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其の伍 紡ぐ思い、解ける時間(とき)
二十
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これほど軽い足取りでこの階段を降りたことはない。
あの夕闇の街が待ち遠しい。一段ずつ降りるのがもどかしかった。
真っ暗な階段の向こうに茜色の光が見えた時、初名は一気に飛び降りた。着地したときの足の痺れなど少しも気にならない。
そんなことよりも、早くあの店の戸を叩きたかった。そして中から顔を出すだろう、あの優しくて優美な人に、大きな声で告げたかった。
このお守りのおかげだと。
「百花さん! こんにちは!」
いつにもまして大きな声が、店の中に響いた。だが、返事はない。
それどころか、店の中は静まりかえっていた。灯りもつけず、よく見るとのれんも掛かっていない。
(今日はお休みだったっけ?)
この横丁の店は定休日など存在せず、各々気の向いたときに休みをとる。だからふらりと来てみたら休みだったということは、ままある。あることなのだが、百花は最近は毎日店を開けていた。
(……出かけてるのかな)
初名は、そう思った。同時に、何か嫌な予感がしてたまらなかった。
百花は出かけているだけ。ことこと屋や、地下街の方にぶらぶら散策しに行っているだけだ。風見や辰三がそうしているように。きっと、そうだ。
そう思うのに、どうしてか先ほどから心臓の音が鳴り止まない。
暗い店の中を進み、靴を脱いで上がらせてもらった。夏も近いというのに、どこか肌寒い空気が漂っている。
先ほどまでの浮かれた気分など、どこかに消え失せていた。今は、この先に進みたい、進みたくない、相反する気持ちが葛藤していた。
「も、百花さん……?」
おそるおそる、店の奥を覗き込んだ。きっと誰もいない。もぬけの殻だと自分に言い聞かせて。だが、その期待は崩れ落ちた。
覗き込んだ暗闇の先に、蜘蛛の足が見えた。
「百花さん!」
そこには、大きな蜘蛛が横たわっていた。かろうじて上半身は人間の姿をしており、苦悶の表情を浮かべる百花と目を合わせることが出来た。
「……初名……ちゃん?」
「はい、初名です! 百花さん、しっかりして……! そうだ、風見さん呼んできます!」
そう言って立ち上がろうとする初名の腕を、真っ白な腕が掴んだ。
「ええの。あんた、ここにいて……」
真っ赤な襦袢から覗く肌は、白を通り越して青かった。初名を見つめる瞳はぼんやりとして虚ろで、真っ赤で艶やかだった唇はもはや肌と同じ色で乾いていた。
「どうして、こんな……」
「いややわ……化粧前に来るやなんて、無作法やで」
その時、唐突に思い出した。昨日、百花が言っていた言葉を。
『女はな、気ぃ抜かれへんのよ。いつでもどこでも、綺麗にしておくんが女の戦支度なんや』
唐突に、わかった。百花が、いつでも気を抜かずに、綺麗にしてくれていたのだということを。自分の弱い姿を見せないために。
「そんな……!」
「ごめんなぁ。もう、”準備”するほどの元気が、ないみたいや」
そう言って、百花が浮かべた笑みは、かつて見たことがないほどに、儚いものだった。昨日見せてくれた輝きなど、どこにも見えなかった。
嫌が応にも、初名は、悟ってしまった。それを認めたくなくて、何度も頭を振ったが、百花は困ったように笑うばかりだった。
「……そうだ」
初名はそっと百花の手を引き離し、店の方へと戻った。そして、一番長くて太い針を選んで手にした。
風見は言っていた。百花はこの五十年ほど、肉も、血の一滴すらも、口にしていないと。ならば、血だけでも口にすれば少しは凌げるのではないか。
そう考えていた。
(指だとそんなに血が出ないかもしれない。腕の方が……)
針を握る手が、もう片方の腕に狙いを定める。青い血管が見えるところに向かって、思い切り振りかぶり、振り下ろした。
あの夕闇の街が待ち遠しい。一段ずつ降りるのがもどかしかった。
真っ暗な階段の向こうに茜色の光が見えた時、初名は一気に飛び降りた。着地したときの足の痺れなど少しも気にならない。
そんなことよりも、早くあの店の戸を叩きたかった。そして中から顔を出すだろう、あの優しくて優美な人に、大きな声で告げたかった。
このお守りのおかげだと。
「百花さん! こんにちは!」
いつにもまして大きな声が、店の中に響いた。だが、返事はない。
それどころか、店の中は静まりかえっていた。灯りもつけず、よく見るとのれんも掛かっていない。
(今日はお休みだったっけ?)
