となりの天狗様

真鳥カノ

文字の大きさ
上 下
8 / 99
壱章 愛宕山の天狗様

しおりを挟む
 神妙にお礼を言われて、太郎坊は照れくさそうに視線を逸らせた。そして気恥ずかしさを振り払うように
「あの……あれだよ。あやかしから逃れたかったら、息を止めるといいよ」
「息……ですか?」
「人の気の流れは呼吸とともに変化するから。その変化で存在を感知するんだよ」
「そう……だったんですか」
「まぁずっと息を止めておくなんてできないし、こういうあやかしが集まりやすい場所にはなるべく近づかないのが一番だね」
「ここは、集まりやすいんですか?」
 確かに、山道に入る前からざわざわと何か聞こえるとは感じていた。上っている人に対して、その声が随分多いとも。
「ここは昔からの霊山だし、余計にね。それでなくとも、ここは人が少ないし、ここを歩く人はだいたい呼吸が大きくて目立つ。餌が多いってことだよ」
 ゾッとする言い方だが、藍にはものすごくしっくりきた。改めて、自分は喰われかかっていたのだと実感した。
「まぁ早く山から降りるのが得策だって話なんだけど……まだ頂上に行ってなかったよね? 何か大事な用でもあった?」
「一応……お母さんと一緒に、『火迺要慎ひのようじん』のお札を貰いに……」
「ああ、なるほど。でもきっと騒ぎになってるし、もう上まで行くのは難しいだろうね」
 やっぱり、と藍は思った。それどころではなかったが、あんなところから落ちたら母たちは大騒ぎしているだろうし、合流できたとしてもすぐに帰ることになるだろう。
 申し訳ない事態になったと、藍が頭を抱えていると、太郎坊はまた何か考える素振りを見せた。そして、腰から下げていた鈴をはずして、差し出した。
「これを持って、ちょっと待ってて」
 太郎坊がそう言うや、急につむじ風が起こった。地面から巻き起こった風に思わず目をつぶると、次の瞬間には、太郎坊の姿が消えていた。
「え……?」
 藍のつぶやきだけがその場に取り残されたかのような響きだった。
 手の中には、渡された鈴が一つ。少し転がすだけで澄んだ音が辺りに響き渡る。鈴の方は新しく作られたかのようにピカピカ光って綺麗だが、持ち手として結ばれている紐は随分と古い。もはや何が描かれているかわからないが、細かな文様が刻まれているらしいことはわかった。
 目を凝らしてその文様をじっと見ていると、再びつむじ風が起こった。今度は、風の中から人が現れた。予想通り、太郎坊だ。
「はい、これ」
 太郎坊は、いきなり何かを差し出した。
 片手には収まらない大きなお札だ。そこには、大きく達筆な文字で「火迺要慎」と書かれている。
「これって、頂上でもらうお札じゃ……?」
「うん、今行って貰って来た」
「今!? 貰って?」
「正確には黙って取って来た」
「はい!?」
「大丈夫。後で説明しとくから」
「いやいやお金とか……じゃなくて、今どうやって行ってきたんですか!?」
 太郎坊は何故かきょとんとして藍を見返している。どうしてそんな顔をするのか、藍の方が不思議だ。
 藍が先ほどまでいた休憩所でも、まだ標高800メートルあたり。頂上までは20~30分ほどかかる。そしてそこから大幅に下降した今は、さらに距離がある上、登山道からも外れている。
 とても数秒で行って帰って来られるような場所ではない。ないのだが……太郎坊はまたも、事も無げに言った。
「どうやってって……神通力で」
「はい?」
「『神境智證通じんきょうちしょうつう』とか『神足通じんそくつう』とか言ってね、望むところに行けたりする色んな超能力のこと。まぁ瞬間移動したってことだよ」
「”まぁ”で済むんですか、今の話……!」
「そんなに驚くこと? 僕は天狗だよ?」
「そうですけど……」
 そう言われてしまうと、二の句が継げない。正直なところはまだ半信半疑だが、先程からそうとしか思えない出来事ばかり起こっているので否定できない。何より、いくつもの恩義が重なってしまっている。疑うなど到底できないのだった。
「わ、わかりました。ありがとうございます」
「うん」
 太郎坊はまた、くすぐったそうにはにかんだ。意外と、嬉しい表情には乏しいらしい。
「あの、お金はお母さんと合流したら必ずお返しします。えっと……住所とかは……」
「住所はここだけど、別に返してくれなくてもいいよ」
「そういうわけにはいかないですよ」
「僕からのささやかな贈り物だと思って。許嫁の望みは何だって叶えてあげたいって思うでしょ?」
「そりゃそうですけど、贈り物だなんてとても…………」
 頑なに固辞する太郎坊は、今、何と言ったか。藍はお札の値段の話をしていたはずだが、何やら聞き慣れない、そして聞き捨てならない言葉が飛び出した。
 顔を見るのが怖くなったが、目を逸らしてままではいられない。藍はおそるおそる、視線を太郎坊に向けた。妙に恥ずかしそうに頬を赤らめながら、藍の言葉を待っている、太郎坊の顔を。
「あの……今、何て仰いましたか?」
「『望みは何だって叶えてあげたい』?」
「その前です」
「『ささやかな贈り物』?」
「その少し後です。誰の望みを叶えたいと?」
 藍がおそるおそる訊ねると、太郎坊はさも当たり前と言わんばかりに目を丸くして、藍を指して言った。
「『許嫁』」
「い……い い な ず け !?」
 悲鳴のような叫び声は、頂上にも届きそうなほどに響き渡った……。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

