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第3章
不穏な噂
しおりを挟むノア王太子と過ごす一週間は、何事もなく穏やかに過ぎていった。
アナベルを伴った初日から昨日までの六日間は、薔薇が咲き誇る庭園の四阿で和やかなお茶会が開かれた。そして、そこには毎回アナベルが同席していた。
初日にノア王太子の元へ彼女を置き去りにしたのが良かったのか、日に日に二人の仲は良い方向へと変わっていった。
ノア王太子を見つめ、頬を染めるアナベルと、そんな彼女を優しげに見つめるノア王太子。
『私、ここにいない方が……』と思うこと数十回、急速に仲を縮めていく二人に、お尻がムズムズする思いだった。アナベルの想いはきっとノア王太子に届いたのだろう。
今日であの二人のイチャイチャぶりを拝めるのも最後かと思うと何だか寂しいような気もする。
そんな事を考えながらアイシャは、いつもの庭園に向け歩みを進めた。
♢
「あのぉ、今日はアナベル様はいらっしゃらないのですか?」
庭園の四阿に到着したアイシャは、椅子に腰掛け優雅にお茶を飲んでいる人物が、ノア王太子のみという光景に問いかける。
「ふふ……、アイシャは相変わらず私と二人きりは嫌なんだね。アナベルには遠慮してもらったよ。最終日くらいアイシャと二人で話したいと思ってね」
「はぁ、左様でございますか」
「そんな怯えなくても大丈夫だよ。取って喰おうってわけじゃないんだし。座って」
思わぬ展開に引きつりそうになる顔を引き締め、出来るだけ自然に見えるように椅子に腰掛ける。
(ノア王太子とアナベル様は良い雰囲気だったのよ。今さら私にちょっかいをかけることは絶対にない)
でも、怖いものは怖いのだ。
逃げ出したい気持ちを抑え、必死に笑みを作る。そんなアイシャをよそに、ノアはというと、足を組み優雅にお茶を飲んでいる。実にリラックスした態度をとるノアを見て、自分だけが緊張しているのも、馬鹿らしくなっきた頃、やっとノアが話しかけてきた。
「アイシャには、感謝しているんだよ」
「えっ? 何をですか?」
ノア王太子に感謝されるような事をした覚えがないアイシャは、首を傾げる。
「アナベルとのことだよ。近々、彼女と正式に婚約を結ぶことになる。様々な貴族界の力関係を考えると、アナベルとの婚約が一番自然だからね」
「アナベル様と婚約を!! それはまた、おめでとうございます」
アナベルをノア王太子にけしかけた手前、アナベルの恋が実ったことが、自分のことのように嬉しい。
(アナベル様! 本当によかったですね。長年の恋心が実って)
心の中で、アナベルへ祝福を贈れば、自然とアイシャの顔にも笑みが浮かぶ。
「――――嬉しそうだね。やはり、アイシャは婚約のことを聞いても、何も思わないか」
「えっ? はぁ、まぁ。わたくしには、ノア王太子殿下の妃は荷が重いと言いますか……。殿下もご存知かと思いますが、わたくしは今まで自分の欲望のまま、自由気ままに生きて参りました。そんなわたくしに民の幸せを想い行動する王家の義務を全う出来るとは思えません。わたくしが王太子妃になったが最期、悪妻として殿下の治世にも悪影響を及ぼすでしょう」
「王太子妃なんて、そんな大したものではないのだけどね。アイシャの気持ちが、昔から私にないのはわかっていたよ。どちらかというと苦手だったんじゃないかな?」
「はは、まさかぁ……」
図星を刺され、アイシャの口から乾いた笑いがもれる。
流石に王太子の御前で、本音をぶち撒けるほど、神経図太くない。ノア王太子がジト目で睨んでいるが無視だ。
「まぁ、いいや。アイシャに感謝していると言ったのは、アナベルとのことだよ。実は昔から、アナベルの事が苦手でね、あの娘は父王の妹君が母親なんだよ。そんな関係もあって幼少期から王太子妃候補として王城によく来ていた。昔から聡明な人でね、初めて会った時、あの落ち着いた雰囲気に、当時の私は気圧されてしまったんだ」
確かに、あの凛とした雰囲気は、冷たく硬質に感じる人もいるだろう。アナベルとの出会いが、夜会で叱責されるという珍事件から始まったアイシャにとっては、アナベルが冷たい人間だとは思わないが、見る人によっては、近寄りがたく感じるのかもしれない。
(アナベル様は、どちらかというと情熱的なタイプだと思うんだけどなぁ。まぁ、捉え方は人それぞれか)
「侯爵令嬢という立場上、感情を面に出すことが出来なかっただけではありませんか。私から見たアナベル様は、とても感情豊かな方かと思います」
「そうだね。アイシャに連れられお茶会に来た時に、私も認識を改めたよ。アナベルは、年相応の可愛らしい令嬢だった。確かに彼女の聡明さと努力を惜しまない姿勢は賞賛に値するほど素晴らしいものだ。しかし、久々に会った彼女は、型にハマった令嬢ではなくなっていた。自分の考えを持ち、私に対しても物怖じせず意見出来る、強い女性へと変わっていた。きっと、アイシャとの出会いが、彼女を変えたんだろうね」
目の前のノア王太子は、優しそうな笑みを浮かべ、アナベルとの思い出を語っている。それが、あまりに幸せそうな笑みだったので、こちらの方がドギマギしてしまう。
(アナベル様とのことを、惚気られているのよねぇ……、明日、槍でも降らないといいけど)
元々アナベルとノア王太子が結ばれれば良いと考えていたアイシャにとって、二人の仲が良いことは喜ばしいが、幸せそうに惚気るノア王太子の変貌ぶりに、若干引いてしまう。
「――――という訳で、私はアナベルと婚約することになると思うけど、アイシャはリアムとキース、どちらと婚約するつもりなの?」
「えっ!? 何も聞いておられませんか?」
「何が、かな?」
ノア王太子が発した言葉の違和感に、アイシャの心がざわつく。
リアムは、ノア王太子と話をつけたのではなかったのか。当人同士で話をつけた方が、上手くいくと言っていたが、ノア王太子の今の会話から推察するに、リアムと話し合った雰囲気はない。
(リアムと婚約する話が伝わっていない?)
