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第3章
スプーン攻防戦
しおりを挟む「ほらっ! アーンして。口開けないと食べられないだろ?」
なんなのよ、この羞恥地獄は!?
目の前に差し出されたフワフワ卵のオムレツがのったスプーンを見つめ、アイシャは羞恥で顔から火が出そうだった。
「あのぉ、キース様。スプーンなら左手でも扱えますので、付きっきりで食事のお世話をして頂かなくても大丈夫です。それに、先ほどまで居ました侍女はどちらに行かれましたの? それこそ、出来ない事は侍女にしてもらいます。キース様はご自分の準備をなさった方がよろしいかと」
行き場を無くしたスプーンが目の前でウロウロしているが、知った事ではない。ここで彼に退室してもらわねば、この羞恥地獄は終わらない。
ナイトレイ侯爵家での静養が、半ば強引に決まり、ゴロツキに襲われてから今の状況に至るまでの経緯を端的に説明すると、裏路地でアイシャを見つけたキースは、気絶した彼女をそのままナイトレイ侯爵家へ連れ帰り侍医に見せた。
大きな傷はなかったものの右手首を捻られたせいで、腫れと痛みが強く、その晩アイシャは熱を出した。高熱と襲われた恐怖心からか、心身共に大きなダメージを受けていたアイシャは、三日三晩意識が戻らなかった。そして今朝方、目が覚めたアイシャだったが、すぐに立ち上がるのは無理との判断で、寝ていたベッドの上で、甲斐甲斐しくキースからお世話を受けているのが、現在だ。
(先ほど紹介された私担当の侍女さんは何処に行かれたのでしょう?)
ワゴンに乗った豪華な朝食を運んで来てくれたのに、いつの間にか消えている。『未婚の男女を二人きりにするのは如何なものなの』というアイシャの切なる声は、ナイトレイ侯爵家の優秀な使用人の皆様には届かない。
「アイシャは優しいね。俺の仕事の心配をしてくれてるの? 騎士団に遅刻したらって」
「えぇ。最近、副団長補佐に昇進なさったと伺いまして、お忙しいのではありませんか? 準備しませんと、お仕事に遅刻しますわ」
「あぁ。それなら大丈夫だ。アイシャの怪我が治るまで付きっきりで面倒を見るように、団長からも副団長からも言われている。今の俺の任務はアイシャの世話をする事だ」
「はぁ?? 何ですかそれ? 騎士団にそんな任務あるわけ……」
アイシャは思い出してしまった。エイデン王国国軍のトップがナイトレイ侯爵で、副団長が剣の師匠ことルイス・マクレーン様だった事を。国の防衛を任されている騎士団のトップ二人が父と兄なら、そんなふざけた任務ですら作ることは容易い。
なんか、外堀ガッチリ埋められてないかしら?
「だから、あきらめてアーンして。ほらっ」
行き場を無くし彷徨っていたスプーンが口元に再度差し出される。そして、それを見たアイシャはと言うと、この攻防の敗北を悟り、大人しく口を開けたのだった。
(くそぉぉぉ……、笑顔が眩し過ぎる……)
顔を真っ赤に染めたアイシャと、愛しげに彼女を見つめ、せっせと口元に食事を運ぶキースの様子を少し開いた扉から覗く二つの影。彼女の専属侍女とナイトレイ侯爵夫人が、隣の部屋から初々しい二人の様子を覗き見していたなんて、アイシャだけが気づいていなかった。
♢
「アイシャ様、お召し物をお持ち致しました。湯浴みはまだ難しいのですが、お身体をお拭き致しますね」
先ほどまでアイシャの食事の世話を焼いていたキースと代わるように、紹介された侍女が着替えを手に部屋へと入って来た。
「ありがとうございます。でも、一人で着替えられますので、大丈夫ですよ」
「何を仰いますか。一人でなんて、危なくて着替えさせられません。お恥ずかしいとは思いますが、アイシャ様が意識がない間もずっとお世話をして参りましたのでご安心を。足元も覚束ないと思いますが、お食事も完食されましたし、少しずつ歩く練習もして行きましょう。先ずは、ベットに腰掛けるところからです」
アイシャは侍女の手を借り、ベットの縁に腰掛けてみる。バランスを崩さず座っていられたことにホッとしていたアイシャだったが、いざ立ち上がってみると、足に全く力が入らずバランスを崩しそうになる。なんとか侍女に支えられて、立てている状態だ。
(たった三日、寝たきりだっただけで、こんな状態になってしまうの!?)
