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其の肆 涙雨のあとは
十九
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「また来てくださいね。お待ちしてます」
琴子はそう笑って言った。隣に立つ礼司も、言葉はなかったが、同様に微笑んで頭を下げていた。
そんな二人に、老人は深く頭を下げ、そして背を向けた。姿が見えなくなるまで、一度も振り返ることは、しなかった。
老人の歩く足取り、声、話し方は、いつの間にか意識のはっきりと保ったものに変わっていた。初名を琴子と間違えていた老人は、どこにもいなかった。
老人は杖をつきながらではあるが、しっかりと、自分の足で歩いていた。その隣には初名が、前には風見がいた。
初名は老人と琴子たちの会話に口を挟むことができなかった。ただ見守っていただけだが、老人の表情の変化と共に、胸の奥までじりじりと締めあげられているような思いがしていた。
「なぁんも、覚えてないんやなぁ」
ぽつりと呟いた声が、悲しげだった。
横丁の入り口を前にして、3人は足を止めた。
「自分を殺した相手のことすら覚えてないやなんて、なぁ……」
老人は、乾いた笑いをこぼした。
「それぐらい、どうでも良かったんやな。わしのことなんぞ、端から……」
「そうや」
風見の声が、ナイフのように鋭く冷たく、響いた。
「あの二人はな、二人で手を取り合って夢を叶えることが、心の底から嬉しくてたまらんかったんや。それを、ある日奪われた。逆恨みですらない理不尽な悪意によって、全部」
「それなら、恨んでいてもおかしくはないやろうに……」
「全部、失ったからや。夢も、希望も、命の灯も、何もかも失くした。最後に残ったのは、互いへの想いと、自分らの料理で色んな人を喜ばせたいっちゅう何とも人の好い心残りだけやった。それ以外は、何もいらんのや。あの二人にとっては」
風見は振り返らずにそう告げた。その面持ちは見えなかったが、声音は、低く重かった。
老人は、それをじっと聞いていた。裁きを受ける罪人のように。
「わしは、あの二人にどうやって償えば……」
「そんなこと、できるはずがないやろ。お前のことを知らん人間やと思てたんやからな」
「そやけど、わしは……罰を受けるべきやないんですか」
「もう、受けとる」
風見は、そう告げると同時に振り向いた。向けられた視線は、声音と同じくらい冷たく、鋭利だった。老人と並んで立っていた初名までが、まるで刀の切っ先を突き付けられたような錯覚を覚えた。
「お前は琴子も礼司も殺した。そやけど、あの二人はそのことをもう知らん。お前の罪を、恨んでもなければ許したわけでもない。無かったことにも、ならん」
老人は、震えて答えた。
「それやったら、わしはどうすれば……?」
「お前を許す者は、この世界のどこにもおらん。そういうことや」
震えて縋るように伸びた老人の手を、風見はすげなく振り払った。
「お前はもう、誰からも許されることなく、後悔の念と、燃えるような嫉妬と、そして重苦しい絶望を背負ったまま生きていくんや。死ぬまで、ずっとな」
「死ぬまで……?」
「それが、お前の受ける罰なんとちがうか」
老人は、呆然と風見を見つめていた。いや、見つめていたのは風見ではないのかもしれない。突き付けられた己の贖い方に、愕然としていたのかもしれない。
風見は老人から目を背け、歩き去ろうとした。
「初名、その男をちゃんと地上まで連れて行ってやってくれんか? もう二度と、ここへ来られんように」
「は、はい……」
そう告げると、風見は横丁の奥に消えていった。
初名は、肩を落としている老人の手を取り、ゆっくりと階段を上がっていった。
琴子はそう笑って言った。隣に立つ礼司も、言葉はなかったが、同様に微笑んで頭を下げていた。
そんな二人に、老人は深く頭を下げ、そして背を向けた。姿が見えなくなるまで、一度も振り返ることは、しなかった。
老人の歩く足取り、声、話し方は、いつの間にか意識のはっきりと保ったものに変わっていた。初名を琴子と間違えていた老人は、どこにもいなかった。
老人は杖をつきながらではあるが、しっかりと、自分の足で歩いていた。その隣には初名が、前には風見がいた。
初名は老人と琴子たちの会話に口を挟むことができなかった。ただ見守っていただけだが、老人の表情の変化と共に、胸の奥までじりじりと締めあげられているような思いがしていた。
「なぁんも、覚えてないんやなぁ」
ぽつりと呟いた声が、悲しげだった。
横丁の入り口を前にして、3人は足を止めた。
「自分を殺した相手のことすら覚えてないやなんて、なぁ……」
老人は、乾いた笑いをこぼした。
「それぐらい、どうでも良かったんやな。わしのことなんぞ、端から……」
「そうや」
風見の声が、ナイフのように鋭く冷たく、響いた。
「あの二人はな、二人で手を取り合って夢を叶えることが、心の底から嬉しくてたまらんかったんや。それを、ある日奪われた。逆恨みですらない理不尽な悪意によって、全部」
「それなら、恨んでいてもおかしくはないやろうに……」
「全部、失ったからや。夢も、希望も、命の灯も、何もかも失くした。最後に残ったのは、互いへの想いと、自分らの料理で色んな人を喜ばせたいっちゅう何とも人の好い心残りだけやった。それ以外は、何もいらんのや。あの二人にとっては」
風見は振り返らずにそう告げた。その面持ちは見えなかったが、声音は、低く重かった。
老人は、それをじっと聞いていた。裁きを受ける罪人のように。
「わしは、あの二人にどうやって償えば……」
「そんなこと、できるはずがないやろ。お前のことを知らん人間やと思てたんやからな」
「そやけど、わしは……罰を受けるべきやないんですか」
「もう、受けとる」
風見は、そう告げると同時に振り向いた。向けられた視線は、声音と同じくらい冷たく、鋭利だった。老人と並んで立っていた初名までが、まるで刀の切っ先を突き付けられたような錯覚を覚えた。
「お前は琴子も礼司も殺した。そやけど、あの二人はそのことをもう知らん。お前の罪を、恨んでもなければ許したわけでもない。無かったことにも、ならん」
老人は、震えて答えた。
「それやったら、わしはどうすれば……?」
「お前を許す者は、この世界のどこにもおらん。そういうことや」
震えて縋るように伸びた老人の手を、風見はすげなく振り払った。
「お前はもう、誰からも許されることなく、後悔の念と、燃えるような嫉妬と、そして重苦しい絶望を背負ったまま生きていくんや。死ぬまで、ずっとな」
「死ぬまで……?」
「それが、お前の受ける罰なんとちがうか」
老人は、呆然と風見を見つめていた。いや、見つめていたのは風見ではないのかもしれない。突き付けられた己の贖い方に、愕然としていたのかもしれない。
風見は老人から目を背け、歩き去ろうとした。
「初名、その男をちゃんと地上まで連れて行ってやってくれんか? もう二度と、ここへ来られんように」
「は、はい……」
そう告げると、風見は横丁の奥に消えていった。
初名は、肩を落としている老人の手を取り、ゆっくりと階段を上がっていった。
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