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四章 鞍馬山の大天狗
一
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あたりは、真っ暗だった。
ここがどこなのか、今がいつなのか、どうやってここに来たのか……何もわからなかった。
藍は気がついたらここにいた。藍以外は、誰もいない。ひとりぼっちだった。
「誰かいませんか?」
声は反響すること泣く、どこかに吸い込まれるように消えていく。だが手を伸ばすと、何かに当たった。それ以上の進行を阻む壁のような物が、藍の前に確かにある。
コツコツと叩いてみると、音はしないが感触はある。
「レンガとか鉄ではないけど、堅くて厚い壁……もしかして結界?」
太郎や治朗に聞いた結界についての情報と結びついた。見えないし認識しづらいが、確かにそこに在って、内と外を阻むもの。今目の前にあるものが、まさしくそうだ。
正体に思い至ると少しほっとした。だが同時に、愕然とした。
「私、また閉じ込められた……? しかも今回はどうすれば……」
前回は三郎が壊してくれたから出られたが、藍には同じことはできない。
途方にくれる藍の耳に、微かな音が聞こえた。
「……ろ」
何の物音もしない中で初めて聞こえた音だ。音がもう一度聞こえないか、藍は耳を澄ませてみた。
「信じろ」
確かに聞こえた。それも、男性の声だ。自分の声の反響ではない。
「信じろ。向こう側にいると、信じろ」
その声は、太郎のものとも治朗のものとも違った。だが、今は二人よりも遥かに藍の近くにいると確信できた。
その声の主は、藍の前に立ちはだかる壁の向こうにいる。
「……この、向こうかな」
藍がそう思って、見えない壁にそっと触れると、壁はぽろぽろと崩れ落ちていった。何もない真っ暗だと思っていたそこにぽっかり穴が空くと、向こう側には真っ赤な茜空が広がっていた。
そして、そんな空に赤く染められて立つ、一人の青年がいた。
見たことのある顔だ。
「そうだ。この前、夢で見た人……」
藍の記憶と、目の前の人物が一致した。ひょろりと背の高い、黒い服装。黒にところどころ茶が混ざった髪。顔は俯いていて見えなかったが、その俯き加減があの時と同じだった。
「夢の中で見た人と対面してるって……正夢? それともまさか、これも夢?」
首をかしげてあれこれ口にしていると、男性からため息が聞こえた。
「……夢だ」
夢の中で夢だと言われるというのも奇妙な話だが、このおかしな状況の説明としては納得できる。
うんうん頷いていると、男性は静かに手を差し出した。握手を求めている……わけではなさそうだ。
「よこせ」
「な、何をですか?」
「いいから、よこせ」
男性の手が、暗闇の向こうから伸びてきた。振り払おうとした動きすら絡めとられて、腕を掴まれた。
ねじ切られるような力ではなかったが、その戒めから逃れることができないほどに、強く重い力だった。
その手の指から、普段感じない感触が走る。
血がどくどく流れ出しているような、体温が失われていくような、全身にみなぎっていた力が奪われていくような……。逆に目の前の男性は、俯いていた顔が上向きになっていく。こちらを見る顔は血色もよく、視線がはっきりとしていた。
こんな感覚には覚えがあった。
太郎に気を吸われた時だ。
「もしかしてあなたも……えぇと、ガス欠?」
ほんの一瞬視線を逸らした直後、再び男性の顔を見た時には、その姿は消えていた。腕には、痕こそ残ってはいないが、掴まれていた感触が残っている。
「おかしいな」
そう呟いた瞬間、視界が急に光った。正確には、明るく眩しい光景が広がった。
きょろきょろ見回すと、先程見えていた暗闇などどこにもなかった。窓から入る陽光で、部屋中が照らされている。
同時に、やはりあの男性の姿も、見えなかった。
「……そうか、夢って言ってたっけ」
ふと見ると、藍の手元には開いたままの教科書とノートがあった。昨夜、試験勉強をしながら寝てしまったのだ。
その横に置いてある皿に載っていたものは……きれいに平らげてある。
(そういえば、向こうのお皿はどうなったんだろう)
