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其の陸 迷宮の出口

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 引き戸にはまった磨りガラスの向こうは、モザイクがかかったようにはっきりとは見えない。時折人通りがあると、ぼんやりとした影が行き交う。
 その影の一つ一つを、初名は凝視していた。
「お待ちどおさま。あんみつです」
 この店、ことこと屋の女将・琴子が注文したあんみつを届けてくれても、初名は頑として姿勢を変えなかった。
 琴子に礼を言ったのは、初名の向かいに座る辰三だった。
「琴ちゃん、ありがとう。頂くわ」
「タツさん……初名ちゃん、大丈夫? なんかこう……思い詰めてない?」
「ちゃうちゃう。あれは一種の、狩り」
「狩り?」
「そう。狙いを定めた獲物を待っとる、狩りや」
 琴子はやっぱり意味がわからないらしく、首をかしげながら去って行った。だが、辰三の言ったことは正しい。
 初名は今、”獲物”を待っていた。このことこと屋の向かいに店を構えているブックカフェ『Dragoste』に現れるはずの、都築絵美瑠を。
「……必死やな」
「そりゃあ、ずっと話そうと思って、話せませんでしたから」
 初名は、あんみつを食べる辰三の体を盾にして、そっと外をのぞき見ている。利用されている辰三としては、どこかむず痒い感覚だった。
「そやけどわからんなぁ。あの絵美瑠が、いきなり逃げ出すやなんて」
「普段はそんなことあり得ないってことですか?」
 頷きながら、辰三は器の底にたまった蜜をすくって寒天に注いでいた。
「めちゃくちゃよう喋る子やで。機関銃みたいや。僕やったら、相手せぇ言われても一時間ももたんわ」
「そ、そんなに……?」
「何でもハキハキズケズケ言いよるし、部活でも友達多いみたいやし、強気やし。怖いもんなしやと思てたわ。それがあの態度……キミがよっぽど酷いことしたんかとも思たけど、そうとも思えんしなぁ」
「いえ、私がしたことは、酷いですよ」
 初名は、思わず下を向きそうになった。そんな初名の口元に、スプーンが差し出された。黒蜜がたっぷりかかった観点が載っている。
「ん」
「あ、ありがとうございます」
 初名が遠慮がちにぱくりと口に入れると、辰三は何もなかったように自分も杏を頬張った。
「僕もその試合の後の絵美瑠に会うたで。なんやえらい落ち込んどったけど……酷いことされたっちゅうわりには、傷ついたっちゅうよりも焦っとったで。まるで自分が何かしたみたいな顔やったわ」
「……そういえば、ラウルさんも似たようなこと言ってました。『一生顔見られない』って……あ!」
 初名が、店の外の黒い影に気付いた。さっと身をかがめて、咄嗟に姿を隠そうとする。
 だがその黒い人影は、ラウルの店ではなく、この店に入ってきた。ガラガラと引き戸を開けて姿を現した客はーー
「あら、いらっしゃい、やじさん!」
 紺地の着物に紺地の前掛けをしたままの、弥次郎だった。
「おう、タツ。それと初名ちゃんもか……何しとるん?」
「張り込みやって」
「しっ!」
 初名は再び店の外を凝視し始めた。店の中でまで静かにしないといけない理由はないはずだが……そこは、辰三も弥次郎も触れないでおいた。
 熱い茶をすすり、琴子に定食を頼んだ弥次郎に、辰三が話を振った。
「なぁやじさん。絵美瑠って、去年の試合の後、どんな感じやったか覚えてる?」
「絵美瑠か? 悔しそうやったし、なんやこう……悶えとったな。恥ずかしそうやったっちゅうか」
「は、恥ずかしそう?」
 弥次郎が、お茶をすすりながら頷いた。
「あとは……『もうあの人に会われへん~顔も見られへん~』て嘆いとったな」
「その……『あの人』っていうのは……」
「キミやろ」
「変やとは思ってたな。しばらく片目塞ぐほどの怪我して帰って来たのに、まるで自分が何や悪いことした、みたいな物言いやったからな」
「そんなこと……」
 ない、と言いかけた初名の口元に、またしてもスプーンが伸びてきた。今度は、寒天とみつ豆が載っている。
 押しつけるような勢いのそれを、初名はおずおずと口にした。
「美味しい……」
「……つまりな、絵美瑠のことは、本人に聞いてみんと、ようわからんのや。わからんことで落ち込むことも自虐することもあれへんやろ」
 頷く初名を見て、弥次郎はニヤリと笑った。どちらかと言うと、辰三に向けていたが、言葉は初名の方に向いていた。
「こいつ、珍しくええこと言うたな。その通り、わからんことで悩むな悩むな。そんなキミに、ええこと教えたるわ」
「……何ですか?」
 弥次郎は、深く息を吸い込んで、神妙に言い放った。
「絵美瑠は、今日はもう帰りました」
「は!? 本当に?」
「ホンマや。キミが来るより前に帰ったで」
「ええぇ……」
 では、ここでの張り込みの時間は一体何だったのか。初名は急に力が抜けて、がっくりと項垂れてしまった。
「まあまあ、明日から頑張り。今日は特別に、俺が団子奢ったるから」
「やじさん、ホンマに? おおきに」
「お前に食わすんちゃうわ、アホ」
 二人のやりとりが軽妙で、楽しそうで、初名は思わず吹き出してしまった。凝り固まっていた緊張が、ほぐれていくような気がした。
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