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五章 天狗様、奔る
十二
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藍と慧は、ひたすらに山を下った。
生い茂る木々や草が、まるで行く手を阻むようだった。ちらりと見ると、慧の顔や手は細かな傷がたくさん出来ていた。正面切って走り続けたせいだ。
だがここで自分は下りると言ってしまえば、かえって足が遅くなって迷惑がかかる。
祈るしかない自分が、もどかしくてたまらなかった。
「うっ……!?」
突然、慧の足が止まった。辺りをキョロキョロと見回したまま、動こうとしない。
「くそ……閉じ込められた」
「えーと……結界の中に?」
慧が頷き、そろりと藍を下ろした。走り続けたからか、息が荒い。苦々しげに唇を噛みながら、慧は地面に座り込んだ。
「元々は俺が結界を張って閉じ込めてたったのに……同じことをやり返されるとはな」
藍は、慧が立ち止まったあたりを見ていた。遙か先までうっそうとした木々の風景が続いているというのに、どうしてかそこから一歩も進めない。進もうとすると、いつの間にか元の場所に戻っている。
阻まれている、と感じた。
「結界を破る方法……教えてくれたよね? 同じことは出来ないの?」
「あれは……俺にはできない」
「なんで?」
慧は、ぐっと唇を引き絞っていた。
「俺には……向こう側で待っている人なんて、いない」
「そんなこと、ないでしょう?」
「いないったら、いないんだ」
そう言う様子は、まるで子供がふてくされたようだった。先ほどまでの顔つきと大きく違う。
「でも、さっき確か、太郎さんの弟子だったって言ってなかった? なら、太郎さんはあなたのこと……」
「あの人が、俺のことなんて待ってるわけないだろうが!」
空気を震わせるような叫びだった。あの鬼に見つかるかもしれないとか、そんなことよりも、慧がそんな言葉を吐いたことの方を、藍は案じた。驚かせたことを負い目と思ったのか、慧はすぐに俯いてしまったが。
「……俺は、あの人に背いたんだ。だから失望されたし、俺のことを怒ってる」
「太郎さんが?」
藍が太郎に出会ったのは、わずかひと月ほど前。だがその分、同じ屋根の下で暮らし、時間を共有してきた。
藍は、自分が見てきた太郎の顔を思い浮かべてみた。
いつもニコニコしていて、怒るところは見たことがない。怒るよりも呆れたり、驚いたりしていることの方が多い。たまに厳しい面持ちになるときはあるが、決して憤慨することはなく、淡々と言葉を綴る。
……藍が他の男性を褒めたときは泣いて怒るが、それはまた別の話だろう。
太郎は、藍が最初に抱いた印象とは大きく違って、理知的で冷静で、感情の起伏に乏しい。少し心配になるほどに。
少なくとも、誰かの行いを咎めることはあっても、何年も何十年も根に持って、相手を拒絶するようには、思えなかったのだ。
「俺はあの人どころか、天狗の掟を破ったんだ。だから、破門にされた」
「うーん、破門か……でもそれって、太郎さんの一存じゃないでしょう?」
「そりゃあ、お山の下した沙汰ではあるけど……」
「だったら、太郎さん本人が思ってることは違うかもしれないじゃない」
慧の瞳に、ほんの僅かに光が戻った。だがすぐに、頭を振って期待を振り払ってしまった。
「そんなわけない。だって、あの人が一番強く押してたんだ。俺を破門にするべきだって」
「で、でも……!」
食い下がろうとした藍の言葉を遮るように、再び言葉にならない怒号が響き渡った。同時に、雷のような大きな音が近づいてきた。生い茂る木々を根元からなぎ倒しながら進んでいるかのような、暴力的な音だ。
「くそっ……! おい、俺が囮になるから、お前は逃げろ。お前なら何とかして結界を破れるかもしれない」
「私が破れるんだったら、そこから一緒に逃げれば良いじゃない」
「そんな余裕があるかよ。それにお前だけなら、あの人が見つけてくれるかもしれないだろ」
また、自虐的にそう言う。藍は聞き捨てならないというように、慧の胸ぐらを掴んで揺さぶった。
「太郎さん本人に聞いたわけじゃないでしょ! 勝手にいじけてるんじゃない!」
「お前に何がわかる! 俺は一回捨てられたんだぞ!」
”捨てられた”……その言葉が、藍の記憶にある太郎の過去と自然と照らし合わせた。
「太郎さんが人を……それも自分を慕っていた人を”捨てる”わけないでしょ! あの人は自分が助けてもらったことを、すごくすごく感謝してる人なの! そんな人が、簡単に他人を見捨てるわけない!」
「でも……!」
「だから聞かなきゃわからないって言ってるの! 私の眷属なら、言うこと聞きなさい! 絶対に一緒に帰って、太郎さんと話をするの!」
耳元で大きな鐘が鳴ったかのように、頭の奥からじんじんと鈍い痛みが生まれた。だが、慧の方はもっと強くそう感じているらしい。目を見開いたまま、動かない。いきなり頭を殴られたかのような顔だった。
だがその顔が、急に驚きの色に染まった。
「危ない……!」
藍の背後に、大きな影が差した。同時に、影と同じくらい暗くてどす黒い姿が見えた。その腕が、大きく振り下ろされようとしていた。
(しまった、逃げられない……!)
