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四章 鞍馬山の大天狗
十三
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「どう? ただの小娘と侮っていた相手に、自分が張った結界を破られる気分は?」
太郎は珍しくニヤニヤと笑って、僧正坊を見下ろしていた。
僧正坊は驚きと苦悶の表情を浮かべていた。すぐに息を整えてはいるが、やはり想定外のことだったようだ。状況を整理しようとしているのか、口を閉ざしている。
「結界を無理矢理破られるのは相当な苦痛だ。自分以外の者を封じるために使う場合、相応の覚悟がいる。なにせものすごく痛いからね。だけど破ると思っていない相手には覚悟なんてしてなかったんだろう、僧正坊?」
僧正坊は憎々しげな視線を太郎に向けた。もとよりそんなものに怯む太郎ではないのだが。
やがて、諦めたように、もしくは呆れたように、僧正坊はため息を吐きだした。
「想定外だったことは認めよう。だが、結界が破られたというのは否定する。彼女はまだ、私の結界の内にいる」
そう。本当に結界を破ったのなら、藍はこの場に姿を現すはずだ。それがないということは、藍はまだ見えない壁の内側にいるということだ。
それはすなわち、未だ僧正坊の手の内にあるということ。
僧正坊が苛立ちから結界を消してしまうことを微かに期待していた太郎は、苦笑いを何とか堪えていた。
「確かに、私の結界に”ヒビ”を入れたようだが……そこまでのようだな。今頃、万策尽きて途方に暮れているかもしれない、人恋しさに泣いているかもしれない……あるいは、孤独に苛まれて心が死んでしまうかもしれない……」
居間は、静かなままだった。ただ僧正坊が意地の悪い笑い声を響かせているだけだった。それ以外の声は、聞こえない。太郎が憤りのあまり我を忘れるような声など、一つも。
僧正坊は、そのことに気づいた。さぞや憤慨した面持ちだろうと思われたが、太郎の顔は、穏やかだった。
「太郎……君は、あの娘を案じていないのかい?」
「心配はしているけど、でも……きっと杞憂だろうと思う」
「それはまた、どうして?」
「藍はきっと、途方に暮れたりしない。人恋しさに泣くことも、まして心を殺してしまうようなこともない。彼女は、僕とは違うから」
そう言った太郎の顔は、穏やかであり、同時にどこか愁いを帯びていた。
「……今日君に会ってから、ずっと尋ねたかった。君は、かの姫に会いたいと願っていたのだろう?」
「もちろん」
「だというのに、何故君はこんなところでダラダラと時間を無駄にする?」
「今の藍は僕のことなど知らない。今度こそ一緒になるためには、また一から僕のことを知ってもらわないとね。なにせ彼女は、別人なのだから」
「それが無駄だと言うんだ。かの姫とはまったくの別物ならこだわる必要などあるまい。また輪廻転生を待てばいい。それでも、どうしても今あの娘が欲しいと言うなら、攫ってしまえば済むことだ。愛宕の跡目を任されようという君が、人間の小娘に遠慮している様は実に腹立たしい」
太郎は今度は、呆れた視線を投げた。ため息まじりに首を振り、理解の遅い子に対するように言葉を選びながら、太郎は言った。
「僧正坊、僕も治朗もそうだけど、君だって元は人間じゃないか」
「……千年以上も前の話だがな」
「だったら、わかるだろう。人の心は、自分の思うとおりに動くものじゃないってことが」
その言葉に何を思ったのか、わからなかった。僧正坊はただ黙って、じっと太郎を見つめ返していただけだった。そこには、相手の意を推し量るような、見定めるような、試すような、鋭い光が含まれていた。
結局、それらは最後にため息となってはき出された。
「心云々については、まぁ理解しよう。だが、貴様の言わんとすることはまったくわからん」
「どうして」
「要は、あの娘に骨抜きにされているということだろうが。そんな奴の心情なぞ、わかるわけがない」
僧正坊はぶっきらぼうにそっぽを向いてしまった。のろけ話は、もうたくさんと言うようだ。
「だが、暢気なことを言っていていいのか? 今すぐ、貴様がこの結界を破ればいい話だろう。あまり長く結界の内にいると、こちら側で忘れ去られてしまうこともあり得るぞ」
「そんな必要ないよ。もうすぐ出てくる」
「先ほど失敗していたようだが?」
「だから、もうすぐ」
僧正坊は苦い表情を見せて、黙り込んだ。あまりにきっぱりと言い切られると、面白くないのだ。
そんな僧正坊に、太郎の方から問うた。
「僕もさっきから聞きたいことがあったんだけど」
「……何だ?」
「猫被るのはやめたの? 喋り方が普段通りに戻ってるけど」
