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第二章 四品目 ころころ”パンダさん”

17 奈々の、夏休み

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『皆で一緒に、ご飯を食べよう』
 泉竹志はそう言った。
 奈々は今までも、何度もそう言われてきた。だけど、今日ほどその言葉が、胸に染み入ったことはなかった。
 子どもの頃から家族でご飯を食べるのは、他の家庭と同様、当たり前だった。なのに、どうしてか、それが久々のことだったような気がするのだ。
 忙しい両親に代わって掃除して、洗濯して、ご飯を作って、天の面倒を見て……それらに必死で、誰かと一緒に何かをしたという感覚がすっぽり抜け落ちている。
 別に自分一人で何もかもしているだなんて、思い上がっているつもりはない。ないけれど、そんな感覚が否めないのも事実だ。
 天と手を繋ぐことなんて毎日だった。子どもは体温が高いと、それくらいにしか思わなくなっていた。それなのに今日、天の身体を抱きしめて、驚いた。
 こんなに、温かかったっけ――?
 そう、思ったのだった。
 隣の布団で気持ち良さそうに寝息を立てる天を見て、なんだか胸がぽかぽかするのも、久々のような気がしていた。
(いつもは、やっと寝てくれたってホッとしてただけやけど、今日は……なんか違う)
 どう違うのか、言葉にできない。だけど、いつも胸に抱くようなもやもやとは、少し違った。
 これはよくわからないが、胸の高ぶりだ。どうしてか、本当にわからない。
 このまま布団に入っていても眠れないような気がしていると、ふと枕元のスマートフォンが振動した。着信音は鳴らないとはいえ、振動だけで結構な音がする。
 天が起きていないか心配になったが、幸い、天は気持ちよく眠っているようだ。
 ほっとして、奈々は通知を確認した。メッセージアプリの着信だった。タップして、文面を確認すると……奈々はなんだかまた胸が重くなったのを感じ、そっと布団を抜け出した。
 時計を見ると、午前二時だった。皆、寝ている時間だ。
 晶は二階の部屋だから、多少の物音では起きないだろうが、道聖おじさんはすぐ隣の部屋で寝ているはず。起こさないように、奈々は忍び足で歩き、居間に入った。
 すると、そこには先客がいた。起こさないようにと気を遣っていた、道聖おじさんだ。
「おや、奈々ちゃん。どうした?」
 道聖おじさんは、ソファに座って、少しだけ驚きつつも、穏やかにそう言った。
 奈々は、不思議とその声を聞いて安らいだ。
「なんか……寝られへんくて」
「そうか。何か、飲むか?」
 台所に向かおうとする道聖おじさんを、奈々は止めた。
 道聖おじさんは立ち上がるのを止め、ソファに座るよう勧めた。奈々は遠慮がちに、道聖おじさんから一人分の間隔を空けて、座った。
「まぁ、なんだ……君も大変だろうが、背負いすぎないようにな」
 なんのことかと思ったが、すぐに思い至った。野保は、少しだけ申し訳なさそうに説明を加えた。
「すまんな。晶から今日のことを、ある程度聞いた」
「いいんです。私こそ、ごめんなさい……ご迷惑をおかけして……」
「迷惑だなんて、思わなくていい」
 道聖おじさんの声は、まるで温かいお湯のようだった。一言一言が、優しく染み入っていく。だが同時に、痛みも感じる。まるで擦り傷がしみるように。
「迷惑ですよ……私がしっかりしてへんから」
「朝の怪我のことか? あれだけ元気な子なら、いずれはああなっていたと思うぞ。何もなかったんだからいいじゃないか」
「でも、その後、天ちゃんに怒鳴っちゃって……晶ちゃんにまで……」
「晶は迷惑だと言っていたか? そんなこと、少しも言っていないし、思っていないと聞いているぞ」
「……泉さん、は?」
「彼がそんなことで文句を言うように見えるか?」
 奈々は、首を横に振った。ほんの一ヶ月足らずではあるが、毎日朝から夕方まで一緒に過ごしていればわかる。
 泉竹志という人は、いい人だ。
 自分のことも、天のことも、嫌な顔一つせずに受け止めてくれる。
 どうして、彼のようにできないのかと何度も自分を責めた。彼は仕事だからと言っていたが、奈々だって、家族の中でそういう枠目を担っているのだ。
