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1巻
1-3
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❖
「ほら、ホットミルクだ。飲みな」
「!」
剣はもくもくと湯気が立つ大きめのマグカップを少女の前に置いた。長らく剣が一人暮らしをしているこの家には、子ども向けの小さなサイズの食器など備えがないのだ。
「武骨だねぇ」
「うるさい」
男二人の会話など耳に入らない様子で、少女はカップの中身を見つめている。
「どうした? 嫌いか?」
「……『しろ』?」
「え、ああそうだな。白いな」
「『しろい』……ゆき?」
「いや、ミルクだ。雪よりもずっとあったかいし、栄養もあるんだ。飲んでみな」
剣の言葉に少女は頷くと、いったん湯気をふうっと吹いて、一口、口に含んだ。
「!」
熱いのかと思いきや、少女は目を輝かせている。
ごくりと、最初の一口を飲み込むと、続けてごくごくと音を立てて飲み始めた。
「美味しいだろ。砂糖とはまた違う甘さだな」
剣がそう言うと、少女はぷはっと小さな声を上げて、マグカップを置いた。その口の周りには、サンタクロースの髭のように白いミルクがくっきりついている。
「ミルクついてるぞ」
剣が手近なティッシュで少女の口の周りを拭ってやっていると、向かいに座る男がにやにやと笑っている。
「俺もホットミルク飲みたーい」
「おまえは自分で作れ」
剣と伊三次がそんなやりとりをしていると、剣の隣で少女が何やらもじもじしている。マグカップを持って、何か言いたそうな表情だった。
「……もう一杯飲みたいか?」
剣がそう尋ねると、少女は小さく遠慮がちに頷く。
「おまえはそんなに遠慮しなくていいんだよ……よしよし、もう一杯いれような」
「え、俺は?」
「わかったよ。ついでにいれてやる」
「よっしゃ! ありがとうな。お嬢ちゃんのおかげで俺もあったかいミルクが飲める」
伊三次がそう笑いかけると、少女は目を逸らしながらも、一瞬だけ口の端を上げた。
「まあ、ついでだから飯も作るか。作るとこ、見るか?」
剣が少女にそう尋ねると、少女はこくこく頷いて、素早くこたつから脱出し、剣の側に立った。伊三次が動く気配はない。
「おじさんはほっとこう。おじさんだから元気がないんだよ」
「?」
そう言って、剣はさっさと居間をあとにする。少女は一瞬だけ伊三次を振り返り、剣のあとに迷わずついていった。
「……ちぇっ」
伊三次も仕方なさそうにこたつから足を引き抜いて、居間をあとにする。廊下に出ると、伊三次は寒さに思わずぶるっと体を震わせた。
❖
少女に半纏を着せてから台所に連れていき、適当な椅子に座らせると、剣は調理台に向かう。鍋を二つ取り出し、一つには牛乳を、もう一つにはたっぷりの水と昆布を入れて、火にかける。
(牛乳が切れそうだったから、伊三次に買い出しを頼んでおいてよかった)
いきなり三杯分のホットミルクで消費するとは思っていなかったのだ。剣は残り少なくなった牛乳の他に、もう一パック冷蔵庫に入っていることを確認する。
「そういえば、そろそろ昼飯だな。いやぁ、いい時間に来た」
「だから……狙って来たんだろ?」
いつの間にか少女の隣に腰を下ろしていた伊三次に、剣は苦笑いを向ける。
冷蔵庫や戸棚からあれこれ取り出していたら、牛乳を入れた鍋が温まってきた。沸騰する前に火から下ろし、二つ分のマグカップに注ぎ入れる。
「けむり……」
「ああ、これは湯気な」
「『ゆげ』?」
少女の間違いを、伊三次が横から訂正する。しかし、少女はまたもよくわかっていないようだ。『たからばこ』や『まほう』はわかるのに、どうしてこういった日常で使う基本的な言葉はわからないのか、剣には謎だった。
だが『ゆげ』が熱いことはわかったようだ。少女はふぅふぅと息を吹きかけて冷ますマネをしている。
剣はカップを手に取ろうとする少女と伊三次を制止し、ミルクの中に黄色い粉を投入した。
「きな粉か?」
「ご名答」
伊三次の言葉に、剣が頷く。
軽く混ぜて、今度こそカップを前に置くと、少女は不思議そうな顔で覗き込む。さっきと違う色をしたミルクだからか、未知のものを見ているような目だ。
