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参章 飯綱山の狐使い
十
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「おいしいです!」
「そっか、良かった」
一口かじると、琥珀は最初の笑顔を取り戻した。大泣きしていたのが嘘のようだった。
この光景が、周囲の人にどのように見えているのか気がかりではあったが、藍はひとまず、琥珀が泣き止んで嬉しそうにしていることにほっとした。
「琥珀ちゃんはクレープ食べるの初めて?」
「はい、はじめてです!」
「普段はどんなお菓子を食べてるの?」
「お菓子は食べません」
「そ、そうなの?」
そう聞いて、藍は思い出した。
人間の姿を見せているから忘れていたが、この子はあやかし……人間とは違う存在。ということは、食べるものも違うのかもしれない。
太郎だって、同じ食卓を囲ってはいるが、気が足りないといって倒れ込むことが多い。それぞれ必要なものが違うのだろう。
とはいえ、琥珀はとても美味しそうに食べている。食べられないわけではないし、”おやつ”は食べてもいいだろう。
「じゃあご主人様に、これ美味しかったって言ってみようか。また食べさせてくれるかもよ」
「はい!」
そう言ってあっという間にクレープを平らげてしまった琥珀の口元には、真っ白なクリームがくっついていた。
「ついてるよ」
藍は、ハンカチを取り出してそっと拭ってやった。その瞬間、パチンと弾けるような音がした。
静電気かと思ったが、藍以上に琥珀がぶるっと大きく体を震わせていた。
「おひげに当たりました……」
「おひげ?」
疑問符が浮かんだが、すぐに琥珀の背後でゆらゆら揺れている尻尾に目がいった。
(そうだ、この子、尻尾があるんだった)
つまり、何か動物のあやかしでもおかしくない。動物の性質があるなら、”おひげ”があってもなんらおかしくはない。
動物の髭は平衡感覚を保ったり、周囲のものを感知する役割があると聞いたことがある。きっと琥珀にとって敏感なものなのだろう。
「琥珀ちゃん、ごめんね。気をつけ……あれ?」
琥珀の姿が、消えていた。藍の目の前にいたというのに。
「琥珀ちゃん? どこ行ったの?」
立ち上がり、呼びかけてみたが、返事はない。それどころか、声一つ聞こえない。何か、良くないことでも起こったのかと、藍は背筋が凍った。
「琥珀ちゃん!?」
大きな声で呼びかけてもやはり返事はない。それどころか、周囲の注目が集まってしまった。さすがに大声を出すと気づかれるようだ。
(どうしよう、いなくなっちゃった……!)
またさっきと同じように泣いてしまうかもしれない。そう思い、藍は鞄を掴んで歩き出した。
人間とは違うとはいえ、あの体格……そう遠くへは行けないだろう。そう考え、小さな子が紛れ込みそうな場所や足下に視線を配った。周囲の人に見えない分、大人の人混みに紛れて戸惑っているかもしれない。
藍は、注目を浴びない程度の声で呼びかけた。
「琥珀ちゃーん、いる? いるなら返事して」
だがやはり返事はない。やはり大声で呼びかけた方がいいかと思った、その時ーー足下から声が聞こえた。
「琥珀を知っているですか?」
声の方を向くと、そこには琥珀が立っていた。不思議そうな顔で藍を見上げている。
「琥珀ちゃん! 良かった! ごめんね、よくわからないけど離れちゃって……」
琥珀は、小さく頭を振った。その面持ちは不安げでもなく、知り合いに再会できた喜びもなく、静かで凜としていた。
「な、なんかさっきと雰囲気が違うね……?」
「初めて会いました」
「……え?」
改めて、目の前の琥珀の姿を頭から足下まで見回した。銀色の髪、白い肌に白いワンピース、ふかふかの尻尾……どれをとっても、先ほどと同じ立ち姿だ。
だが一点、違う箇所があった。
「あれ? 目が……」
瞳の色が赤い。琥珀の瞳は金色だったはずだ。
戸惑いながら藍が呟くと、琥珀……に似た女の子は、頷いた。
「琥珀じゃありません。珊瑚です。『やまなみあい』さん」
琥珀……ではなく、珊瑚は、きっぱりとした口調で、そう告げた。
