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壱章 愛宕山の天狗様
七
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神妙にお礼を言われて、太郎坊は照れくさそうに視線を逸らせた。そして気恥ずかしさを振り払うように
「あの……あれだよ。あやかしから逃れたかったら、息を止めるといいよ」
「息……ですか?」
「人の気の流れは呼吸とともに変化するから。その変化で存在を感知するんだよ」
「そう……だったんですか」
「まぁずっと息を止めておくなんてできないし、こういうあやかしが集まりやすい場所にはなるべく近づかないのが一番だね」
「ここは、集まりやすいんですか?」
確かに、山道に入る前からざわざわと何か聞こえるとは感じていた。上っている人に対して、その声が随分多いとも。
「ここは昔からの霊山だし、余計にね。それでなくとも、ここは人が少ないし、ここを歩く人はだいたい呼吸が大きくて目立つ。餌が多いってことだよ」
ゾッとする言い方だが、藍にはものすごくしっくりきた。改めて、自分は喰われかかっていたのだと実感した。
「まぁ早く山から降りるのが得策だって話なんだけど……まだ頂上に行ってなかったよね? 何か大事な用でもあった?」
「一応……お母さんと一緒に、『火迺要慎』のお札を貰いに……」
「ああ、なるほど。でもきっと騒ぎになってるし、もう上まで行くのは難しいだろうね」
やっぱり、と藍は思った。それどころではなかったが、あんなところから落ちたら母たちは大騒ぎしているだろうし、合流できたとしてもすぐに帰ることになるだろう。
申し訳ない事態になったと、藍が頭を抱えていると、太郎坊はまた何か考える素振りを見せた。そして、腰から下げていた鈴をはずして、差し出した。
「これを持って、ちょっと待ってて」
太郎坊がそう言うや、急につむじ風が起こった。地面から巻き起こった風に思わず目をつぶると、次の瞬間には、太郎坊の姿が消えていた。
「え……?」
藍のつぶやきだけがその場に取り残されたかのような響きだった。
手の中には、渡された鈴が一つ。少し転がすだけで澄んだ音が辺りに響き渡る。鈴の方は新しく作られたかのようにピカピカ光って綺麗だが、持ち手として結ばれている紐は随分と古い。もはや何が描かれているかわからないが、細かな文様が刻まれているらしいことはわかった。
目を凝らしてその文様をじっと見ていると、再びつむじ風が起こった。今度は、風の中から人が現れた。予想通り、太郎坊だ。
「はい、これ」
太郎坊は、いきなり何かを差し出した。
片手には収まらない大きなお札だ。そこには、大きく達筆な文字で「火迺要慎」と書かれている。
「これって、頂上でもらうお札じゃ……?」
「うん、今行って貰って来た」
「今!? 貰って?」
「正確には黙って取って来た」
「はい!?」
「大丈夫。後で説明しとくから」
「いやいやお金とか……じゃなくて、今どうやって行ってきたんですか!?」
太郎坊は何故かきょとんとして藍を見返している。どうしてそんな顔をするのか、藍の方が不思議だ。
藍が先ほどまでいた休憩所でも、まだ標高800メートルあたり。頂上までは20~30分ほどかかる。そしてそこから大幅に下降した今は、さらに距離がある上、登山道からも外れている。
とても数秒で行って帰って来られるような場所ではない。ないのだが……太郎坊はまたも、事も無げに言った。
「どうやってって……神通力で」
「はい?」
「『神境智證通』とか『神足通』とか言ってね、望むところに行けたりする色んな超能力のこと。まぁ瞬間移動したってことだよ」
「”まぁ”で済むんですか、今の話……!」
「そんなに驚くこと? 僕は天狗だよ?」
「そうですけど……」
そう言われてしまうと、二の句が継げない。正直なところはまだ半信半疑だが、先程からそうとしか思えない出来事ばかり起こっているので否定できない。何より、いくつもの恩義が重なってしまっている。疑うなど到底できないのだった。
「わ、わかりました。ありがとうございます」
「うん」
太郎坊はまた、くすぐったそうにはにかんだ。意外と、嬉しい表情には乏しいらしい。
「あの、お金はお母さんと合流したら必ずお返しします。えっと……住所とかは……」
「住所はここだけど、別に返してくれなくてもいいよ」
「そういうわけにはいかないですよ」
「僕からのささやかな贈り物だと思って。許嫁の望みは何だって叶えてあげたいって思うでしょ?」
「そりゃそうですけど、贈り物だなんてとても…………」
頑なに固辞する太郎坊は、今、何と言ったか。藍はお札の値段の話をしていたはずだが、何やら聞き慣れない、そして聞き捨てならない言葉が飛び出した。
顔を見るのが怖くなったが、目を逸らしてままではいられない。藍はおそるおそる、視線を太郎坊に向けた。妙に恥ずかしそうに頬を赤らめながら、藍の言葉を待っている、太郎坊の顔を。
「あの……今、何て仰いましたか?」
「『望みは何だって叶えてあげたい』?」
「その前です」
「『ささやかな贈り物』?」
「その少し後です。誰の望みを叶えたいと?」
藍がおそるおそる訊ねると、太郎坊はさも当たり前と言わんばかりに目を丸くして、藍を指して言った。