伊三次が追加でたくさんきな粉を入れ、がばっと大胆に飲むと、少女はその様子をじっと見つめている。様子をうかがっているらしい。
「うん、美味い」
伊三次がそう言うと、少女はカップを手にし、先ほどと同じように口をつけた。飲み終わった少女の口には、また『髭』がついている。
すると、それと同時に火にかけていたもう一つの鍋から音が聞こえ始めた。
「っと、噴いちまうな」
「この子の口は俺が拭いとくから。鍋のほう行ってくれや」
そう言うと、伊三次は手近なティッシュを手に取って少女の口周りを拭いてやった。少女は伊三次を初めて見たときのように警戒する様子もなく、されるがままだ。
あの子は警戒心がなさすぎるのではなかろうか、と剣は少し心配になったが、ひとまず鍋のほうに意識を向けることにした。
危うく沸騰する寸前だった鍋から昆布片を取り出し、調味料を量る。塩、醤油、みりんを入れ、今度は沸騰するのを待つ。その間に剣は冷凍庫から、ある四角い塊を取り出した。火の熱が伝わらないところへその塊を置き、冷蔵庫から卵とネギを取り出す。
昨日の粥を作ったときと同じものを取り出した、と気付いた少女の目が輝きだした。だが、四角い塊は初めて見るものだ。どうやら昨日食べたものとは少し違うらしいと、少女はわかったようだ。
剣はお楽しみだと言わんばかりににやりと笑い、そのまま軽快にネギを刻む。刻み終わるのとほぼ同時に、鍋の中がぐつぐつと音を立て始めた。そこへ、剣は先ほど取り出した塊三つを、大胆に投入する。それが何か気になる少女は、おずおずと剣のもとへ近付いていった。その正体を一刻も早く知りたいのだ。
剣は少女にも見えるように鍋の中を掻き回す。先ほど入れた塊は鍋の中で徐々に温まり、その形をゆっくり変えていった。最初は四角い形だったのに、今は細長い白いうどんとなって、鍋一杯に広がっている。
「……タコ?」
「タ、タコ⁉」
少女の言葉に、剣は素っ頓狂な声を上げる。
言われてみれば、鍋の中でうねうねと広がる様は、足を広げるタコのようかもしれない。だが、剣はそんなこと考えたこともなかったので面喰らってしまった。
「すごいな。そんな風に見えるのか」
思わず頭をわしゃわしゃと撫で回す剣に、少女は驚きの視線を向ける。
しかし、少女はすぐに微笑んだ。嬉しそうではあるが、どこか遠慮がちな微笑みだった。
そんな笑い方が少し気になったものの、剣はボウルを手にする。うどんが完全に茹だってしまわないうちに、ボウルに少しの酒と卵を入れて手早く溶いた。溶いたら、先ほどの刻みネギといっしょに鍋に流し入れる。
「よし、三十秒! 三十秒は絶対触らないぞ」
剣が絶対と言うと、少女は神妙に頷く。剣の気迫は伝わっているようだ。あらかじめ設定しておいた三十秒のタイマーをスタートさせ、冷蔵庫から牛乳を取り出す。
計量カップに牛乳を注いでいると、タイマーが三十秒経ったことを知らせる。タイマーを止めるより先に、剣は牛乳を鍋に注ぎ込んだ。
「えっ⁉ それ、ミルクだろ?」
遠目で見ていた伊三次が驚きの声を上げる。少女は、それが意外なことだとわかっていないようで、さっきのミルクが何に変わるのか気になるようだ。
剣は伊三次には答えずに、器にうどんを移し、机に並べる。
真っ白な湯気が立つ。卵とミルクが混ざりあった琥珀のような色のつゆに、白いうどんが浮かび上がり、ところどころにネギの緑が鮮やかに彩られている。
「さあ、できたぞ。ミルク卵うどんだ」
真っ白な湯気にのって、出汁とミルクの優しい香りが漂ってきた。少女は、立ち上ってくるかぐわしい香りを堪能している。その横で、ずずずずっ……と伊三次がうどんをすする。
「お、美味い」
「……そりゃよかった」
まず香りを楽しむという情緒が、この小さな子どもにはあって、どうして大の男に備わっていないのだろうか。剣はそんな風に考えたが……すぐにやめた。おそらく時間の無駄だろう。
それよりも、料理人としては二人に美味しいと言ってもらえることのほうが重要だ。
「ミルクを入れるなんて最初は驚いたが、なかなか合うな」
「出汁とミルクは相性がいいんだよ。今はまだ胃が弱ってるだろうし、このメニューしかないと思ってな」
「……だってさ。食べてみな。すげぇ美味いぞ」
美味しそうにうどんを頬張りながら言う伊三次を見て、少女は頷く。
