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弐章 比良山の若天狗
十六
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もうだめだ、と藍は思った。突然すぎて逃げることもできなかった。人は恐怖に駆られると筋肉が弛緩すると聞いてはいたが、自分の身にこうも顕著に起こるとは思ってもみなかった。
今まで奇妙なものに追いかけられたが逃げおおせたりと、なんやかんや危機から脱することができていたから、自分はピンチに強いんだと思っていた。
だが必ずしもそうじゃなかったと、わかった。
「大丈夫?」
藍の緊張をふんわりほぐすような、そんなのんびりした声が聞こえた。大丈夫なわけがない。それなのに、どうしてそんなことを訊くんだろうと思った。
そう思って、ようやく、自分の体がどこも痛くないのだと気づいた。
「怪我は……ないみたいだね。良かった」
そう言っていたのは、太郎だ。目を開けると、藍のすぐ目の前にいた。
青白い顔で猫背気味ながら、藍をしっかりと抱きかかえている。
「太郎さん? 何で?」
「なんでって……君の危機には駆けつけなきゃ許嫁とは呼べないでしょ」
「いや、そもそも許嫁じゃないですから」
藍をゆっくりと下ろしながら、いつものやりとりをしていると、文字通り治朗が飛んできた。
「兄者! 申し訳ございません、お手を煩わせてしまい……!」
「いや、いいよ。こうして見せ場ができたわけだし」
見せ場と自分で言っては見せ場じゃなくなるのでは、と藍は思ったが、口には出さないでおいた。
「でも本当にどうして? 太郎さん、家にいたんじゃないんですか?」
「だから言ったじゃない。その鈴を持っててねって」
「これ?」
確かに、今回も藍の危機に際して音を鳴らした。そうすると、太郎が現れた。
「藍の危機を知らせてくれるように術を施したんだよね。あと、それを持ってれば居場所がわかるから、飛んでくる目印になる」
この場合の”飛んでくる”は、神通力・神足通での瞬間移動を指す。そういえば以前に披露してくれた際にも、この鈴を持っておくように言われた。
「つまり、これはGPS?」
「ああ、人里にそんな機械があったね。それにアラーム機能がついてる感じかな。便利でしょ」
太郎は、Vサインを作ってそう言った。褒めてほしいんだろうか。藍は素直にお礼を言えないまま視線をそらせてしまった。
治朗はその様子に憤慨しそうになっていたが、太郎ののんびりした声が、それをとどめたのだった。
「それで? ここでいったい何が起こったのかな?」
太郎は、境内をぐるりと見回して言った。古びた社殿と狛犬像、天井のように生い茂る木々の中で一本だけ押し倒された木が境内に横たわっている。幸い参道を塞ぐようなことにはなっていないが、異様な光景であることは間違いない。近所の住民が見たら腰を抜かすだろう。
「実は……この神社にたむろしていた子供が奇妙な声を聞いたらしいのです。談笑していると、自分たちの笑い声がそのまま反芻されたと」
「へぇ、笑い声がそのまま、ねぇ」
太郎は、治朗と同様その事柄を一笑に付すようなことはしなかった。じっと天を見上げて、何事か考えている。
「先ほど俺が大声をあげてみたのですが、その時は何も起こらず、彼らの気のせいと言うことも考えたのですが……」
「いきなり木が倒れてきた、と」
治朗と藍が同時に頷いた。
「おかしなことが、二つ同時に起こってるね。”天狗笑い”に”天狗倒し”が」
「な、何ですか、それ?」
頷く治朗に対して、藍が疑問を呈した。どちらも藍が聞いたことのない言葉だった。
「”天狗笑い”は、山を行く道中、どこからか笑い声が聞こえるという、まぁ天狗による悪戯とされる現象だ。”天狗倒し”もどこからか大木が倒れる音が聞こえるというものだ。ただ、本来こちらも音だけの悪戯で、実際に倒れるというものではない。悪戯や冗談では済まされない事態だ」
「でも、どっちも”天狗”って言葉が入ってますけど……もしかして、全然別の天狗の人がそんな悪戯をしてるとか……」
藍は言葉を精一杯選んだ。だが、どうしても目の前の彼らをも悪く言う言葉になってしまう。太郎は、わかっている、と言いたげに頷いた。
「その可能性は否めない。でも、おそらく違うよ。天狗は基本的に、人里に降りてまで悪さをしようとはしないから」
「そうなんですか?」
「山の中だろうとしない。俺たち護法天狗はな。人に悪さをして脅かすのは、教えに背いたはぐれ者どもだ。それとて、限度というものはあるがな」
そう言った治朗の声には、怒りが滲んでいた。治朗は短気だが、正義感は人一倍強いらしいことはわかる。命にかかわるような事態を引き起こした者に、怒りを覚えているに違いなかった。
「まぁ、こういう時は焦らず、一つずつ対処しようか」
そう言うと、太郎は境内の中心に向けてとことこ歩いて行った。
「治朗、大声出してみたって言ってたけど、なんて言った?」
「はい。『誰かいないか』と」
「それで声が返ってこないってことは、その”何か”に向けた呼びかけは返さないんじゃない?」
「どういうことですか?」
藍も治朗も、太郎の意図がわからなかった。だが太郎はかまわず、もう一度境内をぐるりと見回していた。
「つまり、独り言とか、その”何か”を意識していない言葉を言えばいいんじゃないかな」
