【Ｒ18】豹変年下オオカミ君の恋愛包囲網〜策士な後輩から逃げられません！〜

過去からの解放

『カランカラン』

　重厚な扉を開け、店内へと入れば見知った顔が温かな笑みで迎え入れてくれる。

「こんばんわ。鈴香さん。今夜は何にしますか？」

「そうね。あまり酔いたくないのよ。出来れば、ノンアルコールカクテルにしたいの。出来るかしら？」

　いつものカウンターの定位置へと座ると、馴染みのバーテンダーに話しかけられる。

「あらっ？珍しいね。今日はどうしたのさ？いつもは、強いカクテルばかり頼むのにさ」

「今夜は酔いたくないのよ。酔いたくないというか、酔っちゃダメなのよ。決戦の時だから。人と待ち合わせなの」

「……そう、わかった。ノンアルコールカクテルね。了解」

　それ以上、詮索しない彼の優しさに感謝しつつ、スマホを取り出すとメール画面を開く。数日前に送ったメール画面を見つめ、緊張で逃げ出したくなる。

　元彼と対峙する決意をした。

　あの日、橘が看病をしてくれた日。冷蔵庫で見つけたメモを見て心に決めたのだ。

　自分の気持ちに正直になろうと。

　格好悪くたっていい。今、行動を起こさなければ後悔する。橘と麻里奈ちゃんの関係なんてどうだっていい。

　みじめだろうと、未練たらたらと罵られようと、自分の正直な気持ちを彼に伝えようと決めたのだ。

　橘に、『愛している』と……

　もう、過去の自分に縛られる訳にはいかない。一歩前に踏み出すために、元彼との関係に決着をつける。だから、馴染みのBARに呼び出した。

　元彼からの復縁要求は、日に日にエスカレートしてきている。もはや、ストーカーと化した元彼に、一人で立ち向かう事への無謀さも理解している。

　ただ、もう逃げ出したくない。

　もう、自分の気持ちから逃げないと決めたのだ。だから、過去に決着をつけ、前に進む。


「鈴香。待たせてごめん。まさか、誘ってくれるとは思わなくて。嬉しかったよ」

　背後からかけられた声に振り向けば、人好きする笑顔を顔に貼り付け元彼が立っていた。

　昔は、この笑顔を見る度に『素敵だ』と思っていたが、目が笑っていない。今なら分かる気持ち悪い程の作り笑いに、背を怖気が走る。

　衝動的に逃げ出したくなる気持ちを誤魔化すように、引き攣った笑みを浮かべ隣の席を勧め、目を逸らした。

　相手の雰囲気に飲まれる訳にはいかない。このままでは、口の上手い彼に丸め込まれてしまう。

　過去と決別して、前に進むと決めたのだ。もう、自分の気持ちを誤魔化したりしない。

「貴方とね。きちんと話をしたいと思っていたの。ストーカー行為と提示された写真について」

「ストーカー行為？　そんな事をした覚えはない。それに写真だって、妻子ある男なんてやめた方がいいって忠告してやっただけだろう。脅すつもりなんてなかったさ」

　似非笑いを浮かべていた彼の表情は、見るからに剣呑さを増している。でも、ここで怯む訳にはいかない。

「じゃあ、あのメールの文面は何よ。写真をばら撒かれたくなければ、分かっているよなって、脅し以外の何ものでもないでしょ！あれが、ただの忠告だとでも言うの？」

「それこそ、ジョークだろ。相変わらず頭が固いな。そんなんじゃ、どおせ男なんて出来ないだろ。妻子持ちの男に騙されて、ズタボロになる前に戻って来いよ。どうせ意地張っているだけだろ」

「私をズタボロにしておいて、どの口が言うのよ」

　相変わらず自分本意の物言いしか出来ない奴にイライラだけが募っていく。

　冷静になり考えれば、何故こんな奴を盲目的に愛していたのか不思議でならない。この男は、付き合っていた当初から、自己中心的な考えや言動を取る事が多かったのだ。

　その言動を当時は男らしいと感じていたなんて、おめでたいにも程がある。

「今夜だって、俺とヨリを戻したいから呼び出したんだろ。確かに、他の女と浮気したのは、全面的に俺が悪かったよ。ただ、鈴香と離れて分かったんだ。俺には鈴香だけだって。こんなどうしようもない俺を丸ごと受け入れて甘やかしてくれるのは鈴香だけだって気づいたんだよ。今度こそ浮気なんてしない。大切にするから、戻って来いよ」