彼の様子から、どのようにして食べるのか学んだらしい。そろりと箸を持ち、つゆに沈め、うどんを持ち上げようとし――つるんと逃してしまった。
「あ、あー……箸の持ち方かな。こう、持ってみな」
「? ?」
剣が箸の正しい持ち方を少女に見せる。少女は完全に握り箸の持ち方になっていた。両方の箸を握ってしまっているので、当然自由が利かない。
剣は親指と人差し指と中指の動きを見せるが、幼い子どもがすぐにものにできるはずもなかった。できないとわかった少女は、がっくりと項垂れる。自分にはこのうどんを食べることはできないと思ったのか、絶望したような表情を浮かべている。
「す、すまん。俺も教え方が下手で……」
「そんなすぐにできるわけないだろうが。フォークでも使わせてやれ」
「そうだな」
伊三次の提案に剣が頷く。
子ども用の小さなフォークなどあるはずもなく、仕方なく大人用のものを手に持たせた。すると、剣の心配をよそに、少女は器用にうどんを巻き取って食べている。
箸の扱いに慣れていないだけらしい。
「……美味しいか?」
剣が尋ねると、少女は頬張りながら大きく大きく頷く。食べる手を止める間が惜しいというように、少女はすぐに器に視線を戻して、次の一口を口に運ぶ。
「ははは、ご好評みたいだぞ」
「みたいだな。箸の使い方は……まあ、おいおい覚えればいいよな」
剣がそう呟くと、伊三次が食べる手を止めた。
ちらりと少女を一瞥し、剣に視線を向ける。たしなめるような視線だ。
「どうした?」
「おまえ、今の一言は不用意じゃないか?」
「え? 不用意って……何がだ?」
伊三次は、少女に聞こえないようにできるだけ声を落とす。
「『おいおい覚えればいい』ってあたりだ。まさかおまえが教えていくつもりか? 他人で、しかもあやかしのおまえが?」
「あ……」
無意識に、そう言ってしまっていたことに剣は驚く。
伊三次が言っているとおり、剣は自分が教えるつもりで呟いていた。実の両親が教えてくれるだろうとは、露ほども考えなかった。
自分は、この子を親元へ帰すつもりで伊三次を頼ったというのに、どうしてそんな考えが浮かんだのか。剣は無意識に、この少女との今後を思い描いてしまっていた。
「いかんいかん。昨日から、あんまり美味そうに食べてくれるもんだから、つい……」
「気付いてくれてよかったよ。おまえの思うそれは、犬猫に対するものと大して変わらないんだからな」
「わかってるよ……俺なんかが側にいたって、この子のためにもならないよな」
「そこまでは言ってねえよ。ただまぁ……そのとおりだ」
言葉を濁しながらも、伊三次は依然として厳しい視線を向けたままだ。
曲がりなりにも探偵をしている伊三次は、不幸な子どもも親もたくさん見てきたと、以前語っていたことを剣は思い出した。伊三次には、安っぽい同情こそが最も人を傷つける凶器だと思えてならないのだ。今、剣が少女にしている施しも、きっとその『安っぽい同情』に分類されてしまう。剣には、少女のこれから先のことなど、何も責任が持てないのだから。
そんな話をしていると、今度は剣の箸が止まってしまった。
「……おまえがしたことは、間違いじゃないとは思うさ」
伊三次はぼそりと呟くと、うどんを一口すすった。
出汁とミルクが合わさったほんのり優しい香りが、器から広がる。
「あまり肩入れしすぎるなってことだよ」
伊三次はそう言うと、大きな口で残りのうどんを掻き込んだ。それと同時に、横に座っていた少女の口元についたミルクを拭ってやる。
「肩入れしてるのはどっちだよ」
剣はそう呟いたあと、わざと音を立ててうどんをすすった。少女もまた次々とうどんを口に運ぶのだった。少女が最後の一口を飲み込んだとき、伊三次がぴくんと何かに反応を示す。
「どうした?」
「ん……帰ってきた」
「帰ってきたって……ああ」
伊三次は立ち上がると、おもむろに外と通じる勝手口を開いた。すると、外の冷気とともに、真っ白い光が二つ、尾を引いて室内に入り込む。
「‼」
少女は、驚いて竦み上がった。
伊三次は勝手口を閉じると、室内をふわふわと漂う二つの光に近付いて、そっと触れる。
「ご苦労だったな。銀、銅」
伊三次の言葉に応えるように、光は形を変える。徐々に輪郭を露わにし、丸い形からしなやかな肢体が、毛並みが生まれ、最後には優美な白い二匹の狐がそこに出現した。
「きつね⁉」
少女が思わず叫ぶと、二匹の狐は声の主を振り返る。
