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あの鳥のように
しおりを挟む「吉原随一の大見世『玉屋』の『雛菊花魁』、お練り~」
シャンシャンと金棒を鳴らし提灯を提げた男衆のかけ声が仲見世通りに響くたび、観衆からは大きな歓声があがる。
八朔(八月一日)は、江戸においてとても重要な意味を持つ。徳川家康が初入府した日とされた八月朔日は、諸大名が白帷子に長袴姿で将軍と謁見する重要な日だ。
江戸吉原でも、その行事にならい花魁が絢爛豪華な白無垢を着て道中をするのが慣わしとなっていた。
死ぬまで廓の外に出られぬ遊女にとって白無垢とは叶わぬ夢そのもの。好いた男とは一緒になれぬ悲しみを白無垢に重ね、想いを押し殺し歩く花魁道中の、なんと儚くも美しいことか。
白無垢姿の花魁の儚げな美しさを求め、八朔の紋日はいっとう吉原が賑わう。
シャンシャンと金棒が鳴り響く中、ゆっくりと歩みを進める雛菊の心は観衆が賑わえば賑わうほど沈んでいく。菊の川を鶴が舞う豪華な白打ち掛けを身に纏った雛菊は、ただじっと前だけを見据え高下駄を前へと進める。金棒が鳴る度に、心を奮い立たせなければ歩みを進められない。それほどまでに雛菊の心は沈んでいた。
この花魁道中を最後に雛菊は宗介との縁を切り、銀次と夫婦になる。
八朔の紋日に合わせ行われた雛菊最後の花魁道中は、宗介から二人への餞でもあった。
今日のこの日まで幾度となく心に言い聞かせてきた言葉を頭の中で繰り返す。
銀次と夫婦になることが最善で幸せなことなのだ。好いた人と夫婦になれる。遊女にとって、これ以上の幸せはないのだと。
しかし、そう心に言い聞かせれば聞かせるほど、雛菊の心は死んでいく。
高下駄を履いた足を一歩踏み出すごとに心が死んでいく。茶屋までの道のりは、吉原遊廓へと売られた幼き頃を思い出させる。廓という牢獄に売られ、人としての自由を奪われたあの日の幼い雛菊と今の自分が重なり消えていった。
(結局、あっちは自由な鳥にはなれんかった)
足が止まり、ふと見上げた空には、どこまでも続く青が広がっている。
(花魁になっても、自由な世界は広がってはいやせんしたね)
「あっちは、鳥にはなれんかった……」
どこまでも続く青い空に、鷹が一羽くるくると回転しながら飛んでいる。羽を大きく広げ飛ぶ姿は雄壮でいて、優美だ。
ぼんやりと抜けるような青空を見上げ、飛ぶ鳥を羨ましいと感じた一瞬、甲高い鷹の鳴き声が空一面に響き渡り、雛菊の心臓を震わせた。
鷹は決して自由な鳥ではない。捕まり、餌付けをされ、狩猟に使われる。まるで金で買われた遊女と同じように……
あの鷹は、そんな生活から逃げ出し、大空に飛び出したのだろうか。
あの自由な空へと、己の意思で。
吉原一の花魁が見る世界は、きっとあの鷹のように自由な世界が広がっている。
幼き頃に夢見た世界は、まだ終わっちゃいない。
夢を見られない世界など、こっちから願い下げだ。心のおもむくままに、夢を叶えたっていいじゃないか。
『吉原一の花魁には、殿様だって逆らえねぇ。百姓出の女だって、自分の力だけで、この世の頂点にだって立てる。それが、ここ吉原遊郭さ』
脳裏に浮かんだざんばら髪の童の顔が宗介の顔へと変わっていく。
あの人が誰かなんて関係ない。あの人が銀さんだろうとなかろうと、今、あっちの心には宗介さまがいる。宗介さまがいるのだ。
だったら何を迷うことがあるのだろうか。
あっちは、吉原一の花魁、雛菊でありんす。殿様だとて、あっちには逆らえない。
「覚悟しんなんし、宗介さま」
男衆の肩へと置いた手をくっと押し、雛菊は高下駄を踏み出す。決意を宿した目をして歩みを進める雛菊の顔には美しい笑みが浮かんでいた。
♢
「銀さん、申し訳ありません」
花魁道中を終え、座敷へと通された雛菊は入るやいなや畳へと両手をつき頭を下げる。
「雛菊、それは何に対する謝罪だい?」
二つ並べられた祝いの膳を前に、羽織袴姿で雛菊を待っていた銀次の抑揚のない声が静かな部屋へと響く。
「あっちは、銀さんの妻にはなりんせん。今さら、こんなことを言い出すなんざ許されることではありんせん。でも……、でも、あっちの心に嘘はつけんせん。どうか、どうかお願いです。今回のお話、なかったことにしてはくださりませんか」
畳に額を擦りつけ、雛菊は馬鹿正直に謝罪の言葉を繰り返す。
もう自分の心に嘘はつかないと決めた。
「宗介様を好いとうです。宗介様でなければ、あっちは……、あっちは満たされない……」
沈黙が落ちる。
一秒、一分と時間だけが過ぎ、そして静かな部屋に一つため息がこぼれた。
「……、それが雛菊の答えなのですね」
銀次の声に、弾かれたように顔をあげた雛菊が見たものは、あきらめにも似た笑みを浮かべた銀次の優しい笑顔だった。
「雛菊、行きなさい。宗介は二階の奥の部屋でお前を待っているよ」
雛菊は銀次の言葉に息をのみ、深々と頭を下げる。
「銀さん、ほんに、ほんに、ありがとうござりんした」
あっちの初恋。
銀さん、ほんに、おさらばえ。
雛菊の心の中から銀次が消えていく。初恋が消える一瞬、雛菊は今までの感謝を込め、銀次へと最上級の笑みを浮かべる。
「雛菊……、吉原一の花魁になったね。はよ行きなされ」
銀次の言葉に弾かれたように立ち上がった雛菊は、着物の裾が乱れるのも気にせず、愛しい宗介の元へと駆け出した。
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