初恋に敗れた花魁、遊廓一の遊び人の深愛に溺れる

湊未来

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遊女の矜持

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 遣り手婆からの一報を受け、雛菊は急ぎ座敷の支度をする。遣り手婆の焦り様からも、事は一刻を争う。鼈甲の簪を髪に刺す時間すら惜しい。
 しかし身支度に手を抜くわけにはいかない。これから相対する客に弱味は絶対に見せられないのだから。

「雛菊! 準備は出来たかい!?」
「あい。今、降りんす」

 階下から自分を呼ぶ声に雛菊は声をあげる。

(今夜も、あちきを守ってくんなんし)

 黒漆の簪を最後に髪に刺した雛菊は、鏡台の前から立ち上がり私室を出て、急ぎ階段を降りる。

「おっとさん、事情は遣り手から聞きんした。行ってきんす」
「雛菊、気ぃつけろ! 相手はさむらいだ」
「わかってやす」

 吉原遊廓では、気前よく金子を落としてくれる商人よりも、侍の評判は悪い。『平民より階級が上だ』と侍は階級意識が強く、遊女はおろか商人までをも見下す。そして金もないのに横暴な要求をしてくる侍も多く遊廓では、厄介者扱いされている。
 しかも今夜の相手は、下級武士だという。本来であれば、花魁が相手にするような旦那ではない。しかし、大店の旦那が雇っている用心棒らしく、宴席に呼ばれたおりに妹花魁『菊花』に目をつけたらしい。

 菊花は様々な妓楼の花魁が呼ばれる大宴席に一人で立てる技量はまだない。本来であれば、雛菊が一緒でなければ、妹花魁である菊花が宴席に呼ばれることはない。夜桜見物以降、宗介との話題が落ち着くまでは、雛菊花魁にくる宴席は全て断られている。宗介主催の宴席以外は。
 それなのに、なぜ菊花一人で宴席に立っているのか。

 雛菊の脳裏を嫌な予感がよぎる。

(あちきの知らないところで、何かが起こってやす)

 雛菊と宗介のゴタゴタに妹花魁を巻き込んだとあれば、姉花魁として不甲斐ない。己の身を犠牲にしても菊花を守らなければ。

(どうか、間に合っておくんなんし……)

 雛菊は数名の若い衆と共に引き手茶屋を目指す。裏通りを抜ければ人目につかず引き手茶屋へ最短で向かうことができる。若い衆に囲まれ足早で向かうこと数分、小道をいくつか抜け目的の引き手茶屋の裏口には、先に戻っていた遣り手婆が待っていた。

「雛菊、こっちでありんす」

 裏口をくぐった雛菊は遣り手婆の案内で宴席が開かれている二階へと急ぐ。

「遣り手、中の様子はどうなっていんすか?」
「今、扇屋の珠代花魁と葵屋の鈴香花魁が場を取り持ってやんす。ただ、それも限界かと。お侍様は雛菊を出せの一点ばりでして」
「菊花は、どこにおりんすか?」
「離れで泣いておりんす。よっぽど怖かったようで……」

 遣り手婆の言葉に雛菊の目がすわる。

 姉花魁なしで座敷に出た以上、菊花は一人前の遊女としてみなされる。何が起ころうと座敷を逃げ出すなどあってはならないのだ。それが花魁としての矜持。

 沸々と湧き上がる怒りに握った拳がぶるぶると震える。しかし、『今は、それどころではありんせんね』と、菊花の問題は頭から追い出し、雛菊は腹に力を入れると、ふすまの前へと座わり頭を下げた。

「遣り手、やってちょうだいな」
「あいよ。旦那さま、お望みの雛菊花魁が来ましたよ」

 遣り手の声とともに襖が開く。

「主さん、お待たせんした。雛菊でありんす」
「おめぇが、雛菊か」

 スッと顔をあげた雛菊の目には、本来なら花魁の座すべき上座に陣取る目つきの悪い男が見えた。脇息きょうそくに頬杖をつく男は、結われた髷から髪が乱れ世捨て人のような風合いを醸している。目は虚ろで、頬を赤くしている様子からも、しこたま酒を飲んだと思われた。

(さんざん、暴れたようでありんすな)