藍は咄嗟に目を瞑り、慧もまた息をのんでいた。
その時だった。声が聞こえたのはーー
「藍!」
生い茂る木々や草が、まるで行く手を阻むようだった。ちらりと見ると、慧の顔や手は細かな傷がたくさん出来ていた。正面切って走り続けたせいだ。
だがここで自分は下りると言ってしまえば、かえって足が遅くなって迷惑がかかる。
祈るしかない自分が、もどかしくてたまらなかった。
「うっ……!?」
突然、慧の足が止まった。辺りをキョロキョロと見回したまま、動こうとしない。
「くそ……閉じ込められた」
「えーと……結界の中に?」
慧が頷き、そろりと藍を下ろした。走り続けたからか、息が荒い。苦々しげに唇を噛みながら、慧は地面に座り込んだ。
「元々は俺が結界を張って閉じ込めてたったのに……同じことをやり返されるとはな」
藍は、慧が立ち止まったあたりを見ていた。遙か先までうっそうとした木々の風景が続いているというのに、どうしてかそこから一歩も進めない。進もうとすると、いつの間にか元の場所に戻っている。
阻まれている、と感じた。
「結界を破る方法……教えてくれたよね? 同じことは出来ないの?」
「あれは……俺にはできない」
「なんで?」
慧は、ぐっと唇を引き絞っていた。
「俺には……向こう側で待っている人なんて、いない」
「そんなこと、ないでしょう?」
「いないったら、いないんだ」
そう言う様子は、まるで子供がふてくされたようだった。先ほどまでの顔つきと大きく違う。
「でも、さっき確か、太郎さんの弟子だったって言ってなかった? なら、太郎さんはあなたのこと……」
「あの人が、俺のことなんて待ってるわけないだろうが!」
空気を震わせるような叫びだった。あの鬼に見つかるかもしれないとか、そんなことよりも、慧がそんな言葉を吐いたことの方を、藍は案じた。驚かせたことを負い目と思ったのか、慧はすぐに俯いてしまったが。
「……俺は、あの人に背いたんだ。だから失望されたし、俺のことを怒ってる」
「太郎さんが?」
藍が太郎に出会ったのは、わずかひと月ほど前。だがその分、同じ屋根の下で暮らし、時間を共有してきた。
藍は、自分が見てきた太郎の顔を思い浮かべてみた。
いつもニコニコしていて、怒るところは見たことがない。怒るよりも呆れたり、驚いたりしていることの方が多い。たまに厳しい面持ちになるときはあるが、決して憤慨することはなく、淡々と言葉を綴る。
……藍が他の男性を褒めたときは泣いて怒るが、それはまた別の話だろう。
太郎は、藍が最初に抱いた印象とは大きく違って、理知的で冷静で、感情の起伏に乏しい。少し心配になるほどに。
少なくとも、誰かの行いを咎めることはあっても、何年も何十年も根に持って、相手を拒絶するようには、思えなかったのだ。
「俺はあの人どころか、天狗の掟を破ったんだ。だから、破門にされた」
「うーん、破門か……でもそれって、太郎さんの一存じゃないでしょう?」
「そりゃあ、お山の下した沙汰ではあるけど……」
「だったら、太郎さん本人が思ってることは違うかもしれないじゃない」
慧の瞳に、ほんの僅かに光が戻った。だがすぐに、頭を振って期待を振り払ってしまった。
「そんなわけない。だって、あの人が一番強く押してたんだ。俺を破門にするべきだって」
「で、でも……!」
食い下がろうとした藍の言葉を遮るように、再び言葉にならない怒号が響き渡った。同時に、雷のような大きな音が近づいてきた。生い茂る木々を根元からなぎ倒しながら進んでいるかのような、暴力的な音だ。
「くそっ……! おい、俺が囮になるから、お前は逃げろ。お前なら何とかして結界を破れるかもしれない」
「私が破れるんだったら、そこから一緒に逃げれば良いじゃない」
「そんな余裕があるかよ。それにお前だけなら、あの人が見つけてくれるかもしれないだろ」
また、自虐的にそう言う。藍は聞き捨てならないというように、慧の胸ぐらを掴んで揺さぶった。
「太郎さん本人に聞いたわけじゃないでしょ! 勝手にいじけてるんじゃない!」
「お前に何がわかる! 俺は一回捨てられたんだぞ!」
”捨てられた”……その言葉が、藍の記憶にある太郎の過去と自然と照らし合わせた。
「太郎さんが人を……それも自分を慕っていた人を”捨てる”わけないでしょ! あの人は自分が助けてもらったことを、すごくすごく感謝してる人なの! そんな人が、簡単に他人を見捨てるわけない!」
「でも……!」
「だから聞かなきゃわからないって言ってるの! 私の眷属なら、言うこと聞きなさい! 絶対に一緒に帰って、太郎さんと話をするの!」
耳元で大きな鐘が鳴ったかのように、頭の奥からじんじんと鈍い痛みが生まれた。だが、慧の方はもっと強くそう感じているらしい。目を見開いたまま、動かない。いきなり頭を殴られたかのような顔だった。
だがその顔が、急に驚きの色に染まった。
「危ない……!」
藍の背後に、大きな影が差した。同時に、影と同じくらい暗くてどす黒い姿が見えた。その腕が、大きく振り下ろされようとしていた。
(しまった、逃げられない……!)
藍は咄嗟に目を瞑り、慧もまた息をのんでいた。
その時だった。声が聞こえたのはーー
「藍!」
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