　どこまでも身勝手な男。

　この男は、何も変わってはいない。いや、変わろうとも思っていないのだろう。

　目の前で項垂れる男は、昔から私のことを愛してなどいなかった。この男にとって私は、自分の思い通りになる都合のいい女でしかなかったのだ。

　心の片隅に残るキラキラとした想い出すら粉々に砕け散っていく。

「……ふふ…ふふふ……何も変わっていないのね。よく分かったわ。貴方にとって私は今も昔も都合のいい女でしかないって事が」

「ちょ、ちょっと待てって！それこそ誤解だ。俺の言い方が悪かっーー」

「何が誤解なのよ。何度浮気しても、最後は受け入れてくれる私の存在は、都合のいい女でしかないわよね。自分の思い通りになるバカな女ってところかしら？彼女という名で縛っておけば、離れる事はない。浮気をしようと心が痛むことすらなかったのでしょうね。だから、あんな酷いフリ方すら出来たのでしょ。少しでも私を愛してくれていたら、誕生日当日に浮気相手を伴って、別れを切り出すなんて、そんな酷いこと出来なかった筈だわ」

「いや、あれは……あの女にせがまれただけで、本当は別れるつもりなんてなかった」

「もう、いいのよ。私もやっと目が覚めた。もう金輪際、私に関わらないで。連絡もして来ないで。これ以上、付きまとうなら警察に行くわ。ストーカーされているって」

　予想すらしていなかったのか、絶句する奴の顔を見て僅かに溜飲を下げる。

　きっと、拒絶されるとも思っていなかったのだろう。何でも意のままになっていた女に刃向かわれるなど考えもしなかったに違いない。

「……くくっ…ははは…………
いつから、そんな口。俺に聞けるようになったんだ？昔のお前は、俺に忠実で可愛かったのになぁ」

　言葉もなく項垂れた目の前の男の様子に、勝ちを確信した私の考えは、本性を現した奴の笑い声にかき消される。

「鈴香さぁ、自分の立場を分かっているのか？調子に乗りやがって。こっちには手札が残っている事、忘れた訳じゃないよな。あんな写真だって、使い方によっては、いくらでも利用価値が出る。相手の男、お前の上司だろう？確か、課長だっけ。しかも妻子持ち。大手企業に勤める課長職だ。部下と浮気しているのかって、そっちの男に詰め寄ったっていい。上手くいけば、口止め料を巻き上げる事だって出来る」

「か、課長とは、そんな関係じゃないわ‼︎ あの写真だって貴方が、そう見えるように撮っただけじゃない！」

「ははっ……
お前らの関係なんて、どうだっていいんだよ。大企業になればなる程、要職にある者を陥れようと企んでいる奴らは、沢山いるもんなんだよ。そんな奴らにとって、真実なんて関係ない。この写真だって、そんな奴らにとっては金を積んででも欲しいだろうよ。まぁ、使いようはいくらでもあるって事だ。それを態々わざわざ、ヨリを戻すなら、この写真を無かった事にしてやろうっていう俺の温情を逆手に取りやがって何様のつもりだ？ストーカー？警察に行く？笑わせんな！上司の男共々、破滅させる事だって出来るんだ」

　ひどい、ひど過ぎる……

　嘲笑を浮かべる奴に言い返す事も出来ないなんて、自身の不甲斐なさに吐き気すらする。こんなゲス男の脅しに屈する事しか出来ないのだろうか。

「悪い事は言わない。意地張ってないで戻って来いよ。この写真を使って、お前を思い通りにしようなんて考えていない。ただ、恋人同士に戻りたいだけなんだ」

　項垂れ、視線を落とした先の一枚の写真が私を追いつめる。

　負けを認めるしかないのだろうか……

　こんな些末な事に課長を巻き込む訳にはいかない。昇進が期待されている彼の足を引っ張る訳にはいかないのだ。

　ただ、目の前の奴の言葉に頷く事だけは出来ない。

　元彼との関係に決着をつけ、前に進むと決めたのだ。今度こそ、自分の気持ちに正直になると。

　どうすればいい？

　堂々巡りの思考に、焦りだけが募っていく。隣に座る男の猫撫で声が、耳を抜け麻薬のように脳を蝕んでいく。

　奴の言葉に従うしか……

「……ひっ⁈」

　目を瞑り、打開策を必死に考えようともがく私を嘲笑うかのように奴の腕が肩に回され、引き寄せられていた。

　嫌悪感と恐怖心で勝手に身体が震え出し、衝動的にこの場を逃げ出したくなる。

　もう…いや………



「あんたさぁ……
俺の彼女に何してんの？」

　突然、背後から放たれた威圧を含んだ声に、反射的に振り向いていた。

「……お、お前………」

「………………橘っ」