありませんか!」
「そうです。主様も料理に挑戦してみたらいかがですか? 私たちのいつもの食事といったら……」
銅と銀が不服そうに対抗する。
(本当、伊三次たちは食に関することで争いが絶えないなぁ……)
伊三次と銀・銅が、日々の食事についてさもしく、喧々囂々とやり合っている様子を横目で見ながら、剣はささっと重箱を広げていった。
文句を言い合う三人だったが、剣が重箱の蓋を取ると、その言い合いがぴたりとやんだ。
「おお、美味そう!」
「誠に」
「さすがは剣殿じゃ!」
急に意見が一致した伊三次と管狐たちに、悠は順番に割り箸を渡していく。
「どうぞ」
「おお、ありがとうな、悠。おまえは、本当にいい子だなぁ……」
何やらしみじみ言って悠の頭を撫で回す伊三次。
悠はくすぐったそうにしている。横で聞いていた双子は、ぴくんと反応した。
「主様……『おまえは』とはどういう意味でしょうか」
「言葉どおりだよ」
銀の言葉に伊三次が答える。
「童が『いい子』であるのは疑う余地はありませぬが、我々は?」
「さあな」
銅の問いを軽く受け流して、伊三次は悠の頭だけを撫で続ける。
怒りの視線を向ける双子と伊三次の間に、剣が割り込んで言った。
「はいはいはい、そこまで。ここは俺と悠に免じて、皆仲良く……な?」
剣呑な雰囲気はやんだが、まだ双方はふてくされたままだ。
剣はさっと一つ目と二つ目のお重を引き寄せて、料理を見せていく。
「ほら、悠と一緒にたくさん作ったんだぞ~! 昨日の夜から仕込んで頑張ったんだぞ~」
剣の言葉で、伊三次と銀・銅、三人の視線が重箱の中に集中した。
詰められたメニューの一品ずつに、目を留めている。
「……出汁巻き卵が桜形になってるな。あと桜麩もある」
「そうそう。伊三次の希望だったからな」
「芋の蜜煮に高野豆腐の田楽もありますな」
「うん、銀の希望だったな」
「……幽庵焼きに、たこの桜煮まで……」
「そりゃあ、銅の希望だったからな。それに、まだあるんだぞ」
伊三次、銀・銅が口々に言い、剣が笑顔で答える。
剣が悠に目配せすると、悠は『待ってました』と言わんばかりに、わくわくした顔で、三つ目のお重の蓋を開いた。そこに入っていたのは……
「「「い……いなりずし!」」」
伊三次たちの声が重なった。
悠が開けた三つ目のお重には、甘辛いつゆをたっぷり吸った、つやつやのいなり寿司がぎっしり詰まっていた。甘い香りときれいに整列した美しい見た目に、銀と銅は言葉をなくした。それまでのピリピリした気持ちなど、どこかへ吹き飛んでしまったかのように、じっと重箱の中を見つめている。そして、時々ちらちらと伊三次と剣のほうを見て、食べてもいいかうかがっている。
「あー、まぁなんだ。悪かった。剣と悠の弁当を、堪能するとしようか」
伊三次はそう言うと、今度は剣のほうを見た。
剣が静かに手を合わせる。悠もそれに倣い、続いて伊三次たちも手を合わせた。
全員が手を合わせたのを確認して、剣は高らかに告げた。
「では皆、花見のご飯をたくさん召し上がれ。いただきます!」
「「「「いただきます!」」」」
他の面々も大きな声でそう言って、一斉に箸を取った。思い思い好きな料理を一口パクリと食べる。そのあとに発する言葉は、もう決まっていた。
「美味い!」
「美味しいですね」
「美味いのう!」
「おいしい!」
「そうか、よかった」
笑顔を見せる伊三次たちに剣はホッとして、自分も一口、頬張った。この面子が集まると、早く食べないとすぐになくなってしまうのだ。
「すごいな! この出汁巻き卵どうやったんだ?」
伊三次がもぐもぐ言いながら、剣に尋ねる。
「ああ、それは……普通の出汁巻き卵を作って、竹串を五箇所にあてて、輪ゴムで固定してしばらく待つんだよ。そうすると、こういう花の形に変形するんだ」
