主さん、ほんに、おさらばえ〜初恋に敗れた花魁、遊廓一の遊び人の深愛に溺れる

湊未来

文字の大きさ
2 / 24
本編

女の地獄 ※流血表現あり

しおりを挟む

「お凛ちゃん、一人にしてくんなんし」

「あい、雛菊ねえさん」

 手水桶を持ち、部屋から出ていく禿かむろの少女を見送り、欄干の縁へと腰掛け、眼下に咲く桜の木を見下ろす。びゅっと吹いた風に、雛菊の後毛がなびき、桜の花びらが風にのり舞い上がる。

 あの人と出会ったのも、桜舞い散るこんな季節だった。

 吉原の大門をくぐったのは、七つの時。この吉原へと売られてくる女たちと同じ、雛菊もまた、親の借金の方に売られた少女の一人だった。貧しい百姓の末の娘として生まれた雛菊は、長雨の影響で、その年の年貢を庄屋に納められなかった両親によって、たった一両(約十万程度)の金子と引き換えに女衒ぜげんへと売られた。

 男にとっては一夜の夢を買う天国でも、女にとっては永遠と続く地獄。そんな吉原遊郭での生活は、過酷を極めた。しかも、運が悪いことに、雛菊が売られた先は、吉原でも悪名高い下級楼閣だった。

 まだ日が昇らない内から働き出し、朝の飯炊きから始まり、夜の床で出る大量の布類の洗濯に、楼閣内の掃除、果ては姉さん方のお遣いと、支度の準備、雛菊は寝る間もなく働いた。しかし、出される食事は、水分の多い芋粥が一杯。育ち盛りの女児には、あまりにも過酷な状況に、何度も逃げ出そうとした。しかし、逃げ出せるはずもなく、男衆に捕まれば、仕置きという名の折檻が待っている。

 たった七つの少女には、あまりにも過酷な環境に、気力も体力も奪われていく。死ねば、この地獄から解放されるのだろうかと、そんなことばかり考えるようになっていった。

 そんな地獄の日々の中出会った、あの人。

 あの日も、姉さんから言い渡されたお遣いで、簪屋かんざしやへと、直しを依頼していた簪を取りに行った帰りだった。過酷な日々の中での一時の休息。いつものように、神社のお堂の裏手へと周り、濡れ縁へと腰掛ける。なんとはなしに、空を見上げれば、抜けるような青空が広がっていた。

 どこまでも続く青。なんの柵もなく、永遠と続く自由な世界が広がっている。

(わっちが、鳥だったら、あの自由な空へと飛び立てるのに……、自由な空へと)

 死ねば、楽になれるのかな。あんな、地獄……、もう嫌だ……

 手元を見れば、に光る銀の簪が目に入る。冷たい感触を小さな手へと伝える簪が、絶望に支配された心を救う最後の希望のようにさえ感じる。

 きっと、菊代姉さんは許してくれる。

 地獄のような楼閣の中で、唯一自分の味方となり、何度も庇ってくれた菊代姉さん。今日も、お遣いと称して、楼閣から逃がしてくれた。

 これも天のお導きなのだろう。

(たった、ひと突きで、自由になれる)

 簪をぎゅっと握り、天を向く。目をつぶれば、涙がこぼれ、頬を伝って落ちていく。

「菊代姉さん、ごめんなさい。さよなら……」

 簪を持った手が動き、肉を切り裂く。しかし、待ち望んだ瞬間が訪れることはなかった。

 誰かにつかまれた腕が、強い力で引かれ、その反動で宙を舞った簪がカランっと小さな音をたて地面へと転がる。

「えっ……」

「てめぇ、何やってんだ!!」

 突然目の前に現れたざんばら髪の男の存在に、驚きのあまり声が出ない。確かに、自分は簪で喉を突いたはずだ。なのに、生きている。そして、目の前で、自分を怒鳴る、男の存在。

 状況がつかめずに、焦りだけが募っていく。

 確かに、肉を突き刺した感触があった。それなのに、生きている。

 唖然と男を見つめた時だった。地面へポタポタと落ちる赤い跡。それを辿った先に見た光景に、息を飲んだ。

「うそ……、手が、手が……」

 男の指先を伝い、ポタポタと落ちる血に、やっと自分の置かれた状況を理解した。慌てて、血が滴る手をつかみ、傷口を抑えるが、一向に血が止まる気配はない。

「どうしよう、どうしよう。わっちのせいで!」

「あぁ、気にすんな。てぇしたこと、ねぇから」

「でも、血が止まらない」

 傷口を抑える手も血塗れて赤く染まり、男の言葉通りには到底見えない。

(どうしたらいい? どうしたら、血は止まるの?)

 どうすることも出来ない不甲斐ない自分に腹が立ち、涙があふれる。滲む視界に、焦りだけが募り、頭はますます混乱していく。

「そんなに、泣くなって。お前、手拭い持っているか?」

「手拭い?」

「あぁ、それを数枚重ねて、強く巻けば血は止まる。俺の着物の帯にかけてある手拭いも使え」

 男の指示に従い、必死で震える手を動かす。手拭いを折り重ね傷口を塞ぐように置き、割いた手拭いを幾重にも巻きつけキツく縛る。

 痛みが走ったのか一瞬苦悶の表情を浮かべた男だったが、次の瞬間には安心させるかのように、笑みを浮かべてくれる。

「痛かったよね。ごめんなさい」

「いいや、てぇしたことねぇから、気にすんな」

 笑いながら、頭をポンポンと優しく叩くから、その慰めるような仕草に、ますます涙は止まらなくなった。

「あぁぁ、もう泣くなって。どうすりゃ、いいんだよ。吉原の女の扱いなんて知らねぇのに。仕方ねぇなぁ」

 キュッと肩を抱かれ、引き寄せられる。

「吉原の女が、簡単に涙なんか見せんな。ただ、これなら、いくら泣いたって顔は見れねぇ。泣いたうちに、はいんねぇ。だから、好きなだけ泣け」

『吉原遊女の涙は、金子の涙。男に馬鹿な夢を見させるためだけに、泣くもんさ』

 いつだったか菊代姉さんが言っていた。遊女は簡単に涙を流すもんじゃない。ここぞという時にしか、見せない。だからこそ、男は虜になるのだと。

 事情も聞かず、胸を貸してくれる男の優しさに、荒んだ心がわずかに癒える。

 次から次へと流れていく涙が、着物の布地に吸い取られ消えていった。
しおりを挟む
感想 9

あなたにおすすめの小説

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます

沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!

【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される

奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。 けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。 そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。 2人の出会いを描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630 2人の誓約の儀を描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」 https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

愛されないと吹っ切れたら騎士の旦那様が豹変しました

蜂蜜あやね
恋愛
隣国オデッセアから嫁いできたマリーは次期公爵レオンの妻となる。初夜は真っ暗闇の中で。 そしてその初夜以降レオンはマリーを1年半もの長い間抱くこともしなかった。 どんなに求めても無視され続ける日々についにマリーの糸はプツリと切れる。 離縁するならレオンの方から、私の方からは離縁は絶対にしない。負けたくない! 夫を諦めて吹っ切れた妻と妻のもう一つの姿に惹かれていく夫の遠回り恋愛(結婚)ストーリー ※本作には、性的行為やそれに準ずる描写、ならびに一部に性加害的・非合意的と受け取れる表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。 ※ムーンライトノベルズでも投稿している同一作品です。

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

処理中です...