大阪梅田あやかし横丁〜地下迷宮のさがしもの〜

真鳥カノ

文字の大きさ
上 下
84 / 109
其の伍 紡ぐ思い、解ける時間(とき)

二十

しおりを挟む
 これほど軽い足取りでこの階段を降りたことはない。
 あの夕闇の街が待ち遠しい。一段ずつ降りるのがもどかしかった。
 真っ暗な階段の向こうに茜色の光が見えた時、初名は一気に飛び降りた。着地したときの足の痺れなど少しも気にならない。
 そんなことよりも、早くあの店の戸を叩きたかった。そして中から顔を出すだろう、あの優しくて優美な人に、大きな声で告げたかった。
 このお守りのおかげだと。
「百花さん! こんにちは!」
 いつにもまして大きな声が、店の中に響いた。だが、返事はない。
 それどころか、店の中は静まりかえっていた。灯りもつけず、よく見るとのれんも掛かっていない。
(今日はお休みだったっけ?)
 この横丁の店は定休日など存在せず、各々気の向いたときに休みをとる。だからふらりと来てみたら休みだったということは、ままある。あることなのだが、百花は最近は毎日店を開けていた。
(……出かけてるのかな)
 初名は、そう思った。同時に、何か嫌な予感がしてたまらなかった。
 百花は出かけているだけ。ことこと屋や、地下街の方にぶらぶら散策しに行っているだけだ。風見や辰三がそうしているように。きっと、そうだ。
 そう思うのに、どうしてか先ほどから心臓の音が鳴り止まない。
 暗い店の中を進み、靴を脱いで上がらせてもらった。夏も近いというのに、どこか肌寒い空気が漂っている。
 先ほどまでの浮かれた気分など、どこかに消え失せていた。今は、この先に進みたい、進みたくない、相反する気持ちが葛藤していた。
「も、百花さん……?」
 おそるおそる、店の奥を覗き込んだ。きっと誰もいない。もぬけの殻だと自分に言い聞かせて。だが、その期待は崩れ落ちた。
 覗き込んだ暗闇の先に、蜘蛛の足が見えた。
「百花さん!」
 そこには、大きな蜘蛛が横たわっていた。かろうじて上半身は人間の姿をしており、苦悶の表情を浮かべる百花と目を合わせることが出来た。
「……初名……ちゃん?」
「はい、初名です! 百花さん、しっかりして……! そうだ、風見さん呼んできます!」
 そう言って立ち上がろうとする初名の腕を、真っ白な腕が掴んだ。
「ええの。あんた、ここにいて……」
 真っ赤な襦袢から覗く肌は、白を通り越して青かった。初名を見つめる瞳はぼんやりとして虚ろで、真っ赤で艶やかだった唇はもはや肌と同じ色で乾いていた。
「どうして、こんな……」
「いややわ……化粧前に来るやなんて、無作法やで」
 その時、唐突に思い出した。昨日、百花が言っていた言葉を。
『女はな、気ぃ抜かれへんのよ。いつでもどこでも、綺麗にしておくんが女の戦支度なんや』
 唐突に、わかった。百花が、いつでも気を抜かずに、綺麗にしてくれていたのだということを。自分の弱い姿を見せないために。
「そんな……!」
「ごめんなぁ。もう、”準備”するほどの元気が、ないみたいや」
 そう言って、百花が浮かべた笑みは、かつて見たことがないほどに、儚いものだった。昨日見せてくれた輝きなど、どこにも見えなかった。
 嫌が応にも、初名は、悟ってしまった。それを認めたくなくて、何度も頭を振ったが、百花は困ったように笑うばかりだった。
「……そうだ」
 初名はそっと百花の手を引き離し、店の方へと戻った。そして、一番長くて太い針を選んで手にした。
 風見は言っていた。百花はこの五十年ほど、肉も、血の一滴すらも、口にしていないと。ならば、血だけでも口にすれば少しは凌げるのではないか。
 そう考えていた。
(指だとそんなに血が出ないかもしれない。腕の方が……)
 針を握る手が、もう片方の腕に狙いを定める。青い血管が見えるところに向かって、思い切り振りかぶり、振り下ろした。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

おにぎり屋さんの裏稼業 〜お祓い請け賜わります〜

瀬崎由美
キャラ文芸
高校2年生の八神美琴は、幼い頃に両親を亡くしてからは祖母の真知子と、親戚のツバキと一緒に暮らしている。 大学通りにある屋敷の片隅で営んでいるオニギリ屋さん『おにひめ』は、気まぐれの営業ながらも学生達に人気のお店だ。でも、真知子の本業は人ならざるものを対処するお祓い屋。霊やあやかしにまつわる相談に訪れて来る人が後を絶たない。 そんなある日、祓いの仕事から戻って来た真知子が家の中で倒れてしまう。加齢による力の限界を感じた祖母から、美琴は祓いの力の継承を受ける。と、美琴はこれまで視えなかったモノが視えるようになり……。 第8回キャラ文芸大賞にて奨励賞をいただきました。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

セレナの居場所 ~下賜された側妃~

緑谷めい
恋愛
 後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

完全なる飼育

浅野浩二
恋愛
完全なる飼育です。

処理中です...