 お膳はひっくり返り、皿や盃、徳利があちらこちらへと転がっている。投げ出された料理や酒で畳に染みが出来、慌てて逃げた客や遊女が落としていったものか煙管や簪まで転がっていた。
 阿鼻叫喚が伺える宴席において逃げずに留まることを決めた珠代花魁と鈴香花魁の根性には頭が下がる。
 雛菊と場を繋いでくれていた二人の花魁の目線が交差する。一つ小さく頷いただけで、雛菊の考えを察してくれた二人の花魁は優雅に頭を下げると、雛菊と入れ替わるように退席した。

「よう暴れんしたねぇ。そんなにあちきのお酌が待ち遠しかったでありんすか?」

 そう言って雛菊は最上級の笑みを浮かべる。その笑みのあまりの美しさに目の前の男は惚けたように口を開け、馬鹿面をさらしていた。
 見たところ遊女遊びに慣れているようには見えない。それなら、なぜこうも暴れたのか?
 急を要したため、遣り手から詳しい話は聞けなかった。しかし、この宴席の本当の主人は、目の前の男でないことだけはわかる。

(宴席の主さんに、暴れろとでも言われんしたかねぇ)

 遊女への恨みから腹いせに、粗暴な男を雇い宴席で暴れさせることはよくある話だ。それをいなせないようでは一流の花魁とは言えない。
 しかし、今回はやり過ぎだ。吉原遊廓の暗黙の了解として、男女の揉め事は内輪で収めるとされている。それは、客と遊女、双方の面目を潰さないためでもある。本来であれば、様々な妓楼の花魁が集まる宴席で揉め事が起きることはほぼない。揉め事の渦中にいる双方にとってあまりにも悪手だからだ。勝ったとしても、宴席を潰したとして双方とも評判は地に落ちる。
 そんな危険をおかしてまで、雛菊を蹴落としたいと思っている相手は、いったい誰なのか?

(まぁ、今考えてもしょうがありんせんね)

「ふん! さっさとこっちへ来てしゃくでもせんか。気がきかねぇ花魁だな」
「へいへい、これは気づきませんで申し訳ありんせん」

 雛菊はザッと辺りを見回し、膳にのっていた徳利を掴むとスッと立ち上がる。笑みを絶やさず、静々と男へとにじり寄る雛菊の目は笑っていない。
 しかし、派手に酔っ払っている男は雛菊から放たれる静かな怒りに気づかず無作法にお猪口を差し出した。

「お待たせしんした。たんと飲んでくんなんし」
「わっ!? こ、この――っ、何しやがる!!」

 頭上でひっくり返された徳利から酒が落ち、男の髪から雫が滴り落ちる。その惨めな姿に雛菊は艶然と笑みを浮かべ、さらに男を煽った。

「主さん、頭は冷えんしたか。さぁさ、帰っておくんなんし。ここ吉原は、野暮な男が来るところではありんせん」

 顔も赤く怒りを顕にする男を見下ろし、雛菊は蔑みの視線を投げ、襖を指差す。

「くっ――、そぉぉぉ!!!! 舐めやがって!」

 目の前に置かれた善を蹴倒し立ち上がった男に、雛菊は胸ぐらをつかまれる。しかし、雛菊が動じることはなかった。

「今度は、暴力でありんすか。力も弱い女に手をあげるなんざ、武士道精神もお捨てなすったか」
「――なに!?」
「弱きを助け、強きを挫く。今のお前さんは、侍ではなく、犬畜生と同じでありんすな」

 たこのように顔を真っ赤に染めた男が手を振り上げても、雛菊は逃げなかった。一発殴られることは想定済みだ。

(これで、終いでありんす……)

 花魁に手を挙げたとなれば、この男は吉原遊郭に足を踏み入れることもできなくなる。襖の向こう側では、若い衆が固唾を飲んで二人のやり取りを見守っていることだろう。男が花魁に手をあげた瞬間、乱入する手筈は整えている。数日は、顔の腫れはひかないだろうが、宗介との噂が下火になるまで客を取ることを禁じられている雛菊にとっては痛くも痒くもない。

(さぁさ、やりなんし)