「へぇ……」
感心しながらまたぱくっと一口食べる伊三次を横目に、剣も次のおかずに箸を伸ばそうとした。すると今度は、伊三次の横の銀から、感嘆のため息が漏れる。
「この芋の蜜煮の相変わらず美しいこと……感服いたします。どうすれば、このように美しく作れるのですか?」
「いや、別に特別な作り方はしてないよ」
そう剣が言ったものの、銀の目は期待に満ちている。
「えーと、たぶん大事なのはアク抜きじゃないか。黒っぽくならないようによく水にさらすのがコツかな……あとはよくあるレシピどおりだよ。砂糖、みりん、塩で煮て……」
「アク抜きの極意とは……⁉」
よほど蜜煮が気に入ったのか、銀はいつになくグイグイ来る。普段は冷静なので、印象が大きく違って、剣は戸惑っている。すると銅が、剣に迫る銀の首根っこを掴んで止めた。
「やめんか。お主が聞いたところで焦がすだけであろうが」
「何を⁉」
「そういうのは我が聞いておく。お主は下がって芋を食っておれ」
銅がしっしっと手を払うと、銀は悔しそうにしつつも引き下がった。不器用な自覚があるため、こう言われても何も言えないのだ。
銅はニンマリと笑みを浮かべて、先ほどの銀よりも近く、剣に詰め寄る。
「剣殿、剣殿! このたこの美味さの秘訣をお教え願いたい!」
どうやら、質問攻めからはまだ解放されないようだ。剣は諦めて、箸を置いた。
「秘訣って言っても、普通のことしかしてないよ。昨日の晩から寝かせてたから味がよく沁みてるくらいじゃないか?」
剣がそう口にすると同時に、隣から小さな悲鳴が聞こえた。
悠がたこの桜煮を見て震えていたのだ。
「なんじゃ童よ。たこが怖いのか?」
そう尋ねる銅に、悠は首を横にぶんぶんと振って、おそるおそる呟いた。
「それ……いたい」
「痛いとは? 事切れておるから何もせぬぞ?」
銅が不思議そうに言う。
悠のその言葉に、剣は心当たりがあった。縮こまる悠を撫でながら、剣が代わりに説明した。
「たこの下処理をしたときに、悠に手伝ってもらおうとしたんだけど……そのときにショックを受けたみたいでな。弁当箱に詰めるときも、たこのときだけこの調子だったんだ」
「どのような恐ろしい処理を?」
「いや、普通だよ。思いっきり叩いたんだ、大根で」
「「「大根で⁉」」」
銅だけでなく、伊三次と銀の声まで重なった。悠はというと、そのときの光景を思い出したのか、俯いてしまった。
「たこは大根で叩いて煮ると柔らかくなるんだ。大根の酵素が、たこの繊維質をほぐすのにいいって言われてるんだよ」
「なるほど……それで、悠の目の前でたこをぶっ叩いたんだな。一切遠慮なく」
伊三次がため息を吐きながら言う。
「……まぁ、そういうわけだ」
悠はとても感受性が強い。食材に対しても感情移入してしまうようだった。
すでに捌かれた肉や魚ならともかく、まだたことわかる姿をした状態で、したたかに打ちつけられている様を見たら『痛そう』と思ってしまうのも無理はない。
悠は怯えていたのではなく、たこを哀れんでいたのだ。
「まったく……変なところで鈍いんだからなぁ、剣は」
「どっちにしろ俺がやるつもりだったんだけど……悠じゃ叩く力が足りないからな」
「そういうことじゃない」
「私もそう思います」
「左様ですな……」
全員から突っ込まれ、剣は素直にそれを受け止めた。
悠は、やはりその光景がトラウマになっているのか、たこだけ見事に避けて食べている。他の料理は満面の笑みでもぐもぐしているというのに。
「なんとか、あの場面を忘れさせてやれないもんかな」
「そんなもの、容易いでしょう」
悠の分までたこを頬張りながら、事もなげに銅は言った。
「おまえはまたお気軽にそんなことを……」
「余計なことはしないほうがいい。事態が悪化する」