「『きつね』ではない。名で呼べ」
「我らをそこらの狐風情と同じように呼ぶとは、不躾な童じゃのう」
狐は、二匹揃って流暢に人間の言葉を話している。そのことに少女は目を白黒させて、口もパクパクさせ、どこから驚いていいものかわからないといった様子だ。
二匹に慣れている剣は少女を落ち着かせ、伊三次はつんとすました狐二匹にゲンコツを落とす。
「主様……今の扱いは理不尽であり不合理であり不当です……!」
「そうじゃ、主様! 労わられるならまだしも、お叱りを受ける謂れなどありませんぞ!」
「やかましい! 子どもを驚かせるおまえらが悪い!」
震える少女をなだめながら、剣は伊三次と二匹の様子を苦笑いして見つめる。
「相変わらずだなぁ。おまえのとこの管狐たちは」
管狐――それは憑き物の一種と言われている。中部、東海、東北地方にその伝承が多く残っており、その姿は『コエゾイタチ』という説もあるが、ここにいる二匹は、真っ白な狐だ。そして、その管狐を使役して、予言や占術、呪術を行う者が古くから存在している。彼らが使うのは、飯綱法という特殊な法術だ。
伊三次こそ、その飯綱法の修行を積んだ行者であった。山岳修行が盛んであった頃、伊三次は飯綱権現で知られる飯綱山に名を連ねたのだった。才覚と信仰心を持ち合わせる彼は、一度は天狗へと召し上げられた。
『天狗』は妖怪として広く知られている。山に踏み入る者をおどかしたり、攫ったりするという、数々の伝承が残っている。
しかし、伊三次が召し上げられたのは、山を行く人々を見守り、危険から救い、信者の願いを聞き届けることを使命とする『護法天狗』――神の遣い、眷属としてであった。
そして伊三次を、その『護法天狗』へと召し上げたのは、飯綱山に仕える天狗たちを束ねる頭領、飯綱三郎だった。古より飯綱権現と飯縄三郎天狗は同一とされているが、伊三次を召し上げた飯縄三郎は、権現より天狗の頭領としての役目を任された二代目にあたる。
伊三次は飯綱三郎からも一目置かれていたが、とある罪を犯し、山を追放されてしまう。人里に下りる際、それまでの働きと、彼の才覚を認め、惜しんでくれたのは、誰あろう飯綱三郎その人であった。頭領は、その立場ゆえに罪を許すわけにはいかなかった。
だが人里で暮らす際に、自らの名からとった『三』の文字を名として使うことを密かに認めたのである。これは頭領としての、せめてもの餞であった。伊三次は時勢に合わせて名を変えて生きてきた。今まで名乗ってきた数多の名は、いずれも『三』の字が入っている。
今名乗っている『伊三次』という名は、とある時代劇に出てくる密偵の名で、ちょうど『三』を使っていた。ついでにその密偵がいい男だったので、勝手に借り受けることにしているのだ。
「で、伊三次さんよ。昨日からその二匹に調査を頼んでたんだな」
「そういうことだ。何も情報がないから苦労したぜ」
伊三次がそうぼやくと、目の前にいた狐二匹がぷんぷんと憤慨する。
「苦労したのは私どもです!」
「そうじゃ! 主様は我らに苦行を強いておいて、自分一人、剣殿の美味い飯をちゃっかりと……!」
「わかった悪かったって。剣、すまんがこいつらにも何か食わせてやってくれるか?」
「わかった。さっきのと同じうどんでいいか?」
伊三次の言葉に剣が答える。
「! 剣殿のご飯か⁉」
「そりゃあ、俺が頼んだことだしな」
「やったぞ! 働いた甲斐があったのう!」
銅がそう叫ぶと、二匹はもう一度姿を変える。
今度は狐よりもさらに輪郭が大きくなり……人間の姿になった。豊かな銀の髪を揺らす、美しい容貌の男性の姿に。二人とも、年は剣たちより少し若く、二十代前半くらいの美しい容姿だ。その上、スーツを着込んでおり、品格まで漂っている。その顔は一つのものを分け合ったかのように瓜二つなのだが、それぞれ少し違う。
銀は長い銀髪をきっちりと結い上げ、スーツもボタンを上まで留め、しっかりとネクタイを締めた規律正しい姿だ。対して銅は銀髪を後ろで無造作に結い、スーツも前を開けたり袖をまくったりとラフな格好だ。同じ顔だが、どうも性質は真逆らしい。
そんな二つの美しい顔が、揃って少女のほうに向く。
「‼」
少女は驚愕し、剣の背後に隠れた。
目の前で狐が喋ったかと思えば、次は人間の姿に変わったのだから、当然だろう。