そう言うと、太郎はすぅっと大きく息を吸い込み、空へ向けて大きく叫んだ。
「藍、好きだーーーーっ!!」
「へ!?」
その大きな愛の告白は、境内どころか、ご近所中に響き渡っていた。
今まで奇妙なものに追いかけられたが逃げおおせたりと、なんやかんや危機から脱することができていたから、自分はピンチに強いんだと思っていた。
だが必ずしもそうじゃなかったと、わかった。
「大丈夫?」
藍の緊張をふんわりほぐすような、そんなのんびりした声が聞こえた。大丈夫なわけがない。それなのに、どうしてそんなことを訊くんだろうと思った。
そう思って、ようやく、自分の体がどこも痛くないのだと気づいた。
「怪我は……ないみたいだね。良かった」
そう言っていたのは、太郎だ。目を開けると、藍のすぐ目の前にいた。
青白い顔で猫背気味ながら、藍をしっかりと抱きかかえている。
「太郎さん? 何で?」
「なんでって……君の危機には駆けつけなきゃ許嫁とは呼べないでしょ」
「いや、そもそも許嫁じゃないですから」
藍をゆっくりと下ろしながら、いつものやりとりをしていると、文字通り治朗が飛んできた。
「兄者! 申し訳ございません、お手を煩わせてしまい……!」
「いや、いいよ。こうして見せ場ができたわけだし」
見せ場と自分で言っては見せ場じゃなくなるのでは、と藍は思ったが、口には出さないでおいた。
「でも本当にどうして? 太郎さん、家にいたんじゃないんですか?」
「だから言ったじゃない。その鈴を持っててねって」
「これ?」
確かに、今回も藍の危機に際して音を鳴らした。そうすると、太郎が現れた。
「藍の危機を知らせてくれるように術を施したんだよね。あと、それを持ってれば居場所がわかるから、飛んでくる目印になる」
この場合の”飛んでくる”は、神通力・神足通での瞬間移動を指す。そういえば以前に披露してくれた際にも、この鈴を持っておくように言われた。
「つまり、これはGPS?」
「ああ、人里にそんな機械があったね。それにアラーム機能がついてる感じかな。便利でしょ」
太郎は、Vサインを作ってそう言った。褒めてほしいんだろうか。藍は素直にお礼を言えないまま視線をそらせてしまった。
治朗はその様子に憤慨しそうになっていたが、太郎ののんびりした声が、それをとどめたのだった。
「それで? ここでいったい何が起こったのかな?」
太郎は、境内をぐるりと見回して言った。古びた社殿と狛犬像、天井のように生い茂る木々の中で一本だけ押し倒された木が境内に横たわっている。幸い参道を塞ぐようなことにはなっていないが、異様な光景であることは間違いない。近所の住民が見たら腰を抜かすだろう。
「実は……この神社にたむろしていた子供が奇妙な声を聞いたらしいのです。談笑していると、自分たちの笑い声がそのまま反芻されたと」
「へぇ、笑い声がそのまま、ねぇ」
太郎は、治朗と同様その事柄を一笑に付すようなことはしなかった。じっと天を見上げて、何事か考えている。
「先ほど俺が大声をあげてみたのですが、その時は何も起こらず、彼らの気のせいと言うことも考えたのですが……」
「いきなり木が倒れてきた、と」
治朗と藍が同時に頷いた。
「おかしなことが、二つ同時に起こってるね。”天狗笑い”に”天狗倒し”が」
「な、何ですか、それ?」
頷く治朗に対して、藍が疑問を呈した。どちらも藍が聞いたことのない言葉だった。
「”天狗笑い”は、山を行く道中、どこからか笑い声が聞こえるという、まぁ天狗による悪戯とされる現象だ。”天狗倒し”もどこからか大木が倒れる音が聞こえるというものだ。ただ、本来こちらも音だけの悪戯で、実際に倒れるというものではない。悪戯や冗談では済まされない事態だ」
「でも、どっちも”天狗”って言葉が入ってますけど……もしかして、全然別の天狗の人がそんな悪戯をしてるとか……」
藍は言葉を精一杯選んだ。だが、どうしても目の前の彼らをも悪く言う言葉になってしまう。太郎は、わかっている、と言いたげに頷いた。
「その可能性は否めない。でも、おそらく違うよ。天狗は基本的に、人里に降りてまで悪さをしようとはしないから」
「そうなんですか?」
「山の中だろうとしない。俺たち護法天狗はな。人に悪さをして脅かすのは、教えに背いたはぐれ者どもだ。それとて、限度というものはあるがな」
そう言った治朗の声には、怒りが滲んでいた。治朗は短気だが、正義感は人一倍強いらしいことはわかる。命にかかわるような事態を引き起こした者に、怒りを覚えているに違いなかった。
「まぁ、こういう時は焦らず、一つずつ対処しようか」
そう言うと、太郎は境内の中心に向けてとことこ歩いて行った。
「治朗、大声出してみたって言ってたけど、なんて言った?」
「はい。『誰かいないか』と」
「それで声が返ってこないってことは、その”何か”に向けた呼びかけは返さないんじゃない?」
「どういうことですか?」
藍も治朗も、太郎の意図がわからなかった。だが太郎はかまわず、もう一度境内をぐるりと見回していた。
「つまり、独り言とか、その”何か”を意識していない言葉を言えばいいんじゃないかな」
そう言うと、太郎はすぅっと大きく息を吸い込み、空へ向けて大きく叫んだ。
「藍、好きだーーーーっ!!」
「へ!?」
その大きな愛の告白は、境内どころか、ご近所中に響き渡っていた。
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