この横丁の店は定休日など存在せず、各々気の向いたときに休みをとる。だからふらりと来てみたら休みだったということは、ままある。あることなのだが、百花は最近は毎日店を開けていた。
(……出かけてるのかな)
初名は、そう思った。同時に、何か嫌な予感がしてたまらなかった。
百花は出かけているだけ。ことこと屋や、地下街の方にぶらぶら散策しに行っているだけだ。風見や辰三がそうしているように。きっと、そうだ。
そう思うのに、どうしてか先ほどから心臓の音が鳴り止まない。
暗い店の中を進み、靴を脱いで上がらせてもらった。夏も近いというのに、どこか肌寒い空気が漂っている。
先ほどまでの浮かれた気分など、どこかに消え失せていた。今は、この先に進みたい、進みたくない、相反する気持ちが葛藤していた。
「も、百花さん……?」
おそるおそる、店の奥を覗き込んだ。きっと誰もいない。もぬけの殻だと自分に言い聞かせて。だが、その期待は崩れ落ちた。
覗き込んだ暗闇の先に、蜘蛛の足が見えた。
「百花さん!」
そこには、大きな蜘蛛が横たわっていた。かろうじて上半身は人間の姿をしており、苦悶の表情を浮かべる百花と目を合わせることが出来た。
「……初名……ちゃん?」
「はい、初名です! 百花さん、しっかりして……! そうだ、風見さん呼んできます!」
そう言って立ち上がろうとする初名の腕を、真っ白な腕が掴んだ。
「ええの。あんた、ここにいて……」
真っ赤な襦袢から覗く肌は、白を通り越して青かった。初名を見つめる瞳はぼんやりとして虚ろで、真っ赤で艶やかだった唇はもはや肌と同じ色で乾いていた。
「どうして、こんな……」
「いややわ……化粧前に来るやなんて、無作法やで」
その時、唐突に思い出した。昨日、百花が言っていた言葉を。
『女はな、気ぃ抜かれへんのよ。いつでもどこでも、綺麗にしておくんが女の戦支度なんや』
唐突に、わかった。百花が、いつでも気を抜かずに、綺麗にしてくれていたのだということを。自分の弱い姿を見せないために。
「そんな……!」
「ごめんなぁ。もう、”準備”するほどの元気が、ないみたいや」
そう言って、百花が浮かべた笑みは、かつて見たことがないほどに、儚いものだった。昨日見せてくれた輝きなど、どこにも見えなかった。
嫌が応にも、初名は、悟ってしまった。それを認めたくなくて、何度も頭を振ったが、百花は困ったように笑うばかりだった。
「……そうだ」
初名はそっと百花の手を引き離し、店の方へと戻った。そして、一番長くて太い針を選んで手にした。
風見は言っていた。百花はこの五十年ほど、肉も、血の一滴すらも、口にしていないと。ならば、血だけでも口にすれば少しは凌げるのではないか。
そう考えていた。
(指だとそんなに血が出ないかもしれない。腕の方が……)
針を握る手が、もう片方の腕に狙いを定める。青い血管が見えるところに向かって、思い切り振りかぶり、振り下ろした。
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