剣は、少女が足にくっついたままの体勢で、再び調理台に向かった。
「ほら、ホットミルクだ。飲みな」
「!」
剣はもくもくと湯気が立つ大きめのマグカップを少女の前に置いた。長らく剣が一人暮らしをしているこの家には、子ども向けの小さなサイズの食器など備えがないのだ。
「武骨だねぇ」
「うるさい」
男二人の会話など耳に入らない様子で、少女はカップの中身を見つめている。
「どうした? 嫌いか?」
「……『しろ』?」
「え、ああそうだな。白いな」
「『しろい』……ゆき?」
「いや、ミルクだ。雪よりもずっとあったかいし、栄養もあるんだ。飲んでみな」
剣の言葉に少女は頷くと、いったん湯気をふうっと吹いて、一口、口に含んだ。
「!」
熱いのかと思いきや、少女は目を輝かせている。
ごくりと、最初の一口を飲み込むと、続けてごくごくと音を立てて飲み始めた。
「美味しいだろ。砂糖とはまた違う甘さだな」
剣がそう言うと、少女はぷはっと小さな声を上げて、マグカップを置いた。その口の周りには、サンタクロースの髭のように白いミルクがくっきりついている。
「ミルクついてるぞ」
剣が手近なティッシュで少女の口の周りを拭ってやっていると、向かいに座る男がにやにやと笑っている。
「俺もホットミルク飲みたーい」
「おまえは自分で作れ」
剣と伊三次がそんなやりとりをしていると、剣の隣で少女が何やらもじもじしている。マグカップを持って、何か言いたそうな表情だった。
「……もう一杯飲みたいか?」
剣がそう尋ねると、少女は小さく遠慮がちに頷く。
「おまえはそんなに遠慮しなくていいんだよ……よしよし、もう一杯いれような」
「え、俺は?」
「わかったよ。ついでにいれてやる」
「よっしゃ! ありがとうな。お嬢ちゃんのおかげで俺もあったかいミルクが飲める」
伊三次がそう笑いかけると、少女は目を逸らしながらも、一瞬だけ口の端を上げた。
「まあ、ついでだから飯も作るか。作るとこ、見るか?」
剣が少女にそう尋ねると、少女はこくこく頷いて、素早くこたつから脱出し、剣の側に立った。伊三次が動く気配はない。
「おじさんはほっとこう。おじさんだから元気がないんだよ」
「?」
そう言って、剣はさっさと居間をあとにする。少女は一瞬だけ伊三次を振り返り、剣のあとに迷わずついていった。
「……ちぇっ」
伊三次も仕方なさそうにこたつから足を引き抜いて、居間をあとにする。廊下に出ると、伊三次は寒さに思わずぶるっと体を震わせた。
❖
少女に半纏を着せてから台所に連れていき、適当な椅子に座らせると、剣は調理台に向かう。鍋を二つ取り出し、一つには牛乳を、もう一つにはたっぷりの水と昆布を入れて、火にかける。
(牛乳が切れそうだったから、伊三次に買い出しを頼んでおいてよかった)
いきなり三杯分のホットミルクで消費するとは思っていなかったのだ。剣は残り少なくなった牛乳の他に、もう一パック冷蔵庫に入っていることを確認する。
「そういえば、そろそろ昼飯だな。いやぁ、いい時間に来た」
「だから……狙って来たんだろ?」
いつの間にか少女の隣に腰を下ろしていた伊三次に、剣は苦笑いを向ける。
冷蔵庫や戸棚からあれこれ取り出していたら、牛乳を入れた鍋が温まってきた。沸騰する前に火から下ろし、二つ分のマグカップに注ぎ入れる。
「けむり……」
「ああ、これは湯気な」
「『ゆげ』?」
少女の間違いを、伊三次が横から訂正する。しかし、少女はまたもよくわかっていないようだ。『たからばこ』や『まほう』はわかるのに、どうしてこういった日常で使う基本的な言葉はわからないのか、剣には謎だった。
だが『ゆげ』が熱いことはわかったようだ。少女はふぅふぅと息を吹きかけて冷ますマネをしている。
剣はカップを手に取ろうとする少女と伊三次を制止し、ミルクの中に黄色い粉を投入した。
「きな粉か?」
「ご名答」
伊三次の言葉に、剣が頷く。
軽く混ぜて、今度こそカップを前に置くと、少女は不思議そうな顔で覗き込む。さっきと違う色をしたミルクだからか、未知のものを見ているような目だ。
伊三次が追加でたくさんきな粉を入れ、がばっと大胆に飲むと、少女はその様子をじっと見つめている。様子をうかがっているらしい。
「うん、美味い」
伊三次がそう言うと、少女はカップを手にし、先ほどと同じように口をつけた。飲み終わった少女の口には、また『髭』がついている。
