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夢と現実の狭間

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………頭、痛い………

見慣れぬ天井を見上げ、夢なのか現実なのかも分からなくなりそうだった。夢うつつの中、火照った身体と激しい頭痛が意識を現実へと引き戻す。

「………ここ、どこ?」

ベッドに寝ている事は分かる。グレーの羽毛布団を首元まで上げ、昨夜の行動を思い返す。

データが消えて、残業して………

「うそっ⁈」

布団を跳ね除け飛び起きるが、目眩と激しい頭痛に襲われ突っ伏す。そろそろと元の体勢に戻り目を瞑った。

橘が現れてからの記憶がない。言い合いになって、怒鳴って、突き飛ばして………

最後に奴に抱き上げられて運ばれたのだろうか?
じゃあ、此処は奴の家なのか?

部屋に僅かに香る嗅ぎ慣れた匂いに、ここが『橘真紘』の家で正解だと理解した。

残った仕事はどうなったのだろうか?

橘に手伝うと言われたが、まさか意識を失った私を家に運んで会社に戻ったなんてことは………

昨晩の記憶も曖昧な上、奴の家のベッドで寝ているという状況に混乱した頭の中を疑問符ばかりがクルクルと回る。

ーーーと、とにかく課長に連絡しないと。

ベッド脇のチェストに置かれていたスマホを手に取ると画面を開いた。

『仕事は完了した。課長へデータも送り済みだ。念のため添付ファイルを送るので中身を確認し、手直しが必要であれば連絡をくれ』

ーーー橘が代わりに仕事を終わらせてくれたのか………

添付されていたファイルを慌てて確認し、彼の仕上げた完璧なデータを前に感嘆の声が漏れる。教育係だった頃、幾度となく添削をしたが、直すところが見当たらない程の完成度に何度も驚かされた。あの膨大な量の資料をデータ化するには、相当な時間がかかった筈だ。しかも、倒れた私を家に連れ帰ると、直ぐに会社に引き返し、徹夜で残った仕事を仕上げてくれた。彼が助けてくれなかったら、私の立場は地に落ちただろう。

今までの理不尽な仕打ちを悔い、頭を下げてくれたのに、怒鳴り散らしてしまった。意地を張って、突き飛ばして、酷い言葉を沢山投げつけた。なのに助けてくれたなんて………

奴の本質なんて分かっている。クラブで助けられた時から分かっていた。

ーーー優しい人………

彼の奥底には計り知れない優しさが隠されている。

だから嫌いになれない。酷い男でも垣間見せる優しさに魅せられ憎みきれない。

安堵のため息と共に、ひと筋涙が頬を伝う。感謝の言葉を胸に目を瞑ると、すぐに睡魔は訪れた。



夕闇に落ちた部屋の中、目が覚めた。数時間前よりは熱も下がり、頭痛も軽くなっている。じっとりとかいた汗が気持ち悪くベッドから起き上がった。

………何時だろう?

カーテンの隙間から覗く外の景色は真っ暗だ。急な喉の渇きに襲われ、チェストに置かれたペットボトルを掴む。

橘が置いてくれたのかな………

日中には気づかなかったペットボトルの存在にも彼の優しさに触れるようで、ポッと心が温かくなった。

そろそろと立ち上がると多少フラつきはあるものの歩ける。扉に近づきドアノブを回し廊下に出ると思わぬ明るさに目がチカチカした。リビングと思しき扉をノックすると、中からバタバタと足音が聞こえ、直ぐに扉が内から開かれた。

「………大丈夫かよ?」

見上げた先に予想通りの人物を認め安堵する。

帰宅したばかりなのかネクタイを外しただけのワイシャツにスラックス姿で、エプロンをしている。

「夕飯作っていたの?」

「あぁ。卵がゆ作ってた。
そんな事より熱は?」

急に伸びて来た手に額を覆われ、心臓が高鳴る。

「熱は下がったみたいだな。気持ち悪かったりないか?もし、食べれそうだったら何か食べた方がいい。昨日の昼もほとんど食べていなかっただろ?もうすぐお粥出来るけど食べられそう?」

言葉の節々に散りばめられた優しい言葉が心を温めてくれる。

「………食べられると思う」

「そっか。良かった」

安堵の表情を浮かべ、ホッと息をつき目を細めて笑う、彼の自然な表情に目を丸くする。

ーーーあんな笑い方もするのか………

皮肉に満ちたニヒルな笑みではない、自然な笑顔の破壊力は想像以上だった。

熱は下がった筈なのに、頬がボボっと熱を持ち頭までポワンとしてくる。当たり前のように繋がれた手をジッと見つめていれば、優しく手を引かれリビングへと誘導されていた。

ーーーそう言えば、私昨日の服のまま。

仕事着のまま、他人様のベッドを占領していた事実に内心焦る。汗もたくさんかいたし、きっと服も汚れている。今の状態があまりに酷すぎて、彼の家にいる事でさえ申し訳なく思ってしまう。

「ねぇ。橘君………
残した仕事片付けてくれて本当にありがとう。あのまま終わらなかったら大変な事になってた」

「いや。責任の一端は俺にもあるし。それに、紙資料もきちんと区分けされていたからデータに書き出すだけだったし、何とかなったよ。データは確認してくれた?」

「えぇ。完璧な仕上がりに驚いたわ。新人の頃から教える事がないくらい完璧だったけど、さらに磨きが掛かってた。ただ、気を失ったと言っても、全てを任せてしまってごめんなさい。何から何まで、本当にありがとう。徹夜で仕上げてくれたんでしょ?あの量だもの、大変だったのは分かる。ごめんね。私のミスの尻拭いさせちゃって」