僧正坊自身、どうやら素が出てしまっていたことにようやく気付いたらしい。
僧正坊は、ふん、と鼻を鳴らすだけで、またそっぽを向いてしまった。
太郎は珍しくニヤニヤと笑って、僧正坊を見下ろしていた。
僧正坊は驚きと苦悶の表情を浮かべていた。すぐに息を整えてはいるが、やはり想定外のことだったようだ。状況を整理しようとしているのか、口を閉ざしている。
「結界を無理矢理破られるのは相当な苦痛だ。自分以外の者を封じるために使う場合、相応の覚悟がいる。なにせものすごく痛いからね。だけど破ると思っていない相手には覚悟なんてしてなかったんだろう、僧正坊?」
僧正坊は憎々しげな視線を太郎に向けた。もとよりそんなものに怯む太郎ではないのだが。
やがて、諦めたように、もしくは呆れたように、僧正坊はため息を吐きだした。
「想定外だったことは認めよう。だが、結界が破られたというのは否定する。彼女はまだ、私の結界の内にいる」
そう。本当に結界を破ったのなら、藍はこの場に姿を現すはずだ。それがないということは、藍はまだ見えない壁の内側にいるということだ。
それはすなわち、未だ僧正坊の手の内にあるということ。
僧正坊が苛立ちから結界を消してしまうことを微かに期待していた太郎は、苦笑いを何とか堪えていた。
「確かに、私の結界に”ヒビ”を入れたようだが……そこまでのようだな。今頃、万策尽きて途方に暮れているかもしれない、人恋しさに泣いているかもしれない……あるいは、孤独に苛まれて心が死んでしまうかもしれない……」
居間は、静かなままだった。ただ僧正坊が意地の悪い笑い声を響かせているだけだった。それ以外の声は、聞こえない。太郎が憤りのあまり我を忘れるような声など、一つも。
僧正坊は、そのことに気づいた。さぞや憤慨した面持ちだろうと思われたが、太郎の顔は、穏やかだった。
「太郎……君は、あの娘を案じていないのかい?」
「心配はしているけど、でも……きっと杞憂だろうと思う」
「それはまた、どうして?」
「藍はきっと、途方に暮れたりしない。人恋しさに泣くことも、まして心を殺してしまうようなこともない。彼女は、僕とは違うから」
そう言った太郎の顔は、穏やかであり、同時にどこか愁いを帯びていた。
「……今日君に会ってから、ずっと尋ねたかった。君は、かの姫に会いたいと願っていたのだろう?」
「もちろん」
「だというのに、何故君はこんなところでダラダラと時間を無駄にする?」
「今の藍は僕のことなど知らない。今度こそ一緒になるためには、また一から僕のことを知ってもらわないとね。なにせ彼女は、別人なのだから」
「それが無駄だと言うんだ。かの姫とはまったくの別物ならこだわる必要などあるまい。また輪廻転生を待てばいい。それでも、どうしても今あの娘が欲しいと言うなら、攫ってしまえば済むことだ。愛宕の跡目を任されようという君が、人間の小娘に遠慮している様は実に腹立たしい」
太郎は今度は、呆れた視線を投げた。ため息まじりに首を振り、理解の遅い子に対するように言葉を選びながら、太郎は言った。
「僧正坊、僕も治朗もそうだけど、君だって元は人間じゃないか」
「……千年以上も前の話だがな」
「だったら、わかるだろう。人の心は、自分の思うとおりに動くものじゃないってことが」
その言葉に何を思ったのか、わからなかった。僧正坊はただ黙って、じっと太郎を見つめ返していただけだった。そこには、相手の意を推し量るような、見定めるような、試すような、鋭い光が含まれていた。
結局、それらは最後にため息となってはき出された。
「心云々については、まぁ理解しよう。だが、貴様の言わんとすることはまったくわからん」
「どうして」
「要は、あの娘に骨抜きにされているということだろうが。そんな奴の心情なぞ、わかるわけがない」
僧正坊はぶっきらぼうにそっぽを向いてしまった。のろけ話は、もうたくさんと言うようだ。
「だが、暢気なことを言っていていいのか? 今すぐ、貴様がこの結界を破ればいい話だろう。あまり長く結界の内にいると、こちら側で忘れ去られてしまうこともあり得るぞ」
「そんな必要ないよ。もうすぐ出てくる」
「先ほど失敗していたようだが?」
「だから、もうすぐ」
僧正坊は苦い表情を見せて、黙り込んだ。あまりにきっぱりと言い切られると、面白くないのだ。
そんな僧正坊に、太郎の方から問うた。
「僕もさっきから聞きたいことがあったんだけど」
「……何だ?」
「猫被るのはやめたの? 喋り方が普段通りに戻ってるけど」
僧正坊自身、どうやら素が出てしまっていたことにようやく気付いたらしい。
僧正坊は、ふん、と鼻を鳴らすだけで、またそっぽを向いてしまった。
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