「『許嫁』」
「い……い い な ず け !?」
悲鳴のような叫び声は、頂上にも届きそうなほどに響き渡った……。
「あの……あれだよ。あやかしから逃れたかったら、息を止めるといいよ」
「息……ですか?」
「人の気の流れは呼吸とともに変化するから。その変化で存在を感知するんだよ」
「そう……だったんですか」
「まぁずっと息を止めておくなんてできないし、こういうあやかしが集まりやすい場所にはなるべく近づかないのが一番だね」
「ここは、集まりやすいんですか?」
確かに、山道に入る前からざわざわと何か聞こえるとは感じていた。上っている人に対して、その声が随分多いとも。
「ここは昔からの霊山だし、余計にね。それでなくとも、ここは人が少ないし、ここを歩く人はだいたい呼吸が大きくて目立つ。餌が多いってことだよ」
ゾッとする言い方だが、藍にはものすごくしっくりきた。改めて、自分は喰われかかっていたのだと実感した。
「まぁ早く山から降りるのが得策だって話なんだけど……まだ頂上に行ってなかったよね? 何か大事な用でもあった?」
「一応……お母さんと一緒に、『火迺要慎』のお札を貰いに……」
「ああ、なるほど。でもきっと騒ぎになってるし、もう上まで行くのは難しいだろうね」
やっぱり、と藍は思った。それどころではなかったが、あんなところから落ちたら母たちは大騒ぎしているだろうし、合流できたとしてもすぐに帰ることになるだろう。
申し訳ない事態になったと、藍が頭を抱えていると、太郎坊はまた何か考える素振りを見せた。そして、腰から下げていた鈴をはずして、差し出した。
「これを持って、ちょっと待ってて」
太郎坊がそう言うや、急につむじ風が起こった。地面から巻き起こった風に思わず目をつぶると、次の瞬間には、太郎坊の姿が消えていた。
「え……?」
藍のつぶやきだけがその場に取り残されたかのような響きだった。
手の中には、渡された鈴が一つ。少し転がすだけで澄んだ音が辺りに響き渡る。鈴の方は新しく作られたかのようにピカピカ光って綺麗だが、持ち手として結ばれている紐は随分と古い。もはや何が描かれているかわからないが、細かな文様が刻まれているらしいことはわかった。
目を凝らしてその文様をじっと見ていると、再びつむじ風が起こった。今度は、風の中から人が現れた。予想通り、太郎坊だ。
「はい、これ」
太郎坊は、いきなり何かを差し出した。
片手には収まらない大きなお札だ。そこには、大きく達筆な文字で「火迺要慎」と書かれている。
「これって、頂上でもらうお札じゃ……?」
「うん、今行って貰って来た」
「今!? 貰って?」
「正確には黙って取って来た」
「はい!?」
「大丈夫。後で説明しとくから」
「いやいやお金とか……じゃなくて、今どうやって行ってきたんですか!?」
太郎坊は何故かきょとんとして藍を見返している。どうしてそんな顔をするのか、藍の方が不思議だ。
藍が先ほどまでいた休憩所でも、まだ標高800メートルあたり。頂上までは20~30分ほどかかる。そしてそこから大幅に下降した今は、さらに距離がある上、登山道からも外れている。
とても数秒で行って帰って来られるような場所ではない。ないのだが……太郎坊はまたも、事も無げに言った。
「どうやってって……神通力で」
「はい?」
「『神境智證通』とか『神足通』とか言ってね、望むところに行けたりする色んな超能力のこと。まぁ瞬間移動したってことだよ」
「”まぁ”で済むんですか、今の話……!」
「そんなに驚くこと? 僕は天狗だよ?」
「そうですけど……」
そう言われてしまうと、二の句が継げない。正直なところはまだ半信半疑だが、先程からそうとしか思えない出来事ばかり起こっているので否定できない。何より、いくつもの恩義が重なってしまっている。疑うなど到底できないのだった。
「わ、わかりました。ありがとうございます」
「うん」
太郎坊はまた、くすぐったそうにはにかんだ。意外と、嬉しい表情には乏しいらしい。
「あの、お金はお母さんと合流したら必ずお返しします。えっと……住所とかは……」
「住所はここだけど、別に返してくれなくてもいいよ」
「そういうわけにはいかないですよ」
「僕からのささやかな贈り物だと思って。許嫁の望みは何だって叶えてあげたいって思うでしょ?」
「そりゃそうですけど、贈り物だなんてとても…………」
頑なに固辞する太郎坊は、今、何と言ったか。藍はお札の値段の話をしていたはずだが、何やら聞き慣れない、そして聞き捨てならない言葉が飛び出した。
顔を見るのが怖くなったが、目を逸らしてままではいられない。藍はおそるおそる、視線を太郎坊に向けた。妙に恥ずかしそうに頬を赤らめながら、藍の言葉を待っている、太郎坊の顔を。
「あの……今、何て仰いましたか?」
「『望みは何だって叶えてあげたい』?」
「その前です」
「『ささやかな贈り物』?」
「その少し後です。誰の望みを叶えたいと?」
藍がおそるおそる訊ねると、太郎坊はさも当たり前と言わんばかりに目を丸くして、藍を指して言った。
「『許嫁』」
「い……い い な ず け !?」
悲鳴のような叫び声は、頂上にも届きそうなほどに響き渡った……。
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