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女の地獄 ※流血表現あり

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「お凛ちゃん、一人にしてくんなんし」

「あい、雛菊ねえさん」

 手水桶を持ち、部屋から出ていく禿かむろの少女を見送り、欄干の縁へと腰掛け、眼下に咲く桜の木を見下ろす。びゅっと吹いた風に、雛菊の後毛がなびき、桜の花びらが風にのり舞い上がる。

 あの人と出会ったのも、桜舞い散るこんな季節だった。

 吉原の大門をくぐったのは、七つの時。この吉原へと売られてくる女たちと同じ、雛菊もまた、親の借金の方に売られた少女の一人だった。貧しい百姓の末の娘として生まれた雛菊は、長雨の影響で、その年の年貢を庄屋に納められなかった両親によって、たった一両(約十万程度)の金子と引き換えに女衒ぜげんへと売られた。

 男にとっては一夜の夢を買う天国でも、女にとっては永遠と続く地獄。そんな吉原遊郭での生活は、過酷を極めた。しかも、運が悪いことに、雛菊が売られた先は、吉原でも悪名高い下級楼閣だった。

 まだ日が昇らない内から働き出し、朝の飯炊きから始まり、夜の床で出る大量の布類の洗濯に、楼閣内の掃除、果ては姉さん方のお遣いと、支度の準備、雛菊は寝る間もなく働いた。しかし、出される食事は、水分の多い芋粥が一杯。育ち盛りの女児には、あまりにも過酷な状況に、何度も逃げ出そうとした。しかし、逃げ出せるはずもなく、男衆に捕まれば、仕置きという名の折檻が待っている。

 たった七つの少女には、あまりにも過酷な環境に、気力も体力も奪われていく。死ねば、この地獄から解放されるのだろうかと、そんなことばかり考えるようになっていった。

 そんな地獄の日々の中出会った、あの人。

 あの日も、姉さんから言い渡されたお遣いで、簪屋かんざしやへと、直しを依頼していた簪を取りに行った帰りだった。過酷な日々の中での一時の休息。いつものように、神社のお堂の裏手へと周り、濡れ縁へと腰掛ける。なんとはなしに、空を見上げれば、抜けるような青空が広がっていた。

 どこまでも続く青。なんの柵もなく、永遠と続く自由な世界が広がっている。

(わっちが、鳥だったら、あの自由な空へと飛び立てるのに……、自由な空へと)

 死ねば、楽になれるのかな。あんな、地獄……、もう嫌だ……

 手元を見れば、に光る銀の簪が目に入る。冷たい感触を小さな手へと伝える簪が、絶望に支配された心を救う最後の希望のようにさえ感じる。

 きっと、菊代姉さんは許してくれる。

 地獄のような楼閣の中で、唯一自分の味方となり、何度も庇ってくれた菊代姉さん。今日も、お遣いと称して、楼閣から逃がしてくれた。

 これも天のお導きなのだろう。

(たった、ひと突きで、自由になれる)

 簪をぎゅっと握り、天を向く。目をつぶれば、涙がこぼれ、頬を伝って落ちていく。

「菊代姉さん、ごめんなさい。さよなら……」

 簪を持った手が動き、肉を切り裂く。しかし、待ち望んだ瞬間が訪れることはなかった。

 誰かにつかまれた腕が、強い力で引かれ、その反動で宙を舞った簪がカランっと小さな音をたて地面へと転がる。

「えっ……」

「てめぇ、何やってんだ!!」

 突然目の前に現れたざんばら髪の男の存在に、驚きのあまり声が出ない。確かに、自分は簪で喉を突いたはずだ。なのに、生きている。そして、目の前で、自分を怒鳴る、男の存在。

 状況がつかめずに、焦りだけが募っていく。

 確かに、肉を突き刺した感触があった。それなのに、生きている。

 唖然と男を見つめた時だった。地面へポタポタと落ちる赤い跡。それを辿った先に見た光景に、息を飲んだ。

「うそ……、手が、手が……」

 男の指先を伝い、ポタポタと落ちる血に、やっと自分の置かれた状況を理解した。慌てて、血が滴る手をつかみ、傷口を抑えるが、一向に血が止まる気配はない。

「どうしよう、どうしよう。わっちのせいで!」

「あぁ、気にすんな。てぇしたこと、ねぇから」

「でも、血が止まらない」

 傷口を抑える手も血塗れて赤く染まり、男の言葉通りには到底見えない。

(どうしたらいい? どうしたら、血は止まるの?)

 どうすることも出来ない不甲斐ない自分に腹が立ち、涙があふれる。滲む視界に、焦りだけが募り、頭はますます混乱していく。

「そんなに、泣くなって。お前、手拭い持っているか?」

「手拭い?」

「あぁ、それを数枚重ねて、強く巻けば血は止まる。俺の着物の帯にかけてある手拭いも使え」

 男の指示に従い、必死で震える手を動かす。手拭いを折り重ね傷口を塞ぐように置き、割いた手拭いを幾重にも巻きつけキツく縛る。

 痛みが走ったのか一瞬苦悶の表情を浮かべた男だったが、次の瞬間には安心させるかのように、笑みを浮かべてくれる。

「痛かったよね。ごめんなさい」

「いいや、てぇしたことねぇから、気にすんな」

 笑いながら、頭をポンポンと優しく叩くから、その慰めるような仕草に、ますます涙は止まらなくなった。

「あぁぁ、もう泣くなって。どうすりゃ、いいんだよ。吉原の女の扱いなんて知らねぇのに。仕方ねぇなぁ」

 キュッと肩を抱かれ、引き寄せられる。

「吉原の女が、簡単に涙なんか見せんな。ただ、これなら、いくら泣いたって顔は見れねぇ。泣いたうちに、はいんねぇ。だから、好きなだけ泣け」

『吉原遊女の涙は、金子の涙。男に馬鹿な夢を見させるためだけに、泣くもんさ』

 いつだったか菊代姉さんが言っていた。遊女は簡単に涙を流すもんじゃない。ここぞという時にしか、見せない。だからこそ、男は虜になるのだと。

 事情も聞かず、胸を貸してくれる男の優しさに、荒んだ心がわずかに癒える。

 次から次へと流れていく涙が、着物の布地に吸い取られ消えていった。
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