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第3章
波乱の社交界
しおりを挟む『あれって、リンベル伯爵家のアイシャ様よねぇ。よく夜会に顔出せますわねぇ』
『恥ずかしくないのかしら』
『だってアバズレ女でしょ。きっと羞恥心がないのよ。あぁぁ、お可哀想に。キース様、あんな女に騙されて』
夜会会場のそこかしこから聞こえてくる誹謗中傷に耳を塞ぎたくもなる。しかし、ここで萎縮しているわけにはいかない。アイシャは、前だけを見据え、なんとか耐える。
「アイシャ、大丈夫? 周りの声は気にしなくていいよ。陰でコソコソと悪口を言うしか能がない奴等など放っておけばいい」
キースの腕に添えたアイシャの手が、安心させるかのように優しく握られる。その温かさに、冷え切った心がわずかに温かくなるような気がして、萎縮しそうになる心も軽くなる。
「ありがとうございます、キース様。そう言ってもらえて少し気が楽になりましたわ」
「そう、よかったよ。でも、無理はしないで。辛くなったら、すぐ言ってくれ」
「では、一つお願いを聞いてくれますか? ノア王太子殿下とアナベル様に挨拶をしたら、わたくし帰ってもよろしいですか? もちろんキース様は、この後も夜会を楽しんでくださいませ。わたくし、一人で帰れますから」
「それは許可出来ない相談だな。アイシャを一人で帰すなんて、するわけないだろう。もちろん俺が、リンベル伯爵家まで送り届けるよ。ノア王太子殿下へ挨拶が終わったら帰ろうと言いたいところだけど、一曲だけアイシャと踊りたいな。貴方がデビューした夜会で一緒に踊ったことが忘れられないんだ。お願いを聞いてくれたら、ダンス後、直ぐに帰ってあげる」
アイシャを見つめウィンクをするキースを見て、アイシャも楽しくなる。
(キースって、こんなにお茶目だったのね)
萎縮して身動きが取れなくなりそうなアイシャを気づかって紡がれる言葉の数々に癒される。このまま、挨拶だけして帰れば、アイシャは何も変われない。もしかしたら、本当に社交界に復帰出来なくなってしまうかもしれない。キースの言葉の裏に隠された優しさが、今のアイシャにはありがたかった。
「ふふふ……、キース様って意外と面白い方なのね。えぇ。一曲お相手致しますわ」
「良かった。貴方が笑ってくれて。アイシャとダンスを踊るためにも、さっさと挨拶を終わらせてしまおう」
気合いを入れ直したアイシャは、キースにエスコートされ、ノア王太子とアナベルが待つ、上座へと歩みを進めた。
♢
「この度は、リンゼン侯爵家アナベル様とのご婚約、誠におめでとうございます」
壇上にいるノア王太子とアナベル様に向かいキースが口上をのべ、アイシャも彼にならい二人一緒に礼を取る。
「キースとアイシャ。今日は来てくれて嬉しいよ。アイシャには久しく会っていなかったね。元気だったかい?」
「えぇ。少し体調を崩しまして、家でゆっくり過ごしておりましたが、今は体調も戻り外出も出来るようになりました。ノア王太子殿下、アナベル様、ご婚約おめでとうございます」
心配そうにアイシャを見つめるアナベルに、心からの祝福を贈る。
(本当におめでとう、アナベル様)
長年の恋心が成就して本当に良かったと、心の中で祝福を贈ると、アナベルと目が合い、幸せそうな笑みを浮かべてくれる。最後に会った時よりも、更に美しく気品あふれる女性となったアナベルを見て思う。
美しく強い女性へとアナベルが変わったのは、ノア王太子に愛されているという絶対的自信からだろう。反対に、愛する人に裏切られた悲しみから弱い女へと変貌してしまうこともある。
恋の力は人を強くも、弱くもする。
(今の私には、アナベル様の笑顔はまぶしすぎる)
アナベルの幸せを一緒に喜べない自分の感情を自覚してしまい、アイシャの心が暗く澱んでいく。幸せそうに微笑み合う二人を見るのも辛くなってきた頃、キースに促され、その場を後にしたアイシャは、その足でバルコニーへと連れ出された。
キースに促され、バルコニーに備え付けのベンチへと座れば、心地よい風がアイシャの髪を揺らす。会場内の喧騒が嘘かのように、静かな時間が流れていく。