すると、それと同時に火にかけていたもう一つの鍋から音が聞こえ始めた。
「っと、噴いちまうな」
「この子の口は俺が拭いとくから。鍋のほう行ってくれや」
そう言うと、伊三次は手近なティッシュを手に取って少女の口周りを拭いてやった。少女は伊三次を初めて見たときのように警戒する様子もなく、されるがままだ。
あの子は警戒心がなさすぎるのではなかろうか、と剣は少し心配になったが、ひとまず鍋のほうに意識を向けることにした。
危うく沸騰する寸前だった鍋から昆布片を取り出し、調味料を量る。塩、醤油、みりんを入れ、今度は沸騰するのを待つ。その間に剣は冷凍庫から、ある四角い塊を取り出した。火の熱が伝わらないところへその塊を置き、冷蔵庫から卵とネギを取り出す。
昨日の粥を作ったときと同じものを取り出した、と気付いた少女の目が輝きだした。だが、四角い塊は初めて見るものだ。どうやら昨日食べたものとは少し違うらしいと、少女はわかったようだ。
剣はお楽しみだと言わんばかりににやりと笑い、そのまま軽快にネギを刻む。刻み終わるのとほぼ同時に、鍋の中がぐつぐつと音を立て始めた。そこへ、剣は先ほど取り出した塊三つを、大胆に投入する。それが何か気になる少女は、おずおずと剣のもとへ近付いていった。その正体を一刻も早く知りたいのだ。
剣は少女にも見えるように鍋の中を掻き回す。先ほど入れた塊は鍋の中で徐々に温まり、その形をゆっくり変えていった。最初は四角い形だったのに、今は細長い白いうどんとなって、鍋一杯に広がっている。
「……タコ?」
「タ、タコ⁉」
少女の言葉に、剣は素っ頓狂な声を上げる。
言われてみれば、鍋の中でうねうねと広がる様は、足を広げるタコのようかもしれない。だが、剣はそんなこと考えたこともなかったので面喰らってしまった。
「すごいな。そんな風に見えるのか」
思わず頭をわしゃわしゃと撫で回す剣に、少女は驚きの視線を向ける。
しかし、少女はすぐに微笑んだ。嬉しそうではあるが、どこか遠慮がちな微笑みだった。
そんな笑い方が少し気になったものの、剣はボウルを手にする。うどんが完全に茹だってしまわないうちに、ボウルに少しの酒と卵を入れて手早く溶いた。溶いたら、先ほどの刻みネギといっしょに鍋に流し入れる。
「よし、三十秒! 三十秒は絶対触らないぞ」
剣が絶対と言うと、少女は神妙に頷く。剣の気迫は伝わっているようだ。あらかじめ設定しておいた三十秒のタイマーをスタートさせ、冷蔵庫から牛乳を取り出す。
計量カップに牛乳を注いでいると、タイマーが三十秒経ったことを知らせる。タイマーを止めるより先に、剣は牛乳を鍋に注ぎ込んだ。
「えっ⁉ それ、ミルクだろ?」
遠目で見ていた伊三次が驚きの声を上げる。少女は、それが意外なことだとわかっていないようで、さっきのミルクが何に変わるのか気になるようだ。
剣は伊三次には答えずに、器にうどんを移し、机に並べる。
真っ白な湯気が立つ。卵とミルクが混ざりあった琥珀のような色のつゆに、白いうどんが浮かび上がり、ところどころにネギの緑が鮮やかに彩られている。
「さあ、できたぞ。ミルク卵うどんだ」
真っ白な湯気にのって、出汁とミルクの優しい香りが漂ってきた。少女は、立ち上ってくるかぐわしい香りを堪能している。その横で、ずずずずっ……と伊三次がうどんをすする。
「お、美味い」
「……そりゃよかった」
まず香りを楽しむという情緒が、この小さな子どもにはあって、どうして大の男に備わっていないのだろうか。剣はそんな風に考えたが……すぐにやめた。おそらく時間の無駄だろう。
それよりも、料理人としては二人に美味しいと言ってもらえることのほうが重要だ。
「ミルクを入れるなんて最初は驚いたが、なかなか合うな」
「出汁とミルクは相性がいいんだよ。今はまだ胃が弱ってるだろうし、このメニューしかないと思ってな」
「……だってさ。食べてみな。すげぇ美味いぞ」
美味しそうにうどんを頬張りながら言う伊三次を見て、少女は頷く。
彼の様子から、どのようにして食べるのか学んだらしい。そろりと箸を持ち、つゆに沈め、うどんを持ち上げようとし――つるんと逃してしまった。
「あ、あー……箸の持ち方かな。こう、持ってみな」
「? ?」