 覚悟を決め目を瞑った雛菊へと、想像していた衝撃が襲ってくることはなかった。

「――――、てぇめ!! 俺の女になにしやがる!!!!」

 つんざくような悲鳴に目を開けた雛菊が見たものは、骨を砕くような音ともに胸ぐらを掴んでいた男が宙を舞い畳へと落ちる瞬間だった。強い力で引き寄せられ香った嗅ぎなれた香りに、雛菊の心臓が跳ねる。

「どして……、どして、ここにいるんすか。宗介さま」

 見上げた先に見た端正な横顔に雛菊の心臓がさらに大きく跳ねる。

「おう、雛菊。怪我はねぇか?」
「……えぇ。そんなことより、なぜ宗介さまが、こちらに?」
「あぁ、たまたま他の宴席に呼ばれていてな。騒ぎを聞きつけ来てみたら、見知った若い衆がいるじゃねぇか。そいつを捕まえて事情を聞いたら、おめぇが一人中にいるって言うからよ、慌てて襖を蹴破った次第よ」

 あっけらかんと言い募る宗介の手がわずかに震えている。肩へと回された手から震えが伝わり、雛菊の心にいいようのない後悔が押し寄せた。

「……雛菊、あんま無茶すんな」
「ごめんなんし。ただ、花魁には花魁の矜持ってもんがありんす」
「そうは言っても、おめぇ殴らせるつもりだったろ?」
「いや、まぁ。あっちの顔一つで収まるなら、それは、それで……」

 言葉尻が段々と小さくなり、雛菊は宗介から目をそらす。自分でもわかっているのだ。雛菊がやったことは悪手だったと。
 後ろめたさを感じ逃げを打つ雛菊の心の内など宗介にはお見通しだったのだろう。肩へと置かれた両手が頬を包み、むぎゅと潰される。その子供じみた悪戯に外していた視線を雛菊が戻したとき、苦しそうに歪められた宗介の眼差しとかち合い、心臓がズキっと痛んだ。

「ふざけんな。もし、おめえの顔に傷なんかつけやがったら、俺はあの男を殺している」
「宗介さま。大袈裟でありんす」
「大袈裟なもんか……、だから頼む。無茶はしないでくれ」

 頬を包んでいた両手が背中へと回り、雛菊の身体が抱き寄せられる。肩へとかかった重みと耳元で響いた震え声に、雛菊の心はきゅっと痛み出す。『頼む……』と絞り出すように発せられた宗介の声に、痛み出したはずの心に不思議な熱が宿るのを感じていた。

「宗介さま、約束いたしんす。もう無理は致しんせん」

 雛菊は宗介の背へと両手を回すと、安心させるようにポンポンと撫でる。腕の力を強め雛菊を離しまいと身体を寄せる宗介に、雛菊の身体も火照っていく。その熱を心地よく感じていた雛菊だったが、若い衆の声に我に返った。
 今は、宗介と抱き合っている場合ではない。畳の上に伸びている男を捕らえ、役人に引き渡さなければ。宗介と抱き合っているところを身内に見られた恥ずかしさに、雛菊は宗介の胸へと手を置き距離を取ろうと試みる。

「宗介様、もう大丈夫でありんす。離してくんなんし」
「雛菊、俺はこのままでも構わねぇぜ。いっそ、抱きあげて玉屋に連れ帰ろうか」

 ニッと笑んだ宗介の顔に、雛菊の鼓動が速くなる。徐々に赤みを帯びていく顔を知られたくなくて、宗介から視線を外した時だった。さっきまで畳に転がっていたはずの男が起き上がっている。ゆらゆらと幽鬼のような面して立つ男の手元には、怪しく光る小刀が握られていた。

(――――っうそ!?)

 血走った目をこちらへ向け走る男の存在に、雛菊の身体が動く。渾身の力を振り絞り宗介を突き飛ばした直後、胸に感じた強すぎる衝撃に雛菊は息をすることを忘れた。
 暗い目をした男が笑いながら遠ざかる。そして、胸へと刺さった小刀が目に入り、視界が滲んでいく。ゆっくりと落ちていく身体を雛菊が制御することは出来なかった。滲んだ視界の先、雛菊の名を叫ぶ宗介の声を聴きながら意識は深淵へと沈んだ。
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