「アイシャ、大丈夫かい? やっぱりノア王太子殿下の幸せそうな姿を見ると辛くなってしまうかな?」
「えっ? ノア王太子殿下ですか??」
「あぁ。二人の幸せそうな姿を見て、一瞬辛そうな顔をしたからね。アイシャはノア王太子殿下のことが好きだったのかな?」
「えっ? キース様、誤解ですわ。わたくし、ノア王太子殿下のことは、これっぽっちも好きではありません。むしろ苦手と言いますか……、これでは殿下に対して不敬ですわね」
「では、なぜ辛そうにしていたの? アイシャが辛そうだと、俺も辛いんだ。話せば少し楽になることもあるよ。無理にとは言わないけど」
「美しく強い女性へと変わったアナベル様の姿を見て、恋は人を強くも弱くもするものだと実感しましたの。今の私にはアナベル様は眩し過ぎて、見ているのが辛かったのです」
「それは、アイシャが誰かに恋をしているからそう感じたの?」
誰かに恋をしているか……
リアムのことを思い出し、アイシャの胸がズキズキと痛み出す。
叶わない恋心。
リアムと過ごした日々が、走馬灯のように脳内を巡り、その思い出があまりにも眩しくて、涙があふれそうになる。こぼれ落ちそうになる涙を耐え笑みを浮かべると、隣に座ったキースに向き直り、言葉を紡ぐ。
「――――いいえ。そんな人、いませんわ」
「そう……、そんな相手忘れて仕舞えばいい」
横に座ったキースが、アイシャを抱き寄せる。
「今は、その男の身代わりでも構わない。俺といる事で、貴方の気持ちが少しでも楽になるなら、俺を身代わりにすればいい。ただ、いつかアイシャの気持ちが俺に向いてくれたら嬉しい。それまで、ずっと側にいるから。一人で抱え込まないで、俺に寄り掛かっていいんだ。アイシャの辛さを、俺にも分けて」
キースが宥めるように額へとキスを落とし、アイシャの瞳を見つめる。
キースは気づいているのだ。アイシャの心に居座る男の存在を。それでも、その男を忘れるために、キースを利用しろという。
(もう……、一人で泣かなくてもいい。キースに寄りかかってもいいんだ。リアムを忘れるために……)
ただただ、嬉しかった。キースの優しさが何よりも嬉しかった。
「最初の約束。俺とダンスを踊ってくれますか姫?」
アイシャの前に跪いたキースが、手を差し伸べる。その手に手を重ね立ち上がれば、力強い腕に腰を抱かれ、回り出す。
「ふふふ、姫だなんて、可笑しなキース様。喜んで、お相手しますわ」
ゆっくりとしたワルツが誰もいないバルコニーに流れ込み、音楽に合わせてクルクルと回る。誰もいないバルコニーで、人目も気にせず踊るダンスは、思いの外楽しかった。彼のリードに体を預け、ステップを踏みながらクルクルと回るのは、まるで宙を舞っているかのように軽い。
だから、周りを見る余裕もあったのだろう。
「――――っ!!」
バルコニーから階下の庭園で抱き合うカップル。ピンクブロンドの髪の可愛らしい女性を見つめ、口づけを落とす赤髪の男性。
一瞬でリアムだと分かってしまった。
あまりの衝撃にステップを踏み間違え、足をもつれさせる。倒れる寸前のところをキースに抱き留められるが、何も言葉が出てこない。
「アイシャ大丈夫か!?」
キースの腕に抱かれ、激しく混乱したアイシャは涙を止めることが出来ない。胸へ顔を埋め、泣きじゃくるアイシャを抱き上げたキースが、早足にその場を後にする。
「アイシャ、帰ろう。これ以上、貴方が傷つくのを見ていたくない」
泣きじゃくるアイシャを胸に抱き、その場を後にしたキースを興味津々と見つめ、囁き合う人々の声も耳に入らないほどアイシャの頭の中は混乱していた。
(リアムが、他の女とキスをしていた……)
ドス黒い感情がアイシャの心を支配していく。あの二人の幸せを願えるほど、アイシャの心は広くない。
(この感情を何処へぶつければ、楽になれるの? リアムは私のものだと、あの女に叫べば気が済むの?)
ただ涙を流すことしか出来ない己の不甲斐なさが一番辛かった。
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