「その内わかる事ですのでお伝えしますが、わたくし、リアム様からの求婚を受けることに致しました」
「それは、アイシャがリアムを好きになったと受け取っていいのかな?」
「――――はい。今回の婚約話に関しては、誰を選ぶかはわたくしの一存と聞いております。両親からもわたくしが良いと思う方と婚約しなさいと言われました」
「そうだね。アイシャの気持ち次第だ」
「皆さまと過ごした一週間。リアム様と過ごしたことで、彼のことを昔から好きだったのだと、気づきました。許されるのであれば、リアム様の元へ嫁ぎたいと考えております。どうかリアム様との結婚を王家として、許しては頂けないでしょうか」
「アイシャは知っているのかい? 貴方とリアムの結婚に関して王家の許可は必要ないよ。私は既にアイシャの婚約者候補を降りているからね。婚約者候補でない者の許可は必要ない。後はナイトレイ侯爵家が認めるか、キースがアイシャの婚約者候補を降りれば、二人は結婚出来るよ」
「そうなのですか……、では、ナイトレイ侯爵家に許可を頂ければ、リアム様と結婚出来るのですね」
ノア王太子という大きな山をひとつ越え、ホッとしていたアイシャの耳に不穏な言葉が告げられる。
「しかし、ナイトレイ侯爵家との事は別として、アイシャとリアムの婚約はそう簡単に結べないと思うよ。風の噂で聞いたのだが、ドンファン伯爵家のグレイス嬢とリアムが、近々婚約を発表すると」
「えっ!? そんな噂……、ありえない。一週間前にリアム様と婚約を約束したのです。何かの間違いでは有りませんか?」
「いやぁ~、詳しいことは分からないが……、アイシャはグレイス嬢の噂を知っているかい?」
「――――グレイス嬢の噂?」
「あぁ、グレイス嬢が『白き魔女』の力を持つと、社交界で流れている噂だよ。『白き魔女の恩恵を受けし伴侶は世界の覇者になる』この国に昔から伝わる伝承は知っているかな?」
「えぇ、まぁ。ただ、それは御伽噺ですよね。『白き魔女』も物語りの中の存在だとばかり思っていましたが……」
「その白き魔女が本当に復活したとしたらどうなるだろう。権力欲の強い貴族が、グレイス嬢を手に入れるため、動いてもおかしくない」
「確かに……、しかし、それとリアム様との婚約に何の関係が?」
「ウェスト侯爵は、宰相を務める国の重鎮だ。すこぶる頭の切れる男でもある。先手を打つため、リアムをグレイス嬢の婚約者としてドンファン伯爵家へ打診するなんて、ありえる話さ。特に権力欲の強い侯爵ならやりそうなことだ。アイシャとの婚約話は、社交界に正式に発表されたわけではないだろう?」
事の重大さに唖然としてしまい、言葉が出て来ない。
「嘘でしょ……」
「直ぐにリアムに確認した方がいい。別れるにしても傷は浅い方がいいからね」
ノア王太子の言葉が、アイシャの頭の中をくるくると回る。
(本当にリアムは、グレイス嬢と婚約するの?)
船上でリアムと婚約の約束をしたのは、たった一週間前のことなのだ。何かの間違いに決まっている。
間違いであって欲しいと思う気持ちとは裏腹に、嫌な予感が頭の中で警鐘を鳴らす。
両親に早くリアムとの婚約を伝えなくてはならない。彼からは、まだ伝えてはダメだと言われているが、今はそんな事を言っている場合ではない。
アイシャは流行る気持ちを抑え、ノア王太子への挨拶もそこそこに、その場を去ると、リンベル伯爵家へと馬車を走らせた。
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