「……あ」
 そう考えた時、ふと、晶の言った言葉がよぎった。
『奈々ちゃんに当てはめて考えれば、受験勉強が”義務”、天ちゃん関連は”仕事”ね』
 ”義務”と”仕事”は似て非なる物だと、そう言われた。”仕事”は、奈々だけが引き受けなければいけないことではないのだと。
 そう言われて、一瞬、心が軽くなった。だけど、すぐにまた重たくなった。
 奈々はソファの上で膝を抱え、顔を埋めた。
「……もう、なんか、ようわからへん」
「何がだ?」
 問われても、すぐには言葉にできなかった。だけど道聖おじさんは、急かすようなことを一つも言わない。ただじっと、奈々の言葉を待ってくれていた。
「……天ちゃんには、私がついてへんとあかん。私が、見ないとあかんのです」
 道聖おじさんは、何も言わない。かろうじて、頷いているような気配を感じる。
「でも時々……ううん、もう最近ずっと、天ちゃんと一緒にいるの、しんどい」
「……そうか」
 どこかで、道聖おじさんはそう言ってくれるような気がしていた。きっと否定しないでくれるだろうと。だが、すぐにそんな甘えた思いに嫌気が差す。
「でも私がそんなん言うたら、あかんし……私はお姉ちゃん……『ねね』やし、私がちゃんと見てなかったせいで怪我したし、お父さんもお母さんも忙しいし……私しか、見る人おらんし。それやのに、何でこんなこと思うんやろ……!」
 気付けば、両手を握りしめていた。爪が手のひらに食い込んで痛い。だけどその痛みすら、受け止めなければいけないような気になっていた。
「昔は、こんなん思わんかった。産まれたばっかりの時は可愛いなって……小学生になってやっとお姉ちゃんになれて嬉しいなって……でも今は、そんなん全然思えなくて……私、どうしちゃったんやろって思う。いつの間に天ちゃんを……弟を鬱陶しいなんて、そんな酷いこと思うようになってしまったんやろ……」
 その時、隣から静かに何か差し出された。ティッシュケースだ。受け取って初めて、奈々は自分が泣いていることに気付いた。
 急いで目元を拭っていると、その音に重なるように、道聖おじさんはぽつりと言葉を零した。
「君は、あれだけ毎日頑張っているんだ。そりゃあ、疲れるだろう」
「疲れる……?」
「洗濯して、干して、天ちゃんの面倒を見て、勉強もして……家だと、他の家事もやっていたんだろう? 大人だってたまらんよ、そんな仕事量は」
「でも、全部家族のことやし。私しかやる人おらんし。それを疲れたなんて言うのは、やっぱり私、なんかおかしいんじゃ……」
「家族なんて、面倒で疲れるものだ」
 奈々は驚き、道聖おじさんを振り返った。こちらを見ずに、おじさんは続けた。
「私と晶を見ろ。お互いにすり減らし続けているだろう」
「えーと……」
 否定は、できない。なんて答えればいいのかわからない曖昧な返事をしていると、再びおじさんは告げた。
「だけどな、大事に思っていないわけじゃないんだ。両極端な気持ちではあるが、きっとそれらは両立しうるものなんだよ。泉くんが、それを教えてくれた」
 目を瞬かせて聞く奈々に、おじさんはやっと振り返った。その顔は、淡く、優しく、微笑んでいた。
「大丈夫。君は、天ちゃんを、家族を、ちゃんと愛している」
 そして、奈々の頭に、ふわりと大きな温もりが振ってきた。
「疲れないのが愛じゃない。愛しすぎて、疲れてしまった。それほどに深くて純粋なんだよ、君の気持ちは」
 おじさんの手が、奈々の頭を何度も優しく撫でた。
 奈々はその温もりに身を任せて、また膝に顔を埋めた。今の顔を、見られたくなかったのだ。
 ほんの少し、おじさんの手が離れたかと思うと、目の前に麦茶の入ったコップが差し出された。
 口にすると、麦茶は、なんだか少ししょっぱい味がした。そんな味を飲み込むと、気付けば奈々の口からぽろりと零れていた。
「……帰るの、嫌や」
「うん?」
 奈々は、詳しく答える前に、持っていたスマートフォンを野保にそろりと見せた。画面にはメッセージアプリでのやりとりが表示されている。相手は、奈々の母だ。
 奈々の母は、こう告げていた。
『明日、迎えに行くね』と――。
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