伊三次も、銀も、揃って眉根を寄せてたしなめる。
「失敬な! 本当に容易いからそう言っておるのであろうが」
三人の喧嘩を悠はハラハラして見つめていたが、銅は構わず剣の肩を掴んで告げた。
「剣殿、料理のトラウマを取り除くのは料理しかありませぬ! たこを打ちのめす光景を童が忘れてしまうほどの美味い料理で、よき思い出を作ってやるのです」
「銅……簡単に言ってくれるなぁ……」
銀は珍しく銅に同意しているのかうんうん頷き、伊三次は呆れながらコップに酒を注いでいた。桜が舞ってこんなにも華やかなのに、どうして自分だけ悩まなくてはならないのか。
そう心の中でぼやきながら、剣はがっくりと項垂れた。
すると、伊三次がため息交じりに言う。
「別に難しいことじゃねえだろ。悠が食べたことのない料理なんて山ほどあるんだから」
「そりゃあ、そうだけど……」
剣の憂鬱を吹き飛ばすように、少し強い風が剣たちの間を吹き抜けていった。
風に運ばれて、小さな花びらが目の前を舞う。はらはら舞い落ちる様は、まるで季節外れの雪のようだ。そんな淡雪に似た花びらがひとひら、伊三次の持つコップの中に落ちる。
「いいねぇ、風流だ」
伊三次はコップを弄び、しばし花びらが舞う様を楽しんでいた。
「そうだ」
すると、まだうんうん唸っている剣に向かって、伊三次が突然声をかける。
「悩まなくても、悠が今、ものすごく気に入ってるものがあるじゃねえか」
「ものすごく気に入ってるもの?」
尋ねる剣に微笑んでから、伊三次は悠と視線を合わせた。相変わらずたこ以外を元気に頬張っている。
「なあ悠、桜、好きか?」
そう聞きながら、伊三次は桜の木を指さした。桜が舞っている様を見て、悠が力いっぱい頷く。
「そうかそうか。そんな悠に、とってもいいお知らせがある」
「おしらせ?」
「そう。実はな……この桜、食べられるんだ」
「え⁉」
悠は、持っていたいなり寿司を落としそうになりながら叫んだ。そして、伊三次と頭上の桜を何度も何度も見比べている。信じがたいらしく、最後には剣に視線を向けた。
「まぁ……塩漬けにしたものを料理に使うのは、よくあるな」
剣がそう言うと、悠は衝撃を受けていた。
これほどきれいで可憐なのに、その上食べられるのか。悠がそんな風に思っているのが、はっきり顔から伝わってきた。そして、悠の行動は早かった。
持っていたいなり寿司を手早く食べ終わり、手を拭く。そして次の瞬間には、レジャーシートの脇に寄せていた靴を履いていた。
「え、どこに行くんだ?」
剣が尋ねると、悠は凜々しい面持ちで答えた。
「さくら、さがす!」
そう告げると、悠は走り去ってしまった。
「あれま……思い立ったが吉日ってか。誰に似たんだろうな」
伊三次の暢気な言葉に反論する間もなく、剣は立ち上がった。
しかし、すぐに袖を引かれ、引き戻される。
「そんなすぐに追いかけなくていいだろ」
「悠はこの公園に来たのは初めてなんだぞ。迷子になったりしたら……」
「公園の中にいれば心配ないだろ。いざとなったら、こいつらに迎えに行かせるさ」
伊三次が言うと、銀・銅の二人は頷いた。確かに、剣が歩き回るより、二人が気配を探るほうがずっと早くて確実だ。だからといって、保護者である自分が何もせずにいていいものか……剣は考えあぐねる。
「あんまり四六時中べったり張り付いているのもよくないぜ。子どもの初めての冒険を見守ってやろうや」
そう言われてしまっては、剣には返す言葉がなくなる。大人しく座り直した剣に、伊三次はコップを渡し、酒を注ごうとした。
酒が入るより前に、剣は素早くお茶を注いで、ぐいっと一気に飲み干した。
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