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散り散りなる想い
しおりを挟む「銀さん、ほんにありがとうござりんした」
刃傷事件解決から数日後、雛菊はお礼も兼ね、宗介と銀次を玉屋へと招待した。玉屋の誇る最上級の座敷へと案内された銀次はなんとも言えず居心地が悪そうだ。実家でもある玉屋で、もてなされる側になるとは想像もしていなかったことだろう。
「なんだか、変な感じですね。もてなされる側で玉屋に来ることになるとは思ってもみませんでした」
「ふふふ、今日は人払いもしてござりんす。のんびり羽を伸ばしておくんなんし」
錦糸で刺繍された豪華な座布団の上に座った銀次へ一礼し、にじり寄った雛菊は黒漆の盃に酒を注ぐ。目の前のお膳には、刺身に、鴨の煮付け、蛸の酢の物と、見た目も華やかな料理が並ぶ。
今日の宴席はすべて雛菊持ちだ。銀次の協力がなければ、高尾花魁とのいざこざを、すんなりとは解決できなかった。銀次には何の得もなかったというのに協力してくれた。せめてものお礼をと、雛菊は今回の酒宴を計画したのだ。
「ところで、宗介はまだ来ていないのですか?」
「あい。先ほど遣いの者が来まして、一刻ほど遅れるとか」
「そうかい。では、先に始めさせてもらいましょう」
手に持った盃を口につけると、銀次はクイっと一気に飲み干す。
「一流の花魁に注いでもらう酒のなんと上手いことか。この宴席は全て雛菊が用意を?」
「あい。せめてものお礼でやす」
「あの小さかった雛菊が、自ら豪勢な宴席を催せるほど出世するなんて、あの頃の私は想像もしていなかった。よくがんばったね」
労うような銀次の言葉に雛菊の目に薄ら涙が浮かぶ。銀次への想いが雛菊を強くし、花開かせた。銀次がいなければ、今の雛菊はいなかった。
初恋は敗れたが、雛菊の心は温かな感情に満たされている。感謝という名の温かな感情が。
(銀さんを前に、こんなに穏やかな気持ちでいられんのは宗介様のおかげでありんすな)
今はいない宗介の気障な笑みを思い出し、雛菊の顔に自然と笑みが浮かぶ。
「あの頃のあっちは生きるのに必死で野良猫のようでありんした。地獄のような下級楼閣から救い出してもらい教養までつけてもらいんした。玉屋の楼主さまに掛け合ってくれたのも銀さんでありんしょう?」
「そんなこともあったね。でも、一流の花魁にまで登りつめたのは雛菊、君の努力だよ。私はきっかけを作ったに過ぎない」
「それでも、感謝しております。あっちにとって銀さんは命の恩人でありんすから」
雛菊は畳に手をつき深々と頭を下げる。
「――命の恩人か……、その認識が間違っていてもかい?」
銀次が発した呟きに雛菊は思わず顔をあげる。
「……認識が、間違っている?」
「あぁ、何でもないよ。そんなことより、今日は雛菊に大事な話をしようと思ってね。近々、玉屋に帰って来ようかと考えているんだ」
雛菊の問いを遮るように言われた言葉に、頭に浮かんだ疑問も消えてなくなる。
「えっ? 玉屋へ……、それは休暇ということでしょうか?」
「いいや、違うよ。前々から後を継ぐようにせっつかれていてね。高尾花魁のこともあって、そろそろ潮時かな、とね」
「そ、それは……、あっちが協力を申し出たから、沖ノ屋に居ずらくなって……」
「違う、違う。元々、今年いっぱいで沖ノ屋は辞めるつもりだったんだよ。雛菊に協力したのは、こちらにも利があったからさ。沖ノ屋の楼主も高尾花魁の扱いに手を焼いていたからね、丁度良かったんだよ」
「はぁ、そうでやすか」
高尾花魁は、あの事件の後、全ての罪を認め出頭したという。今後、刃傷事件の仔細に関しては役人の預かりになる。罪がどう裁かれるかはわからないが、宗介の見立てでは、軽い刑にはならないだろうとのことだ。黒幕が捕まり一応の幕引きを迎えた刃傷事件だが、雛菊の心にはやるせ無さだけが残った。
「まぁ、雛菊が気に病むことではないよ。高尾もわかっているさ。身から出た錆。自業自得って奴さな」
突き放した物言いをする銀次もまた、身内だっただけに思うところがあるのかもしれない。お互いに終わったことと割り切らねば、やり切れない。それが吉原遊女の世界。銀次はそんな世界を裏方からずっと見てきた。だからこそ、落ち込む雛菊へも厳しいことを言うのかもしれない。後ろめたさを感じ立ち止まれば、次に転げ落ちるのはお前だぞ、と。
「前を向かんといかんでありんすね。前を向かんと」
しかし、雛菊の心は散り散りに揺れる。
(宗介様なら、あっちにどんな言葉をかけてくれますか?)
きっと優しく包んでくれる。そして、そっと背を押してくれる。あっちが歩いていけるように。
フッと感じた温もりに、雛菊の身体に痺れが走る。
森を思わせる爽やかな匂い、キュと抱きしめられた時の力強い腕の温かさ、耳元で響く低く艶のある声、胸から聴こえる力強くも心地よい音、そしてざんばら髪からのぞく優しい目。
ここに宗介はいないのに、五感全てが彼を欲している。宗介に抱きしめたられたいと訴える。
「雛菊は――、今、誰を思っているの?」
「えっ?」
「前も聞いたことがあったね。雛菊の心にいるのは誰なのかと」
真剣な眼差しで銀次に問われ、雛菊は言葉につまる。『宗介』の二文字が口に出ない。
こんなにも心は彼を欲しているのに、『宗介』と告げられない自分自身に雛菊の頭は混乱する。
「あの……、その……」
言葉が出ず混乱する雛菊の胸を銀次がトンっと押す。
「雛菊……、君の心にいる男は、本当に君のことを愛しているのかい? 心のどこかで疑っている。だから、私の問いに答えられない。違うかい?」
「そんなこと、ありんせん!!」
「雛菊、悪いことは言わない。宗介という男を信じてはいけない。吉原のすいも甘いも知り尽くした男の甘言に騙されてはいけないよ。遊女と男は、所詮、金でしか繋がらない。恋なんて生まれやしないんだ」
「何を言ってやす……、銀さん」
仄暗い目をして紡がれる銀次の言葉が、雛菊の心を軋ませる。恋しい人を想い優しい笑みを浮かべていた銀次が、雛菊の心から消えていく。
「どうして……」
「どうして? どうしてだろうね。大切な人に裏切られたからかな。君もよく知っている人、菊代花魁と私は恋仲だったんだよ」
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