母が田舎の実家に戻りますので、私もついて行くことになりました―鎮魂歌(レクイエム)は誰の為に―

吉野屋
キャラ文芸
 14歳の夏休みに、母が父と別れて田舎の実家に帰ると言ったのでついて帰った。見えなくてもいいものが見える主人公、麻美が体験する様々なお話。    完結しました。長い間読んで頂き、ありがとうございます。

婚約者に消えろと言われたので湖に飛び込んだら、気づけば三年が経っていました。

束原ミヤコ
恋愛
公爵令嬢シャロンは、王太子オリバーの婚約者に選ばれてから、厳しい王妃教育に耐えていた。 だが、十六歳になり貴族学園に入学すると、オリバーはすでに子爵令嬢エミリアと浮気をしていた。 そしてある冬のこと。オリバーに「私の為に消えろ」というような意味のことを告げられる。 全てを諦めたシャロンは、精霊の湖と呼ばれている学園の裏庭にある湖に飛び込んだ。 気づくと、見知らぬ場所に寝かされていた。 そこにはかつて、病弱で体の小さかった辺境伯家の息子アダムがいた。 すっかり立派になったアダムは「あれから三年、君は目覚めなかった」と言った――。

付喪神、子どもを拾う。

真鳥カノ
キャラ文芸
旧題:あやかし父さんのおいしい日和 3/13 書籍1巻刊行しました! 8/18 書籍2巻刊行しました!  【第4回キャラ文芸大賞 奨励賞】頂きました!皆様のおかげです!ありがとうございます! おいしいは、嬉しい。 おいしいは、温かい。 おいしいは、いとおしい。 料理人であり”あやかし”の「剣」は、ある日痩せこけて瀕死の人間の少女を拾う。 少女にとって、剣の作るご飯はすべてが宝物のようだった。 剣は、そんな少女にもっとご飯を作ってあげたいと思うようになる。 人間に「おいしい」を届けたいと思うあやかし。 あやかしに「おいしい」を教わる人間。 これは、そんな二人が織りなす、心温まるふれあいの物語。 ※この作品はエブリスタにも掲載しております。

妻のち愛人。

ひろか
恋愛
五つ下のエンリは、幼馴染から夫になった。 「ねーねー、ロナぁー」 甘えん坊なエンリは子供の頃から私の後をついてまわり、結婚してからも後をついてまわり、無いはずの尻尾をブンブン振るワンコのような夫。 そんな結婚生活が四ヶ月たった私の誕生日、目の前に突きつけられたのは離縁書だった。

ずぶ濡れで帰ったら彼氏が浮気してました

宵闇 月
恋愛
突然の雨にずぶ濡れになって帰ったら彼氏が知らない女の子とお風呂に入ってました。 ーーそれではお幸せに。 以前書いていたお話です。 投稿するか悩んでそのままにしていたお話ですが、折角書いたのでやはり投稿しようかと… 十話完結で既に書き終えてます。

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

【完結】私だけが知らない

綾雅(りょうが)祝!コミカライズ
ファンタジー
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。 優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。 やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。 記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。 【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ 2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位 2023/12/19……番外編完結 2023/12/11……本編完結(番外編、12/12) 2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位 2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」 2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位 2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位 2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位 2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位 2023/08/14……連載開始

処理中です...