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鍵
しおりを挟む(寝られないわ……)
皆と別れ私室へと戻って来たまでは良かった。日課の読書を終わらせ、いざベッドへと入った訳だが睡魔が訪れない。
右にゴロゴロ、左にゴロゴロしてみても、羊を何百匹と数えてみてもダメなのだ。
寝られない原因など分かりきっている。あの続き扉が気になって気になって仕方がない。
「ミリアが去り際にあんな事言うからいけないのよ!」
ガバッと布団を跳ねのけ起き上がったエリザベスは髪をかきむしる。結果、艶のない髪はさらにゴワゴワだ。
(どれもこれも全て、ハインツ様のせいよ! 本当、何で来るのよ)
隣の部屋で健やかな寝息を立てているであろう人物を頭に思い浮かべ、エリザベスの心の中は乱れに乱れる。
(あぁぁ、ムカつく!)
身勝手な八つ当たりをしていることは棚にあげ、エリザベスは続き扉へと目をやった。
(まさか、開いて無いわよね?)
去り際に言われたミリアの言葉が頭をクルクルと回り落ち着かない。
ちょっと調べるだけと自分に言い聞かせ、そっとベッドを降りたエリザベスは、ゆっくりと扉へと近づきドアノブへ手をかけひねった。
(ウソっ!? 開いちゃった……)
カチャッと小さな音を立て、扉がわずかに開く。
開いてしまった扉を見つめ、閉めねばと思えば思うほどドアノブをつかむ手を離すことが出来ない。
(何で開いてるのよ!? ミリアの仕業なの? そんなはず無いわ)
去り際に鍵を開けておく的な事を言っていても、ミリアの性格を考えれば続き扉の鍵をかけない選択は絶対にない。
貞操観念が厳しいグルテンブルク王国では、パートナーがいない男女が接触する時、必ず第三者が同席する。
それは、間違いが起こらないようにとの配慮からだが、男性よりも絶対的に立場の弱い女性側を守るためでもある。
そのため、未婚貴族令嬢がいる貴族家の使用人は、未婚の男女の接触には徹底した対策をとるのが常識だ。
本来であれば、隣部屋にハインツが居ること自体、あり得ない話なのだ。
(まさか、使用人の誰かが鍵をしめ忘れたとか?)
そんな事、今はどうでもいい。すぐに扉を閉め、ミリアを呼びに行き、鍵をかければいい。ただそれだけの話なのに、エリザベスはドアノブに手をかけたまま、動けなくなっていた。
わずかに開いた扉から月明かりが差し込み、暗闇の中、隣部屋の家具が見える。
そして耳を澄ませても、静まり返った部屋からは物音一つ聴こえない。
(流石に、寝ているわよね)
突然頭に浮かんだ夕食時のハインツの姿に、エリザベスの心臓が跳ね上がった。
カトラリーを丁寧に扱いながら、料理を食べる姿はとても洗練されていた。さすが公爵子息と、思わず見惚れてしまったのは一生の不覚だ。
「あんな一面見せるなんて反則でしょ!」
独りごちたエリザベスの頬が赤に染まる。
(でも、私の知っているハインツ様じゃなかったのよね……)
夜会の時の饒舌な彼とは違い、静かに食事をとる姿は違和感でしかなかったのだ。ただ、交わされる会話に参加していない訳ではない。話を振られればウィットに富んだ言葉を返すし、適切な相槌を打ちつつ、相手が気分良く話せるように上手く誘導している。
『夜会で見せる嫌味なハインツ様はどこかへ消えてしまったの?』と、頭に疑問符ばかりが浮かんでいた。
(私の知るハインツ様と、友人達の知る彼は全く違うのかもしれないわね。ハインツ様には別の顔があるのかしら……)
脳裏によぎる金色の少年。
ハインツと『彼』が同一人物であるはずない。そんな事はわかっている。それなのに、今朝の光景が頭にこびりついて離れない。
陽光を浴び、こちらに背を向け立つハインツを見た時、記憶の片隅に残る淡い想いがエリザベスの心を震わせた。
(ハインツ様は彼ではないの。だって、ハインツ様は黒目、黒髪だから……)
そんな想いとは裏腹に、エリザベスはドアノブを握る手に力を込める。
徐々に開かれる扉とドキドキと高鳴る心臓の音。頭の中ではガンガンと警鐘が鳴り響いていたが、もう止まる事など出来なかった。
エリザベスは開け放たれた扉を抜け、ハインツの部屋へと一歩を踏み出す。足音は、床にひかれた毛足の長い絨毯が全て吸い取ってくれる。
月光がうっすらと差し込む部屋の奥、開け放たれた扉の向こうに天蓋付きのベッドが見えた。
(ちょっとだけ、ちょっとだけよ。ハインツ様と金色の少年が別人と確かめるだけ)
自身の行動を正当化するための苦しい言い訳をしつつ、エリザベスは歩みを進めた。
寝室へと続く扉を抜け、ゆっくりとベッドへと近づき――
「エリザベス、何をしているのですか?」
「――ひっ!……」
突然背後からかけられた声に心臓が大きく跳ね上がり、エリザベスは微動だに出来なくなった。
「続き扉が開いたから何事かと思いましたが、まさか貴方が入ってくるとは。まさか、夜這いですか?」
夜這い!?