「これでは、一人で着替えなんて無理ね。ごめんなさい、生意気言って。着替えをよろしくお願いします」
自分の非を認め、目の前で支えてくれている侍女に頭を下げるアイシャを見た彼女の目が、驚きで見開かれる。
「アイシャ様って……、素直な方なのですね。貴族の方は大抵、格下の者に謝罪など、されません。ましてや使用人に頭を下げるなんて事、普通しませんので驚きました。わたくし平民出身でして、職に付けず食べる物にも困っているところを奥様に拾って頂きました。ナイトレイ侯爵家の皆様は本当にお優しい方達ばかりで、高位貴族だからと言って、傲慢な態度を取られる事もない素晴らしい方達ばかりです」
そう言って、満面の笑みを浮かべる侍女の言葉にアイシャも頷く。
「そうね……、ナイトレイ侯爵家の皆様は、とてもお優しい方達ばかり。格下の伯爵家の娘だからって、傲慢な態度を取られたことはないわね。出来た方達ばかりよ」
「はい。そして、アイシャ様も」
「えっ? 私も?」
「そうです、アイシャ様も。キース様の大切な方の専属侍女に任命された時は、どんな方かと不安でしたが、さすがキース様がお選びになられたお方。心根がお優しいのですね。あっ! 失礼致しました。勝手にペラペラと……、申し訳ありません」
目の前の侍女が恐縮して、何度も頭を下げる。
「そんなにかしこまらないで。私もただの伯爵令嬢よ。ナイトレイ侯爵家の皆様の足元にも及ばない、一般的な貴族家の娘なの。だから普通に接してくれた方が嬉しいわ」
「アイシャ様、ありがとうございます。至らない点も多々有るかと思いますが、よろしくお願い致します」
「えぇ。こちらこそ、よろしくね」
専属侍女との初顔合わせも上手く行き、色々な攻防の末、身体だけは自分で拭き、真新しい部屋着へと着替えを済ませたアイシャは、専属侍女の手を借り、一人掛けのソファへと移動する。
「アイシャ様、こちらをどうぞ。ナイトレイ侯爵家お抱え侍医特製、マルッと痛みが軽くなるお薬でございます」
一人掛けソファに座ったアイシャに手渡されたのは、毒々しい色の液体が入ったコップ。それを見たアイシャの顔が引きつる。
「……こ、これ飲まなきゃダメかしら?」
コップに鼻を近づけ匂いを嗅いだ途端に、複数の薬草を混ぜたドギツイ臭気が鼻を刺す。
(無理ぃぃぃぃぃ、臭いよぉぉぉ……)
「ダメですよ! アイシャ様。キース様からも必ず飲ませるように仰せ使っております。キース様もお怪我をされた時に良く飲まれるとの事で効果は保証済みだとか。アイシャ様が拒否されるなら、口移しで飲ませるから言いなさいと申し遣っております。どうされますか?」
良い笑顔の侍女に詰め寄られ、逡巡の上、アイシャは覚悟を決める。
「謹んで、今すぐ飲みます」
鼻を摘んで飲んだら多少マシなはず!
覚悟を決めたアイシャは、一気に毒々しい色の薬をあおった。
うぅぅぅぅぅぅぅ、不味いぃぃぃぃぃ……
アイシャがしばらくの間、ソファの上で悶絶していたのは言うまでもない。そんなアイシャを横目に、テキパキと場を整えた侍女が、辞去の挨拶をする。
「では、アイシャ様、失礼致します。午後ですが、キース様が付きっきりで歩行練習をするとのことです。もちろん二人きりで。では、後ほどキース様と共に昼食をお持ち致しますので、それまで御ゆるりとお過ごし下さいませ」
キースと歩行練習?――――歩行練習……、二人きり!?
「えっ!? どう言うことですのぉぉぉ?」
アイシャの叫びは、無情にも閉められた扉に阻まれ、静かな部屋に響くのみだった。
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