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其の肆 涙雨のあとは
十一
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老人は、震えたまま座り込んで動かなくなった。境内のベンチに座ったまま、初名と女性の二人は、ただ老人の震えが止まるまで寄り添っていた。
「あなたはええのよ。もう行ってくれても。気にせんといて」
老人の娘は何度もそう行ってくれたが、初名はどうしても、そこから離れる気になれなかった。老人の初名の腕を掴む手は、まるで縋り付くようだった。
人違いではあるが、あんなにも縋られて、放っていくことはできないのだった。
「その……誰かとお間違えなんでしょうか。奥様とか……?」
「たぶん、そうなんやろうねぇ。でも誰かはわからへんなぁ。家のお父さん、奥さんなんておらんし」
「え? でも……」
先ほど娘だとはっきり名乗った女性を、初名はまじまじと見てしまった。娘がいるということは、妻がいるのでは、と。
女性の方もその考えが伝わったのか、少し困ったように笑った。
「私はね、養子なんよ。戦争の時に両親とも死んでしもて、孤児になってしもてね。施設にいたところを、お父さんが引き取ってくれはったんや」
「そ、そうだったんですか……すみません、聞いてしまって」
「かまへんよ。おかげでちゃんとこの年まで生きてこられたんやから、感謝してるんや。でもねぇ、だからやろか、踏み込まれへんところがあってねぇ」
女性の、老人を見つめる瞳はどこか悲しそうだった。感謝して、父として慕っているからこそ、踏み込んではいけない領域を感じ取ってしまった。その内側に入れて貰えないことが、悲しいのだろう。
だが女性がそんな目をしたのも一瞬のこと。すぐに振り払って、明るく笑って見せた。
「まぁ、人には隠したいことの一つや二つあるわ。うちも戦災孤児なんを隠したい思てたし」
その明るい笑みが、どうしてか初名の胸にちくりと刺さった。
「ああ、もしかして……初恋の人のことかなぁ」
女性はぽつりと呟いた。そしてすぐに、何でもないと言ってしまった。
「初恋の人と、私を間違えた……んですか?」
「気にせんといて。私もよく知らんのよ」
そう言われても、気になってしまうものはとめられなかった。まして初名は軽く被害に遭ってしまっている。初名にじっと見つめられると、女性は諦めたようにため息をついた。「お父さんにはね、昔、すっごく好きな女の人がいたんやって。ご両親に話して結婚の約束までしてたらしいけど、さっき言うてた通り、赤紙が来てしもてね。帰ってきたらおらんようになってたって言うてたわ」
「その人を、探さなかったんでしょうか?」
女性は、静かに首を振った、
「探したけど見つからんかったて……その人のことが忘れられへんらしくて、九十過ぎた今まで、ずっと結婚せんままやったわ」
それがどれほど大変なことか、初名には想像もつかなかった。ただ、この女性は老人を父と思い、感謝している。老人はきっと、少なくとも悪人ではないのだとわかる。
初名も女性も、困った顔で老人を見つめた。先ほどの取り乱した様子は、明らかにその初恋の人が絡んでいそうだったが、もう詳しくは聞けない。老人の痴呆が進むにつれて、その記憶は失われていく。
そっとしておけば、いずれその初恋の女性のことすら忘れて、こうしてここに来ることもなくなるだろう。
そう考えたその時、初名に、また一つ疑問が浮かんだ。
「そういえば、どうして毎年ここに来るんでしょう?」
そう女性に尋ねると、女性はまた首をかしげた。
「さあ? 聞いても答えてくれへんかったからなぁ」
初恋の女性は見つからなかった、と言っていた。ならば先ほど供えていた花は誰に対してのものなのだろうか。そして、呟いていた言葉……「許してくれ」「わしが憎いか」は、いったい、誰に対して言っていたのだろうか。
老人は誰にともなく何かを呟くばかりで、初名たちに対する答えは、持ち合わせていないようだった。
「あなたはええのよ。もう行ってくれても。気にせんといて」
老人の娘は何度もそう行ってくれたが、初名はどうしても、そこから離れる気になれなかった。老人の初名の腕を掴む手は、まるで縋り付くようだった。
人違いではあるが、あんなにも縋られて、放っていくことはできないのだった。
「その……誰かとお間違えなんでしょうか。奥様とか……?」
「たぶん、そうなんやろうねぇ。でも誰かはわからへんなぁ。家のお父さん、奥さんなんておらんし」
「え? でも……」
先ほど娘だとはっきり名乗った女性を、初名はまじまじと見てしまった。娘がいるということは、妻がいるのでは、と。
女性の方もその考えが伝わったのか、少し困ったように笑った。
「私はね、養子なんよ。戦争の時に両親とも死んでしもて、孤児になってしもてね。施設にいたところを、お父さんが引き取ってくれはったんや」
「そ、そうだったんですか……すみません、聞いてしまって」
「かまへんよ。おかげでちゃんとこの年まで生きてこられたんやから、感謝してるんや。でもねぇ、だからやろか、踏み込まれへんところがあってねぇ」
女性の、老人を見つめる瞳はどこか悲しそうだった。感謝して、父として慕っているからこそ、踏み込んではいけない領域を感じ取ってしまった。その内側に入れて貰えないことが、悲しいのだろう。
だが女性がそんな目をしたのも一瞬のこと。すぐに振り払って、明るく笑って見せた。
「まぁ、人には隠したいことの一つや二つあるわ。うちも戦災孤児なんを隠したい思てたし」
その明るい笑みが、どうしてか初名の胸にちくりと刺さった。
「ああ、もしかして……初恋の人のことかなぁ」
女性はぽつりと呟いた。そしてすぐに、何でもないと言ってしまった。
「初恋の人と、私を間違えた……んですか?」
「気にせんといて。私もよく知らんのよ」
そう言われても、気になってしまうものはとめられなかった。まして初名は軽く被害に遭ってしまっている。初名にじっと見つめられると、女性は諦めたようにため息をついた。「お父さんにはね、昔、すっごく好きな女の人がいたんやって。ご両親に話して結婚の約束までしてたらしいけど、さっき言うてた通り、赤紙が来てしもてね。帰ってきたらおらんようになってたって言うてたわ」
「その人を、探さなかったんでしょうか?」
女性は、静かに首を振った、
「探したけど見つからんかったて……その人のことが忘れられへんらしくて、九十過ぎた今まで、ずっと結婚せんままやったわ」
それがどれほど大変なことか、初名には想像もつかなかった。ただ、この女性は老人を父と思い、感謝している。老人はきっと、少なくとも悪人ではないのだとわかる。
初名も女性も、困った顔で老人を見つめた。先ほどの取り乱した様子は、明らかにその初恋の人が絡んでいそうだったが、もう詳しくは聞けない。老人の痴呆が進むにつれて、その記憶は失われていく。
そっとしておけば、いずれその初恋の女性のことすら忘れて、こうしてここに来ることもなくなるだろう。
そう考えたその時、初名に、また一つ疑問が浮かんだ。
「そういえば、どうして毎年ここに来るんでしょう?」
そう女性に尋ねると、女性はまた首をかしげた。
「さあ? 聞いても答えてくれへんかったからなぁ」
初恋の女性は見つからなかった、と言っていた。ならば先ほど供えていた花は誰に対してのものなのだろうか。そして、呟いていた言葉……「許してくれ」「わしが憎いか」は、いったい、誰に対して言っていたのだろうか。
老人は誰にともなく何かを呟くばかりで、初名たちに対する答えは、持ち合わせていないようだった。
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