そしてやっぱり、藍の顔と名を、きっちり把握しているようだった。
「そっか、良かった」
一口かじると、琥珀は最初の笑顔を取り戻した。大泣きしていたのが嘘のようだった。
この光景が、周囲の人にどのように見えているのか気がかりではあったが、藍はひとまず、琥珀が泣き止んで嬉しそうにしていることにほっとした。
「琥珀ちゃんはクレープ食べるの初めて?」
「はい、はじめてです!」
「普段はどんなお菓子を食べてるの?」
「お菓子は食べません」
「そ、そうなの?」
そう聞いて、藍は思い出した。
人間の姿を見せているから忘れていたが、この子はあやかし……人間とは違う存在。ということは、食べるものも違うのかもしれない。
太郎だって、同じ食卓を囲ってはいるが、気が足りないといって倒れ込むことが多い。それぞれ必要なものが違うのだろう。
とはいえ、琥珀はとても美味しそうに食べている。食べられないわけではないし、”おやつ”は食べてもいいだろう。
「じゃあご主人様に、これ美味しかったって言ってみようか。また食べさせてくれるかもよ」
「はい!」
そう言ってあっという間にクレープを平らげてしまった琥珀の口元には、真っ白なクリームがくっついていた。
「ついてるよ」
藍は、ハンカチを取り出してそっと拭ってやった。その瞬間、パチンと弾けるような音がした。
静電気かと思ったが、藍以上に琥珀がぶるっと大きく体を震わせていた。
「おひげに当たりました……」
「おひげ?」
疑問符が浮かんだが、すぐに琥珀の背後でゆらゆら揺れている尻尾に目がいった。
(そうだ、この子、尻尾があるんだった)
つまり、何か動物のあやかしでもおかしくない。動物の性質があるなら、”おひげ”があってもなんらおかしくはない。
動物の髭は平衡感覚を保ったり、周囲のものを感知する役割があると聞いたことがある。きっと琥珀にとって敏感なものなのだろう。
「琥珀ちゃん、ごめんね。気をつけ……あれ?」
琥珀の姿が、消えていた。藍の目の前にいたというのに。
「琥珀ちゃん? どこ行ったの?」
立ち上がり、呼びかけてみたが、返事はない。それどころか、声一つ聞こえない。何か、良くないことでも起こったのかと、藍は背筋が凍った。
「琥珀ちゃん!?」
大きな声で呼びかけてもやはり返事はない。それどころか、周囲の注目が集まってしまった。さすがに大声を出すと気づかれるようだ。
(どうしよう、いなくなっちゃった……!)
またさっきと同じように泣いてしまうかもしれない。そう思い、藍は鞄を掴んで歩き出した。
人間とは違うとはいえ、あの体格……そう遠くへは行けないだろう。そう考え、小さな子が紛れ込みそうな場所や足下に視線を配った。周囲の人に見えない分、大人の人混みに紛れて戸惑っているかもしれない。
藍は、注目を浴びない程度の声で呼びかけた。
「琥珀ちゃーん、いる? いるなら返事して」
だがやはり返事はない。やはり大声で呼びかけた方がいいかと思った、その時ーー足下から声が聞こえた。
「琥珀を知っているですか?」
声の方を向くと、そこには琥珀が立っていた。不思議そうな顔で藍を見上げている。
「琥珀ちゃん! 良かった! ごめんね、よくわからないけど離れちゃって……」
琥珀は、小さく頭を振った。その面持ちは不安げでもなく、知り合いに再会できた喜びもなく、静かで凜としていた。
「な、なんかさっきと雰囲気が違うね……?」
「初めて会いました」
「……え?」
改めて、目の前の琥珀の姿を頭から足下まで見回した。銀色の髪、白い肌に白いワンピース、ふかふかの尻尾……どれをとっても、先ほどと同じ立ち姿だ。
だが一点、違う箇所があった。
「あれ? 目が……」
瞳の色が赤い。琥珀の瞳は金色だったはずだ。
戸惑いながら藍が呟くと、琥珀……に似た女の子は、頷いた。
「琥珀じゃありません。珊瑚です。『やまなみあい』さん」
琥珀……ではなく、珊瑚は、きっぱりとした口調で、そう告げた。
そしてやっぱり、藍の顔と名を、きっちり把握しているようだった。
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