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五章 天狗様、奔る
十五
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「そう聞こえなかったか? 耳まで悪くなるとは相当だな」
僧正坊がまた憎まれ口を叩く。だが普段なら反発する治朗も、今は何も言わなかった。その言葉の意味に、同意しているのだ。
「そいつは僕を狙って来たんだ。僕が始末をつけなきゃダメだろう」
「どこにそんな決まりがあるんだ? 誰だっていいだろ。ここは誰の山でもないんだしよ」「いや、人里における山の持ち主はいるが……この山の主たる天狗はいない。ならば、通りがかった我々が事を済ませる……そうでしょう、兄者?」
太郎はぐっと踏みとどまった。
確かに、縄張り意識の強い天狗同士において、他の山での揉め事に介入することは許されない。だが主のいない山ならば、その限りではない。それが不文律だった。
今、この場を仕切るのは、この場に存在する天狗たちの役目なのだ。
「幸い、この場には大天狗の頭領が二人もいる。大人しく従っておけ」
太郎はまだ言い募ろうとした。疲弊しきった顔を精一杯引き締めて、治朗たちに並ぼうとする。
そんな太郎を止めたのは、治朗だった。
「兄者、いいから逃げて下さい」
「治朗まで何を……」
「あなたがやるべきは、この鬼の意趣返しに付き合ってやることではない。藍を守ることでしょう」
治朗は、太郎の両肩をがっしりと掴み、しっかりとその瞳を捉えた。
「あなたが守らずして、誰が守るのですか。あいつを……!」
治朗の視線が、太郎からほんの少し逸れた。太郎の背後にいる、藍に向けられているのだと、太郎にはわかった。
「……わかった」
それだけ、短く告げると、太郎は踵を返した。
「行こう。どこかにこの結界を破れるような綻びがあるはずだ」
太郎は藍たちを促し、振り返らないようにその場から走り去った。一度だけ、慧が振り返り、治朗たちにぺこりと頭を下げた。
その姿を見送ると、治朗たちは鬼と真正面から対峙した。
鬼は、太郎が去って行ったことで激高しているようだ。だが目の前の治朗たちに気圧されて、前に進めずにいる……といったところだった。
吠えるばかりで寄ってこない鬼を、僧正坊がせせら笑った。
「ふん、思った以上に小物のようだな」
その言葉に、鬼は憤慨したようだった。再び腕を振り上げ、襲いかかろうと大きく体を揺らしている。
「まぁ、俺たちの敵じゃあねえな。意外だったのは、治朗があんなに真剣にお嬢を逃がそうとしたことだな。情でも移ったか?」
三郎のからかうような口調に、いつもなら怒る治朗が、今日はいやに神妙だった。考え込んでまだ迷っているような声で、治朗はぽつりと呟いた。
「そうかもしれん」
「え……ほんとに?」
「藍は……強がっていても、本当はか弱くか細い。人間とは皆そうで、簡単に壊れてしまう儚い存在だ。俺のような者が、守らねばならない」
三郎と僧正坊、長年山を預かってきた大天狗の頭領二人が、この若い天狗を驚きの眼で見つめていた。片方は喜びの色を、片方は好奇の色を、それぞれ宿していた。
「なるほど。朱に交われば何とやらってやつか」
「あの猪娘……ただの脳筋かと思っていたが、どうしてなかなか……次代を担うと言われている大天狗の跡取り二人の考えを改めさせてしまうとはな……」
僧正坊は、愉快そうだった。それは三郎も同様だった。
「よぅし……ほんじゃ、行きますか」
「天狗経に謳われるこの国最強の八天狗のうち三狗が相手をしてやるんだ。光栄に思え」
「山を荒らし、命を散らした報い……その身で受けてもらうぞ……!」
そして、三人の天狗が、一斉に黒い翼を広げ、舞い上がったーー!
僧正坊がまた憎まれ口を叩く。だが普段なら反発する治朗も、今は何も言わなかった。その言葉の意味に、同意しているのだ。
「そいつは僕を狙って来たんだ。僕が始末をつけなきゃダメだろう」
「どこにそんな決まりがあるんだ? 誰だっていいだろ。ここは誰の山でもないんだしよ」「いや、人里における山の持ち主はいるが……この山の主たる天狗はいない。ならば、通りがかった我々が事を済ませる……そうでしょう、兄者?」
太郎はぐっと踏みとどまった。
確かに、縄張り意識の強い天狗同士において、他の山での揉め事に介入することは許されない。だが主のいない山ならば、その限りではない。それが不文律だった。
今、この場を仕切るのは、この場に存在する天狗たちの役目なのだ。
「幸い、この場には大天狗の頭領が二人もいる。大人しく従っておけ」
太郎はまだ言い募ろうとした。疲弊しきった顔を精一杯引き締めて、治朗たちに並ぼうとする。
そんな太郎を止めたのは、治朗だった。
「兄者、いいから逃げて下さい」
「治朗まで何を……」
「あなたがやるべきは、この鬼の意趣返しに付き合ってやることではない。藍を守ることでしょう」
治朗は、太郎の両肩をがっしりと掴み、しっかりとその瞳を捉えた。
「あなたが守らずして、誰が守るのですか。あいつを……!」
治朗の視線が、太郎からほんの少し逸れた。太郎の背後にいる、藍に向けられているのだと、太郎にはわかった。
「……わかった」
それだけ、短く告げると、太郎は踵を返した。
「行こう。どこかにこの結界を破れるような綻びがあるはずだ」
太郎は藍たちを促し、振り返らないようにその場から走り去った。一度だけ、慧が振り返り、治朗たちにぺこりと頭を下げた。
その姿を見送ると、治朗たちは鬼と真正面から対峙した。
鬼は、太郎が去って行ったことで激高しているようだ。だが目の前の治朗たちに気圧されて、前に進めずにいる……といったところだった。
吠えるばかりで寄ってこない鬼を、僧正坊がせせら笑った。
「ふん、思った以上に小物のようだな」
その言葉に、鬼は憤慨したようだった。再び腕を振り上げ、襲いかかろうと大きく体を揺らしている。
「まぁ、俺たちの敵じゃあねえな。意外だったのは、治朗があんなに真剣にお嬢を逃がそうとしたことだな。情でも移ったか?」
三郎のからかうような口調に、いつもなら怒る治朗が、今日はいやに神妙だった。考え込んでまだ迷っているような声で、治朗はぽつりと呟いた。
「そうかもしれん」
「え……ほんとに?」
「藍は……強がっていても、本当はか弱くか細い。人間とは皆そうで、簡単に壊れてしまう儚い存在だ。俺のような者が、守らねばならない」
三郎と僧正坊、長年山を預かってきた大天狗の頭領二人が、この若い天狗を驚きの眼で見つめていた。片方は喜びの色を、片方は好奇の色を、それぞれ宿していた。
「なるほど。朱に交われば何とやらってやつか」
「あの猪娘……ただの脳筋かと思っていたが、どうしてなかなか……次代を担うと言われている大天狗の跡取り二人の考えを改めさせてしまうとはな……」
僧正坊は、愉快そうだった。それは三郎も同様だった。
「よぅし……ほんじゃ、行きますか」
「天狗経に謳われるこの国最強の八天狗のうち三狗が相手をしてやるんだ。光栄に思え」
「山を荒らし、命を散らした報い……その身で受けてもらうぞ……!」
そして、三人の天狗が、一斉に黒い翼を広げ、舞い上がったーー!
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