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第3章
嫉妬【リアム視点】
しおりを挟む『今の私は貴方を信じてあげられない』か……
リアムは先を急ぎつつ、アイシャに告げられた最後の言葉を思い出していた。
自分から遠ざけるため起こした行動が、彼女を苦しめ、追いつめた。
何故、グレイスと婚約した時にアイシャに今回の計画を打ち明けなかったのだろう。ノア王太子に口止めされていたとはいえ、やり方はいくらでもあった。
(何も言わず婚約者候補を降りれば、アイシャが私に捨てられたと考えてもおかしくはないか……)
あの時、正直に全てを伝えていれば、彼女の心が離れてしまうことはなかったのだろうか。アイシャの愛を勝ち取った喜びが、己を愚かにした。何をしてもアイシャの心が離れることはないと高を括り、慢心してしまった。今さら後悔しても遅い。
『ごめんなさい』
あの言葉が全てを物語っていたのだろう。
(アイシャの心に私はもう居ない)
アイシャにずっと寄り添い、守って来たのはキースだ。彼女の心に居るのはキースなのだろう。
愛している……
アイシャを見るだけで燃え上がる狂おしいほどの想いは、今も心の中で燻り続けている。
気を失ったアイシャを大事そうに抱き上げたキース。『アイシャは私のものだ』と叫び出しそうになる気持ちを抑え、あの場を立ち去れたのは奇跡と言ってもいい。紛れもない嫉妬。ドス黒く濁った心から溢れ出しそうになる醜い感情は、キースに対する嫉妬心。
あの夜もそうだった。
バルコニーで楽しそうにダンスを踊るキースとアイシャを見つけた時に感じたのは、キースに対する紛れもない嫉妬心だった。
グレイスにキスを強請られ、彼女を油断させるため希望通りにするのが最善だと頭では分かっていた。しかし、アイシャ以外の女とキスをしなければならない現実に吐き気がした。纏わりつくように回された腕に、背筋を駆け上がる怖気。なんとか額への口づけだけで、その場を誤魔化すことに成功したわけだが、今思い出しても、あの女のどこか獲物を狙うヘビのような瞳に寒気が走る。
ノア王太子の言葉が甦る。
『アイシャの君に対する恋心は果たしてどれくらい深いものなんだろうね? 恋を知ったばかりのアイシャの気持ちを変えさせるのは、案外簡単かもしれないよ』
アイシャがたとえキースを愛していても、彼女が幸せな人生を歩むなら、それでいいじゃないか。キースならばアイシャの自由な生き方を理解し、支える事は容易いだろう。
彼女が幸せならそれでいい……
そのためにも、アイシャの敵となり得るグレイスとドンファン伯爵を潰さなければならない。今回の襲撃事件で確信した。グレイスは、アイシャに害なす者だ。生かしてはおけない。
あの女をこの世から葬り去るためにも、証拠を集めねばならない。そのために、裏界隈の元締めに接触し、あの男を信用させるだけの裏工作をしてきたのだ。ここで失敗するわけにはいかない。
アイシャの幸せのために。
♢
「これはこれは、リアム様。地下でボスがお待ちです」
リアムは裏路地にある一軒の酒屋の前へ来ていた。中から現れた屈強な男の案内で地下へと進む。石造りの狭い廊下には、所々に豪華なランプが置かれ、床にはビロードの絨毯が敷かれている。地下だとは思えないくらい豪華な内装を見るに、ここが特別な場所へと続く廊下だと言うことがわかる。
この廊下の先にいるであろう男のことを考え、身を引き締める。
「ボス、リアム様がいらっしゃいました。お通しして、よろしいですか?」
趣味の悪い豪華なだけの扉が中から開かれ、ハゲ頭の小太りな男が出てくる。格好だけは上等な絹を使ったシャツに仕立てのよいジャケットを合わせ、トラウザーズを履いているが、蛇のように絡みつく鋭い視線と口髭を生やした顔に残る傷痕が、この男が只者ではないことを表していた。
「おい! お前、リアム様はウェスト侯爵家のご子息様だぞ。もっと言葉に気をつけろ。俺達より格上のお方なんだぞ!」
小太りの男が、案内してきた男を容赦なく殴り飛ばす。その勢いで、床へと膝をついた案内人の口からわずかに血が滲んでいる。
(容赦のないことだ)
客人の前であろうと関係なく暴力を振るう姿は、目の前の男の残虐性を露わにしていた。
「リアム様、大変失礼致しました。わざわざ、こんな小汚い所までお越し頂き申し訳ありません。しかし、重要な話は、外に漏れると大事ですからね。ここなら外に漏れる心配もございませんからご安心を。おい! お前。呼ぶまで誰もここに近づけるな」
案内して来た男が、逃げるように部屋から退室する。豪奢なソファへ座るように促されたリアムは、テーブルに置かれたお茶を見て、笑みを深める。
(あれが、噂の……)
ボス自ら茶を入れるくらいだ。よっぽど、大切な商品なのだろう。
「リアム様、このお茶は珍しい物でして東方から取り寄せております。このお茶は普通に湯で溶けば、芳しい香を放つ甘みを持つお茶になりますが、茶葉を燻し専用の煙管を使い吸引すれば、たちまち心地良い夢が見れるとか。お香として使えば、閨の情事も……」
「ほぉぉ、それが例の代物か?」
「はい……、常習性も有りますゆえ、広め方次第では莫大な富を生むことになります。あぁ、もちろんお茶として飲む分には常習性は有りませんので、ご安心を」