藍は、急にいそいそと制服に着がえて、皿を持って階下に降りていった。
ここがどこなのか、今がいつなのか、どうやってここに来たのか……何もわからなかった。
藍は気がついたらここにいた。藍以外は、誰もいない。ひとりぼっちだった。
「誰かいませんか?」
声は反響すること泣く、どこかに吸い込まれるように消えていく。だが手を伸ばすと、何かに当たった。それ以上の進行を阻む壁のような物が、藍の前に確かにある。
コツコツと叩いてみると、音はしないが感触はある。
「レンガとか鉄ではないけど、堅くて厚い壁……もしかして結界?」
太郎や治朗に聞いた結界についての情報と結びついた。見えないし認識しづらいが、確かにそこに在って、内と外を阻むもの。今目の前にあるものが、まさしくそうだ。
正体に思い至ると少しほっとした。だが同時に、愕然とした。
「私、また閉じ込められた……? しかも今回はどうすれば……」
前回は三郎が壊してくれたから出られたが、藍には同じことはできない。
途方にくれる藍の耳に、微かな音が聞こえた。
「……ろ」
何の物音もしない中で初めて聞こえた音だ。音がもう一度聞こえないか、藍は耳を澄ませてみた。
「信じろ」
確かに聞こえた。それも、男性の声だ。自分の声の反響ではない。
「信じろ。向こう側にいると、信じろ」
その声は、太郎のものとも治朗のものとも違った。だが、今は二人よりも遥かに藍の近くにいると確信できた。
その声の主は、藍の前に立ちはだかる壁の向こうにいる。
「……この、向こうかな」
藍がそう思って、見えない壁にそっと触れると、壁はぽろぽろと崩れ落ちていった。何もない真っ暗だと思っていたそこにぽっかり穴が空くと、向こう側には真っ赤な茜空が広がっていた。
そして、そんな空に赤く染められて立つ、一人の青年がいた。
見たことのある顔だ。
「そうだ。この前、夢で見た人……」
藍の記憶と、目の前の人物が一致した。ひょろりと背の高い、黒い服装。黒にところどころ茶が混ざった髪。顔は俯いていて見えなかったが、その俯き加減があの時と同じだった。
「夢の中で見た人と対面してるって……正夢? それともまさか、これも夢?」
首をかしげてあれこれ口にしていると、男性からため息が聞こえた。
「……夢だ」
夢の中で夢だと言われるというのも奇妙な話だが、このおかしな状況の説明としては納得できる。
うんうん頷いていると、男性は静かに手を差し出した。握手を求めている……わけではなさそうだ。
「よこせ」
「な、何をですか?」
「いいから、よこせ」
男性の手が、暗闇の向こうから伸びてきた。振り払おうとした動きすら絡めとられて、腕を掴まれた。
ねじ切られるような力ではなかったが、その戒めから逃れることができないほどに、強く重い力だった。
その手の指から、普段感じない感触が走る。
血がどくどく流れ出しているような、体温が失われていくような、全身にみなぎっていた力が奪われていくような……。逆に目の前の男性は、俯いていた顔が上向きになっていく。こちらを見る顔は血色もよく、視線がはっきりとしていた。
こんな感覚には覚えがあった。
太郎に気を吸われた時だ。
「もしかしてあなたも……えぇと、ガス欠?」
ほんの一瞬視線を逸らした直後、再び男性の顔を見た時には、その姿は消えていた。腕には、痕こそ残ってはいないが、掴まれていた感触が残っている。
「おかしいな」
そう呟いた瞬間、視界が急に光った。正確には、明るく眩しい光景が広がった。
きょろきょろ見回すと、先程見えていた暗闇などどこにもなかった。窓から入る陽光で、部屋中が照らされている。
同時に、やはりあの男性の姿も、見えなかった。
「……そうか、夢って言ってたっけ」
ふと見ると、藍の手元には開いたままの教科書とノートがあった。昨夜、試験勉強をしながら寝てしまったのだ。
その横に置いてある皿に載っていたものは……きれいに平らげてある。
(そういえば、向こうのお皿はどうなったんだろう)
藍は、急にいそいそと制服に着がえて、皿を持って階下に降りていった。
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