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其の参 甘いも、酸いも

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 辰三にお礼とお詫びをすることになり、二人は店を出た。
 顔に包帯を巻き直した辰三は、またあのミイラ男状態になっていた。そして店を出ると、初名を引き連れてまっすぐ横丁の奥へ向かって歩いた。
「美味い店連れてったるわ」と言われ、初名は恐れ半分、興味半分という気持ちで歩いていた。
 横丁は薄暗く、点々と掲げられたぼんぼりの明かりが二人の行く先をぼんやりと照らし出している。木製の引き戸にすりガラスのはめられた戸、ヨーロッパ風のドア、暖簾を下げて開け放った入り口、様々な店の軒先が見える。
 横丁とは元来、表通りから横に入った通りであり、路地裏と違って客が行き来することのできる道がある場所を指す。今、通りには客と呼べる者は初名と辰三の二人だけだが、どの店も客の訪問を受け入れていることは、感じ取れる。
「着いたで」
 そう言って、辰三が足を止めた。
 そこは横丁の入り口から大分と離れた場所にあった。それでもすりガラスの向こうは明るく、何やら楽しそうな声も聞こえてくる。
 その店先には、戸の前に暖簾がかけられており、店名が染め抜かれていた。『おばんざい ことこと屋』と。
「ここはいろんな料理が安くて量多くて、おまけに美味いて評判なんやで」
 辰三は暖簾をくぐり、ガラガラと音を立てて店に入った。
 夕闇のような横丁と違い、店の中は昼間のように眩かった。
 外にいると楽しそうな声が聞こえていたので、てっきりお客さんで溢れているのかとおもいきや、店内には客はいなかった。今はご飯時からずれているからかもしれないが。
 だがそれなら、賑やかそうな声は何だったのか、初名が疑問に思ったその時、天井の明かりと同じくらい明るい声が聞こえてきた。
「いらっしゃい、辰三さん。いやぁ……どないしたん? 可愛らしい子連れて」
 女将らしき女性が奥から顔を出した。女将といっても二十代…初名より少し年上くらいに見える。長い髪を結い上げ、小花柄の着物の上に割烹着を身につけた姿は凜としつつ、どこか愛らしい空気を纏っていた。にっこり笑うと、女将はさらに優しく可愛らしく見えた。 
「初めまして。ここでおばんざいのお店やってる、琴子いいます。よろしくね。お名前、なんて言わはるの?」
「こ、小坂初名……です」
「初名ちゃん? 素敵なお名前やね」
「お、おばんざいって……?」
「京都の家庭料理のことよ。初名ちゃん……なんや関東っぽい話し方しはるけど、あっちの人?」
「は、はい。東京から来ました」
「それやったらなおのこと、ぜひ食べてもらいたいわぁ。ゆっくりしてってなぁ」
 鈴のような笑い声を耳に残し、琴子は奥に下がっていった。
 ため息をつきながら、辰三は手近な4人掛けの卓に腰を下ろした。初名も慌ててそれに従って、辰三の向かいの隣……はす向かいに座った。
「一人で賑やかやろ?」
「ああ、さっき聞こえてたのって、あの人の……?」
 辰三はややあきれ気味に頷いた。それにしても、独り言であれだけ話していたとも思えない。他にも誰かいるのかと奥を覗き込んだその時、辰三が眉をひそめた。
「あの……目ぇ合わせにくいから前に座ってくれへん?」
「え、それはちょっと……」
 初名は失礼と知りつつ、真ん前は避けたのだった。
「なんでやねん。さっきは思いっきり顔付き合わせて話しとったやん」
「今はちょっと……」
 ぐいぐい顔を近づけてくる辰三だったが、その前に、温かな湯気を上げるカップがずいと差し出された。
「……コーヒー、サービスします」
 顎髭と髪を綺麗に整えた渋い声の男性が、小さなコーヒーカップを初名の前に置き、ちらりと辰三に視線を送った。
「辰三さん、無理強いはあかんのとちゃうか?」
「……はいはい。すんまへんなぁ、強引で」
 突然の出来事に戸惑う初名に、奥から出てきた琴子が説明してくれた。
「この人は私の夫の礼司。初めて来てくれはったお客さんにはタダでコーヒーお出ししてるんです。うちの人がコーヒー担当、私が料理担当なんよ」
「はぁ……どうも」
 玲司は、初名にも視線を向けると、じっとその顔を見つめていた。
「な、何かついてますか?」
「……きみ、会うたことあるな」
「え?」
 初名も夫妻も、互いに首をかしげていた。玲司はああは言ったものの、どこで会ったか明確にはわからないらしい。
「会合やろ。この前の会合の時に、僕らの後ろで寝とった子や」
「……ああっ!」
 辰三の指摘に、初名と琴子は顔を見合わせた。
 初名は思い至った。あの時、風見の周りに座っていた奇妙な人々の中に、確かに夫婦がいた。
「いやぁ、あのとき逃げてもうた子? また来てくれはったんや」
「そ、その節は大変失礼を……!」
「ええよぉ、そらこんな包帯だらけの人が迫ってきたら怖いわ、なぁ?」
 玲司は苦笑いし、琴子はその数倍けたけた笑っていた。
 横でそれを聞いていた辰三は、憮然として言った。
「もうわかったっちゅうねん。琴ちゃん、団子ちょうだい、団子!」
 思いのほか盛り上がってしまったことで、まさか自分がやり玉に挙げられるとは思っていなかったらしい。琴子に注文したきり、辰三はぶすっとして、黙り込んでしまったのだった。
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