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四章 鞍馬山の大天狗
十六
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「おい娘!」
「はい!」
「私の言ったことを、少しは理解したか?」
藍は、ゆっくりと頷いた。
先ほど経験した真っ暗な孤独の闇ーーあれが、太郎がいた世界なのだ。
藍自身や遮那王が自らの力を御しきれずにそうなったのとは違う、ただただ翻弄されて閉じ込められた闇の中。
そして、そこから救い出された。あの一条の光が、闇の中に取り残された者にとってどれほどの希望となるか、今なら少しわかる。
太郎が、千年もの間ずっと追い求めていた理由も、少しは。
藍は、自分は姫とは別人なのだからさっさと諦めるだろうと勝手に思っていた。だけど今は、そんな風にはもう思えない。
僧正坊は、しばし藍を睨みつけていたが、やがてふんと鼻を鳴らして、立ち上がった。
「どこ行くの?」
「帰るに決まっているだろう。もう用はない」
「食事は?」
「贈った物を持ってきた客自身が食い尽くすわけにいくまい」
そう言うと、玄関に向かった。帰るときは庭からではないらしい、などと暢気なことを考えていたら、太郎が再びその足を縫い止めようと言葉をかけた。
「ねぇ、よくわからないけど、結局僧正坊としては、藍はどうなの? 愛宕のお嫁さんにふさわしいと思う?」
「……さっき言っていたことと違う気がするが?」
「それはそれ、これはこれ」
僧正坊が、先ほど以上に深いため息を吐きだした。それはもう、うんざりしたと全身で表現したかのようなため息だった。
「こんな力任せで無粋な娘、認めるわけがないだろうが。この猪娘が! 猪の匂いまでさせて、貴様本当に年頃の娘か!」
「し、失礼な! 猪の匂いって何のことですか!」
「気付いていないところが尚、悪い。ああ馬鹿馬鹿しい。天狗の嫁にこんな女が来るかもしれないと思うと寒気がする」
「ち、ちょっと待った! だから、私は許嫁じゃないって……」
「私は認めん! だが……愛宕のことは知らん。そっちで勝手にすればいい。あと猪娘、もう一つ言っておく」
「な、何ですか」
「貴様のことはどうでもいいが、母御の店の料理は絶品だ。また寄らせて貰う。これからはご迷惑にならぬよう事前に連絡をするから、その時は貴様も親孝行するように」
そう言い放つと、僧正坊は今度こそどすどすと大きく床を踏みならして、行ってしまった。太郎は、苦笑いを浮かべてそれを見送った。
藍は、まだ許嫁扱いされたことに納得していない。
「だから、許嫁じゃないって言ったのに……!」
「いいじゃない、この際認めちゃえば」
「や、やめてください!」
「……そう」
太郎は目に見えてしゅんと項垂れた。
先ほど姫を想う気持ちが少しわかると思ったところなので、さすがに罪悪感に見舞われる。
「あ、そ、そうだ! お礼言わなきゃ。ありがとうございます」
「……なんで?」
いきなりお礼を言われても、太郎にはわかるはずがない。半泣きのまま首をかしげる太郎に、どう言ったものかと藍は頭をひねった。
「はい!」
「私の言ったことを、少しは理解したか?」
藍は、ゆっくりと頷いた。
先ほど経験した真っ暗な孤独の闇ーーあれが、太郎がいた世界なのだ。
藍自身や遮那王が自らの力を御しきれずにそうなったのとは違う、ただただ翻弄されて閉じ込められた闇の中。
そして、そこから救い出された。あの一条の光が、闇の中に取り残された者にとってどれほどの希望となるか、今なら少しわかる。
太郎が、千年もの間ずっと追い求めていた理由も、少しは。
藍は、自分は姫とは別人なのだからさっさと諦めるだろうと勝手に思っていた。だけど今は、そんな風にはもう思えない。
僧正坊は、しばし藍を睨みつけていたが、やがてふんと鼻を鳴らして、立ち上がった。
「どこ行くの?」
「帰るに決まっているだろう。もう用はない」
「食事は?」
「贈った物を持ってきた客自身が食い尽くすわけにいくまい」
そう言うと、玄関に向かった。帰るときは庭からではないらしい、などと暢気なことを考えていたら、太郎が再びその足を縫い止めようと言葉をかけた。
「ねぇ、よくわからないけど、結局僧正坊としては、藍はどうなの? 愛宕のお嫁さんにふさわしいと思う?」
「……さっき言っていたことと違う気がするが?」
「それはそれ、これはこれ」
僧正坊が、先ほど以上に深いため息を吐きだした。それはもう、うんざりしたと全身で表現したかのようなため息だった。
「こんな力任せで無粋な娘、認めるわけがないだろうが。この猪娘が! 猪の匂いまでさせて、貴様本当に年頃の娘か!」
「し、失礼な! 猪の匂いって何のことですか!」
「気付いていないところが尚、悪い。ああ馬鹿馬鹿しい。天狗の嫁にこんな女が来るかもしれないと思うと寒気がする」
「ち、ちょっと待った! だから、私は許嫁じゃないって……」
「私は認めん! だが……愛宕のことは知らん。そっちで勝手にすればいい。あと猪娘、もう一つ言っておく」
「な、何ですか」
「貴様のことはどうでもいいが、母御の店の料理は絶品だ。また寄らせて貰う。これからはご迷惑にならぬよう事前に連絡をするから、その時は貴様も親孝行するように」
そう言い放つと、僧正坊は今度こそどすどすと大きく床を踏みならして、行ってしまった。太郎は、苦笑いを浮かべてそれを見送った。
藍は、まだ許嫁扱いされたことに納得していない。
「だから、許嫁じゃないって言ったのに……!」
「いいじゃない、この際認めちゃえば」
「や、やめてください!」
「……そう」
太郎は目に見えてしゅんと項垂れた。
先ほど姫を想う気持ちが少しわかると思ったところなので、さすがに罪悪感に見舞われる。
「あ、そ、そうだ! お礼言わなきゃ。ありがとうございます」
「……なんで?」
いきなりお礼を言われても、太郎にはわかるはずがない。半泣きのまま首をかしげる太郎に、どう言ったものかと藍は頭をひねった。
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