「いいえ、違います! 夜這いではありません」
あまりの言われように怒ったエリザベスは、固まった身体を無理やり動かし、言い募る。
「じゃあ、こんな夜中になぜエリザベスは私の部屋にいるのですか?」
「いえ、それは……、あっ! そうです。鍵が、続き扉に鍵がかかっていないと問題になるかと思いまして……」
「それで、きちんと鍵がかかっているか確かめたと」
「えぇ。もし鍵がかかっていなかったら、ハインツ様にも迷惑がかかりますでしょ。貴方様も、婚約破棄された私と何かあったと思われても迷惑でしょうし」
そうよね。
婚約破棄された私となんて噂であっても、何かあったのではと思われたくないだろう。
しかも、巷では悪女と言われている。
自嘲的な笑みを浮かべたエリザベスの心が涙を流す。
(言い訳めいた言葉を並べて、自分で自分を傷つけるなんて馬鹿でしかないわね)
「迷惑? 私は一向に構いませんが、まぁいいでしょう。それで、今の説明ではエリザベスが私の部屋に居る理由になっていませんよ」
「えっ?」
「えっ? じゃ、ありませんよ。鍵がかかっている事を確かめるだけなら、使用人を呼べば良いだけの話ですよね。鍵をかけろと。なのに、エリザベスは私の部屋にいる。どうしてでしょう?」
「あっ……」
「ふふふ、本当可愛い。だから夜這いと言ったのですよ。さて話を戻しましょうか」
「……ハインツ様」
「エリザベス、こんな夜中に男の部屋に忍び込んで、どうなっても文句は言えませんよね」
わずかに開いていた距離が一気に縮まり、エリザベスの肩をハインツがつかむ。
トンっと肩を押され、エリザベスが倒れ込んだ先はベッドの上だった。
ボフッという音と共に見上げた先にハインツの笑みが見える。本能的な恐怖心がエリザベスの脳を支配し、身動きが取れない。
ゆっくりと近づく綺麗な顔がエリザベスの視界いっぱいに広がり、消えたと思った瞬間、クチュッと響いた音に、唇を塞がれた事実を知った。
「――っ……ま……って……」
抗議の声を上げるため、わずかに開けたエリザベスの唇の隙間から舌が侵入する。
唇を喰み、歯列をこじ開け、縦横無尽に動き回るハインツの舌に口腔内を刺激され、含みきれなかった唾液が顎を伝い、首へと落ちていく。
ひっきりなしに上がる淫靡な音が、脳髄を痺れさせた。
性経験に乏しいエリザベスには、鳴り続ける警鐘を気にする余裕など無い。逃げ出そうと、ハインツの胸へと置いた手は、彼の服をつかむことしか出来なくなっていた。
熱を持ち、身体の奥底に火が灯る。
徐々に力が抜けていく身体をどうすることも出来ず、月明かりの部屋に淫雛な音だけが響いていた。
「エリザベスには刺激が強すぎたかな。瞳が潤んで、とても綺麗だ」
生理的に流れた涙をぬぐわれ、身体に感じていた重みがフッと消えた。
「これに懲りて、夜中に男の部屋に来ないこと」
潤んだ視界の先に見たハインツの笑みに、我に返ったエリザベスはベッドから転がり降りると、逃げるように部屋を後にした。
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