「いや。俺が全て悪い。鈴香を追いつめた俺が………」

それっきり一言も話さなくなった彼が俯き、静かな時間だけが流れていく。

「体調も落ち着いたし、これ以上迷惑かけられないし帰るね。このお礼は後日必ずするから」

重苦しい沈黙に耐えきれず繋がれていた手を引くと、反対に強く握られていた。まるで、離さないとでも言うように手を引かれ、彼の腕の中に収まってしまう。

「ちょっ!わ、わたし昨日の服のままだし、お風呂も入ってないし、汗もいっぱいかいて汚いし、離して………」

「黙って………」

焦りながら言った言葉に被せるように言われた言葉に心臓が高鳴る。決して怒鳴られた訳ではないのに、いつになく真剣味を帯びた声に、それ以上言葉を続ける事が出来なかった。

ーーー沈黙が落ちる………

抱き締める腕の力が強まり、彼の匂いに包まれ時間だけが過ぎていく。

「鈴香………
お願いだから、逃げずに聞いて欲しい」

ひとつ震えるため息を吐き出し、彼が話し出す。

「覚えているか分からないけど、昨日鈴香に言った事は全て本心だ。最初は、自尊心を満たす為だけに脅して、思い通りに出来ればそれで良かった。あの日、クリスマスイブの日………
鈴香の心に俺はいなかった。慣れないくせに俺を押し倒してまでsexしようとしたのは、元彼への想いからだよな?最後まで俺を通して元彼を見ていた鈴香に腹を立てた。俺は元彼の代わりでしかなかった。だから、脅してでも鈴香の心に俺を刻みつけたかった。ただ、こんなに深入りするつもりはなかった。鈴香の事を知れば知るほど深みにハマっていったのは俺の方だ。俺の脅しに最後まで屈しなかったよな。優位に立ったようで、最後には鈴香に負ける。その勝ち気な性格と一本筋の通った考え方や振る舞いに惹かれたのかもしれない。窮地に立たされても媚びずに立ち向かう精神に。
俺の周りには、顔でしか俺を見ない女かそんな俺に寄ってくる女目当ての奴等しかいなかった。旨味ばかりを求めて媚を売る仲間達に、俺を自分を引き立てる為のアクセサリーとしか考えていない女達。性格が悪かろうが、口が悪かろうが、考え方がクソだろうが奴らにとっては瑣末さまつな事で、俺の内面を見る奴なんて誰もいない。いつしか表面だけの浅い関係が楽になり、快楽が満たされればその場限りの関係で満足する。表面上の友と一夜限りの遊びに耽る。その方が後腐れなく、楽だと本気で思っていた。鈴香に出会うまでは………」

『橘真紘』という男は最低な部類のクズ男だと思う。
確かに、彼の周りには内面を見て深く付き合おうなんて思う奴はいないだろう。クラブに入り浸り、クズ仲間と女を漁り、一夜の享楽に耽る。そんな仲間達にとって『橘真紘』の存在は顔が良いだけの、獲物を誘き出すための餌でしかない。だからこそ、煽てて、媚を売り、機嫌を損なわぬよう万全を尽くす。そんな奴等の中に反感を買ってまで、彼に物申す者などいないだろう。まさしく裸の王様だ。それに気づいていながら、そんな奴等と徒党を組み、一時の快楽に耽る。頭の良い彼なら、それがいかに非生産的で無意味な時間か気づいていない訳がない。

では、何故彼はそうなってしまったのだろうか?

深い人付き合いを拒否する程の何かが過去にあったのだろうか?

『橘真紘』の精神世界で私の存在は異端分子そのものだ。脅されてなお刃向かおうとする私は、彼にとって忘れかけていた何かを呼び覚ますきっかけだった。だからこそ執着されたのかもしれない。

ただ、もう限界だった………

今さら彼が何を言おうとも、心を改めようとも手遅れだった。私の心に落とされた彼の言葉は、もう響かない。

「もうやめましょ………
貴方が私に執着するのは、思い通りにならないおもちゃを支配したいだけ。ただ、それだけよ。私が貴方に屈服した瞬間、興味を無くすような関係になんの意味もない」

「いや違う!確かに初めは反抗的な鈴香を屈服させて、俺の存在を認めさせたかった。でも今は違う。何をしていても、誰と一緒にいても考えるのは鈴香の事ばかり。自尊心がどうとか、勝ち負けがどうとか、そんなのどうでもいい‼︎会いたい、話したい、時間を共有したい、一緒にいたい、ただそれだけなんだ‼︎‼︎」
ーーー愛しているんだ………」

最後に言われた言葉が耳をすり抜けていく。

もう何も響かない………

「もう無理よ。全てが遅すぎた。
何を言われようと私の心には響かない。
終わりにしましょ」

強く回されていた腕の力が抜け離れていく。それを寂しいと感じる心に蓋をして言いつのる。

「貴方の愛って何かしらね?相手を追いつめて、壊してまで手に入れる愛を本当の愛と言えるのかしらね?貴方の愛は独り善がりでしかない。手に入らないおもちゃを欲し、癇癪を起こす子供と一緒よ。愛でもなんでもないわ………
もう限界なの。
お願いよ。解放して………」

俯き呟いた言葉は掠れていた。

「離したくない。でも、もう無理なんだな………」

頷いた瞬間、溢れ出した涙がパタパタと床へ落ちていく。

「………わかった」

その言葉を最後に『橘真紘』との恋人契約は終わりを迎えた。

ーーーは終わったのだ。







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