目の前に置かれた茶器を手に持ち、グイッと飲めば甘い香りが鼻腔を抜けていく。このお茶の危険性もわかっている。しかし、目の前の男を信用させるためには、多少の危険な橋は渡らねばならない。
「この茶葉の事は、ドンファン伯爵は知っているのか?」
「いいえ。ドンファン伯爵様はご存知ありません。わたくしも将来の事を考え、取り引きをする貴族様は考えておりましてね。今やドンファン伯爵家の影の支配者はグレイス様です。そのグレイス様がウェスト侯爵家へ嫁ぐとあれば、自ずと私達がお付き合いする貴族家も変わるかと。ウェスト侯爵家様の後ろ盾があれば組織を更に大きく出来ます。しかもリアム様はノア王太子殿下の側近。将来は明るいかと」
「お前もよく分かっているではないか。確かにドンファン伯爵家の下にいても旨味は少ないだろう。ウェスト侯爵家の力を利用すれば、あらゆる貴族家に影響を与えることが出来る。お前の懐も潤うだろう。しかし、私はドンファン伯爵ほど甘くはない。グレイスがウェスト侯爵家へ嫁いでこようとも、彼女の好きにさせるつもりはない。言っている意味はわかるな? お前と今後も手を組むかどうかは、お前の働き次第と言う事だ」
「――――と言いますと? わたくしに何をさせようとお思いで?」
「いや、簡単な話さ。私はドンファン伯爵とグレイスの弱みを手に入れておきたい。今後、結婚するにあたり義父にも、グレイスにも、大きな顔はされたくないのでね。彼等の弱みを掴んでおけば、彼等も大きな顔は出来まい」
「しかし、侯爵家は伯爵家より格上。彼等の弱みを握らなくとも、二人を支配する事は可能では有りませんか?」
「お前はバカなのか? 私が支配したいと考えているのはドンファン伯爵の持つ裏の顔だ。何故お前と接触していると思う? 裏を支配するには、ドンファン伯爵と実質的な支配者であるグレイスを掌握しなければ、後々面倒な事になるだろう。お前も、後々ドンファン伯爵に出しゃばられても、困るだろうが」
「ははは、そりゃそうですねぇ~。では、リアム様はどんな情報をお知りになりたいのですか? 未来のボスには惜しみませんよ」
目の前に座る男の口角が吊り上がる。
「物分かりのいい部下は実に良い。そうだなぁ……、グレイスが巷で『白き魔女』と言われているのは知っているな? しかし、彼女のさきよみの力は偽物だろう?」
男の目が驚きで見開かれ、眼光鋭く睨まれる。
「リアム様は、何処までご存知なのですか?」
「お前達が、グレイスの行った予知を実現させるために、協力していると言う事は調査済みだ」
「まさか!? あれは絶対に証拠が表に出ないように管理してあるはず……」
「あぁ、私達も証拠までは突き止めていない。しかし、グレイスを黙らせるには、その証拠を突きつけねば難しいだろうなぁ。証拠がなければ言い逃れは可能だからな。お前達も気付いているのではないか? 今の予知ではいずれグレイスが偽物だとバレると言う事を」
目の前の男の顔が、苦虫を噛み潰したように歪む。この男もわかっているのだ。このままドンファン伯爵の下についているだけでは、自分自身が破滅すると。それだけ、グレイスの予知は危うい橋を渡っている。
「ここだけの話だが……、ノア王太子はグレイスが白き魔女では無いと考えている。しかしウェスト侯爵家がバックにつけば、今以上に大規模な予知も実現可能になる。だが、グレイスが出しゃばれば、それも上手く行くか分からない。あの女は自身の欲を満たす事しか頭にないからな。今後、あの女を自由に操る為にも、グレイスの予知が偽物である証拠は握っておきたい。後は、今までのドンファン伯爵の裏の顔を示す証拠があれば、ドンファン伯爵も掌握可能と言う訳だ」
「しかし……」
リアムの言葉を受けても、まだ逡巡している男に、悪魔の囁きを落とす。
「お前は、グレイスとドンファン伯爵を支配する立場を手に入れたいとは思わないのか? 今まで顎で使われて来た立場が逆転するのは、さぞかし気分が良いだろうなぁ。誰の下につくべきか、よく考える事だ」
男の顔が愉悦に歪む。
余程、あの二人に良いようにコキ扱われて来たのだろう。裏界隈の元締めと言えども所詮は平民。貴族にとっては顎で使える便利屋、要らなくなればゴミのように切り捨てられる存在だ。
リアムの誘いは目の前の男にとって、口内に残る甘いこのお茶のように、甘美で魅惑的な麻薬だろう。
しかし、麻薬は甘美だが毒にもなる。
「あぁ、ひとつ言い忘れた。ウェスト侯爵家の裏の顔は、ドンファン伯爵の比ではない。選択を間違えれば、ドンファン伯爵諸共、消える事になると夢夢忘れるなよ。次に会う時には、良い交渉が出来る事を楽しみにしている」
ゴクリっと、目の前の男の喉が嚥下するのを確認し、リアムは立ち上がる。ティーセットが置かれたチェストまでゆっくりと歩き、チェストの上から白磁に青の複雑な紋様が描かれた茶壺を手に取り振り向く。
「そうそう。この甘美な茶葉……、もらって行くがよいかな?」
「えぇ。是非お持ちください」
リアムは茶葉の入った豪奢な壺を手に取り、扉へと向かい歩く。
「これも貴族の間で取り合いになるだろう。楽しみなことだ……」
扉を開け外に出る直前、男の含み笑いを微かに聞き取ったリアムは、黒い笑みを浮かべ後ろ手に扉を閉じた。
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