剣が箸の正しい持ち方を少女に見せる。少女は完全に握り箸の持ち方になっていた。両方の箸を握ってしまっているので、当然自由が利かない。
剣は親指と人差し指と中指の動きを見せるが、幼い子どもがすぐにものにできるはずもなかった。できないとわかった少女は、がっくりと項垂れる。自分にはこのうどんを食べることはできないと思ったのか、絶望したような表情を浮かべている。
「す、すまん。俺も教え方が下手で……」
「そんなすぐにできるわけないだろうが。フォークでも使わせてやれ」
「そうだな」
伊三次の提案に剣が頷く。
子ども用の小さなフォークなどあるはずもなく、仕方なく大人用のものを手に持たせた。すると、剣の心配をよそに、少女は器用にうどんを巻き取って食べている。
箸の扱いに慣れていないだけらしい。
「……美味しいか?」
剣が尋ねると、少女は頬張りながら大きく大きく頷く。食べる手を止める間が惜しいというように、少女はすぐに器に視線を戻して、次の一口を口に運ぶ。
「ははは、ご好評みたいだぞ」
「みたいだな。箸の使い方は……まあ、おいおい覚えればいいよな」
剣がそう呟くと、伊三次が食べる手を止めた。
ちらりと少女を一瞥し、剣に視線を向ける。たしなめるような視線だ。
「どうした?」
「おまえ、今の一言は不用意じゃないか?」
「え? 不用意って……何がだ?」
伊三次は、少女に聞こえないようにできるだけ声を落とす。
「『おいおい覚えればいい』ってあたりだ。まさかおまえが教えていくつもりか? 他人で、しかもあやかしのおまえが?」
「あ……」
無意識に、そう言ってしまっていたことに剣は驚く。
伊三次が言っているとおり、剣は自分が教えるつもりで呟いていた。実の両親が教えてくれるだろうとは、露ほども考えなかった。
自分は、この子を親元へ帰すつもりで伊三次を頼ったというのに、どうしてそんな考えが浮かんだのか。剣は無意識に、この少女との今後を思い描いてしまっていた。
「いかんいかん。昨日から、あんまり美味そうに食べてくれるもんだから、つい……」
「気付いてくれてよかったよ。おまえの思うそれは、犬猫に対するものと大して変わらないんだからな」
「わかってるよ……俺なんかが側にいたって、この子のためにもならないよな」
「そこまでは言ってねえよ。ただまぁ……そのとおりだ」
言葉を濁しながらも、伊三次は依然として厳しい視線を向けたままだ。
曲がりなりにも探偵をしている伊三次は、不幸な子どもも親もたくさん見てきたと、以前語っていたことを剣は思い出した。伊三次には、安っぽい同情こそが最も人を傷つける凶器だと思えてならないのだ。今、剣が少女にしている施しも、きっとその『安っぽい同情』に分類されてしまう。剣には、少女のこれから先のことなど、何も責任が持てないのだから。
そんな話をしていると、今度は剣の箸が止まってしまった。
「……おまえがしたことは、間違いじゃないとは思うさ」
伊三次はぼそりと呟くと、うどんを一口すすった。
出汁とミルクが合わさったほんのり優しい香りが、器から広がる。
「あまり肩入れしすぎるなってことだよ」
伊三次はそう言うと、大きな口で残りのうどんを掻き込んだ。それと同時に、横に座っていた少女の口元についたミルクを拭ってやる。
「肩入れしてるのはどっちだよ」
剣はそう呟いたあと、わざと音を立ててうどんをすすった。少女もまた次々とうどんを口に運ぶのだった。少女が最後の一口を飲み込んだとき、伊三次がぴくんと何かに反応を示す。
「どうした?」
「ん……帰ってきた」
「帰ってきたって……ああ」
伊三次は立ち上がると、おもむろに外と通じる勝手口を開いた。すると、外の冷気とともに、真っ白い光が二つ、尾を引いて室内に入り込む。
「‼」
少女は、驚いて竦み上がった。
伊三次は勝手口を閉じると、室内をふわふわと漂う二つの光に近付いて、そっと触れる。
「ご苦労だったな。銀、銅」
伊三次の言葉に応えるように、光は形を変える。徐々に輪郭を露わにし、丸い形からしなやかな肢体が、毛並みが生まれ、最後には優美な白い二匹の狐がそこに出現した。
「きつね⁉」
少女が思わず叫ぶと、二匹の狐は声の主を振り返る。
「『きつね』ではない。名で呼べ」
「我らをそこらの狐風情と同じように呼ぶとは、不躾な童じゃのう」
