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本編

06

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 藍原瑛斗前世の僕は、地味で冴えない容姿の、オタクと呼ばれる性質の男だった。
 子どもの頃から漫画や小説の他、ゲームというものが好きで、暇さえあれば何時間でも本を読み、ゲームで遊ぶような生活を送っていたようだ。

 勤務先は従業員数がギリギリの小さな会社で、前世でよく耳にしていた“ブラック企業”と比べると生温なまぬるいかもしれないが、あまり好ましくない勤務体制の会社だったと思う。
 短時間で指示がコロコロ変わる上、自分が放った言葉すら覚えていないような無責任な上司と、そんな上司に奴隷のように付き従う先輩、遅刻や無断欠勤を繰り返す後輩との板挟みとなって、随分と精神をすり減らしていた。
 そして、経営が苦しいことを理由に、残業をするならサービス残業を求められ、承諾して残業をすれば電気代が勿体無いから早く帰れと言われ、極め付けは何年働いても給料が上がらないという状況だった。
 しかし、多少仕事が残っていても定時で退社することを咎められることはなかったので、その点は良かったのではないかと思う。
 その代わり、退社後や休日に上司から電話がかかってくることがあったので、プライベートはないも同然だったけれど。

 (……早く辞めたい)

 僕は毎日、そんなことを考えていたが、結局言い出せずにズルズルと働き続けていた。
 
 平日は会社と自宅を往復するだけで、買い物はほとんど通信販売で済ませていたこともあって、休日は自宅から出ることはなく、数少ない友人とも疎遠になっていた。
 つまり、職場の人間以外との交流は皆無という生活だったのだ。
 もちろん、女性との出会いなどというものもなく、職場内で恋愛に発展するような相手もいなかったので、三十歳になっても年齢と恋人がいない期間が同じという状態になっていた。
 両親からは既に諦められており、彼らは先に嫁いだ妹の元に生まれた初孫を溺愛していたので、僕が結婚しなくても問題にならなかったことは幸いだっただろう。
 まあ、三十歳で異世界に転生している時点で、もし結婚していたら妻や子を残していくことになっていたであろうことを思うと、これで良かったのだと思うしかない。
 
 転生先のこの世界での僕は、美少年と呼ばれる類の容姿をしているが、性格は前世の僕と似通っている部分が多く、昏睡する前は学院へ通う以外の時間をほとんど読書や魔法研究の時間に充てていたようだった。
 友人も少なく、学院外での交流はしていないので、従者のキースとの方が余程親しいと言えるだろう。

 ――ガタンッ

 不意に大きな音と揺れを感じて我に返る。
 僕は今、中心街から屋敷に帰る馬車の中にいて、先程の音と揺れは、僕が乗る馬車が急停車したことを示していた。

「……キース? 何があったの?」

 向かいに座っていたキースが窓から顔を出し、外にいる護衛に確認を取っていることに気づき、小声で尋ねる。
 馬車は既に貴族街へ入っており、道路はきちんと整備されているため、通常はあんな風に大きく揺れることはない。
 これが森や山の中の道だったら、魔獣の出没や盗賊の襲撃を心配するところだが、至る所に巡回兵が歩いているこの場所で、そんな無謀なことをする者はいないはずだ。

「申し訳ございません、エリオット様。お怪我はありませんか?」

「うん、それは大丈夫だけど……」

「どうやら、馬車の前方に通行人が倒れ込んできたようです」

「えっ? もしかしてねたの?」

「いいえ、接触はしておりません。御者が言うには、馬車の進行方向にフラフラとした足取りで歩いている者がいたため、万が一を考えて避けようと馬の進路を逸らしたところへ、その者が倒れ込んできたとのことです。倒れ込んだ場所が馬車の車輪に巻き込む可能性がある位置だったため、急停止したと言っています」

「フラフラしていて急に倒れたって、何かの病気とか?」

「護衛が今、その者の状態を確認しております。ここは巡回兵もいますし、事態はすぐ収拾できると思いますが、少しお待ちください」

「……わかった」
 
 淡々と告げるキースに、動揺していた僕も落ち着きを取り戻していく。

 (また、小説にない展開が起こった……)

 小説では、中心街から屋敷へ帰る間の描写はない。
 しかし、主人公が乗る馬車が事故を起こしかけたという出来事があったなら、一言くらい書かれていてもおかしくないと思う。
 それとも、この事故は物語の進行に影響がない程度の些細な出来事ということなのだろうか?

 (うーん……わからない。でも、これが小さい出来事だとは思えないし、何かあるような気がするんだけど……)

 何となく、この事故がこれからの物語に影響を及ぼすような予感がしている。
 だが、それがどういうことなのか、いくら考えても思い浮かばなかった。
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