狐は、二匹揃って流暢に人間の言葉を話している。そのことに少女は目を白黒させて、口もパクパクさせ、どこから驚いていいものかわからないといった様子だ。
二匹に慣れている剣は少女を落ち着かせ、伊三次はつんとすました狐二匹にゲンコツを落とす。
「主様……今の扱いは理不尽であり不合理であり不当です……!」
「そうじゃ、主様! 労わられるならまだしも、お叱りを受ける謂れなどありませんぞ!」
「やかましい! 子どもを驚かせるおまえらが悪い!」
震える少女をなだめながら、剣は伊三次と二匹の様子を苦笑いして見つめる。
「相変わらずだなぁ。おまえのとこの管狐たちは」
管狐――それは憑き物の一種と言われている。中部、東海、東北地方にその伝承が多く残っており、その姿は『コエゾイタチ』という説もあるが、ここにいる二匹は、真っ白な狐だ。そして、その管狐を使役して、予言や占術、呪術を行う者が古くから存在している。彼らが使うのは、飯綱法という特殊な法術だ。
伊三次こそ、その飯綱法の修行を積んだ行者であった。山岳修行が盛んであった頃、伊三次は飯綱権現で知られる飯綱山に名を連ねたのだった。才覚と信仰心を持ち合わせる彼は、一度は天狗へと召し上げられた。
『天狗』は妖怪として広く知られている。山に踏み入る者をおどかしたり、攫ったりするという、数々の伝承が残っている。
しかし、伊三次が召し上げられたのは、山を行く人々を見守り、危険から救い、信者の願いを聞き届けることを使命とする『護法天狗』――神の遣い、眷属としてであった。
そして伊三次を、その『護法天狗』へと召し上げたのは、飯綱山に仕える天狗たちを束ねる頭領、飯綱三郎だった。古より飯綱権現と飯縄三郎天狗は同一とされているが、伊三次を召し上げた飯縄三郎は、権現より天狗の頭領としての役目を任された二代目にあたる。
伊三次は飯綱三郎からも一目置かれていたが、とある罪を犯し、山を追放されてしまう。人里に下りる際、それまでの働きと、彼の才覚を認め、惜しんでくれたのは、誰あろう飯綱三郎その人であった。頭領は、その立場ゆえに罪を許すわけにはいかなかった。
だが人里で暮らす際に、自らの名からとった『三』の文字を名として使うことを密かに認めたのである。これは頭領としての、せめてもの餞であった。伊三次は時勢に合わせて名を変えて生きてきた。今まで名乗ってきた数多の名は、いずれも『三』の字が入っている。
今名乗っている『伊三次』という名は、とある時代劇に出てくる密偵の名で、ちょうど『三』を使っていた。ついでにその密偵がいい男だったので、勝手に借り受けることにしているのだ。
「で、伊三次さんよ。昨日からその二匹に調査を頼んでたんだな」
「そういうことだ。何も情報がないから苦労したぜ」
伊三次がそうぼやくと、目の前にいた狐二匹がぷんぷんと憤慨する。
「苦労したのは私どもです!」
「そうじゃ! 主様は我らに苦行を強いておいて、自分一人、剣殿の美味い飯をちゃっかりと……!」
「わかった悪かったって。剣、すまんがこいつらにも何か食わせてやってくれるか?」
「わかった。さっきのと同じうどんでいいか?」
伊三次の言葉に剣が答える。
「! 剣殿のご飯か⁉」
「そりゃあ、俺が頼んだことだしな」
「やったぞ! 働いた甲斐があったのう!」
銅がそう叫ぶと、二匹はもう一度姿を変える。
今度は狐よりもさらに輪郭が大きくなり……人間の姿になった。豊かな銀の髪を揺らす、美しい容貌の男性の姿に。二人とも、年は剣たちより少し若く、二十代前半くらいの美しい容姿だ。その上、スーツを着込んでおり、品格まで漂っている。その顔は一つのものを分け合ったかのように瓜二つなのだが、それぞれ少し違う。
銀は長い銀髪をきっちりと結い上げ、スーツもボタンを上まで留め、しっかりとネクタイを締めた規律正しい姿だ。対して銅は銀髪を後ろで無造作に結い、スーツも前を開けたり袖をまくったりとラフな格好だ。同じ顔だが、どうも性質は真逆らしい。
そんな二つの美しい顔が、揃って少女のほうに向く。
「‼」
少女は驚愕し、剣の背後に隠れた。
目の前で狐が喋ったかと思えば、次は人間の姿に変わったのだから、当然だろう。
剣は、少女が足にくっついたままの体勢で、再び調理台に向かった。
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