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過去

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「ミリア、私ダメダメ令嬢ね」

「お嬢さま、今更ですか」

 エリザベスが領地での静養を命じられてから、半年が過ぎようとしていた。その間、彼女が何をしていたかというと、何もしていなかったと言うのが正しい答えだろう。

 この半年、エリザベスなりにウィリアムとの婚約破棄について考えてきた。

 なぜ、あんなにも彼を盲目的に愛していたのかと。

 公爵令嬢としての貴族社会での立ち位置を考えれば、エリザベスが婚約者の噂を把握するのは当然の事である。友人令嬢の忠告や社交界でささやかれている噂を、彼女が知らないはずが無かった。

 ウィリアムの女遊びの噂を。

 エリザベスがウィリアムと婚約して十年。気づかないふりをしていても、年月が経てば気づかないふりをすることすら難しくなる。

 ましてや、パートナー同伴の夜会に、他の令嬢を伴い出席したと聞けば、ウィリアムの気持ちがエリザベスに無いのは誰の目にも明らかだ。

 ただ、ウィリアムの気持ちがエリザベスに無いと知りながら、それを認めることだけは出来なかった。

 認めてしまえば、全てが終わってしまう。幼い日の淡い恋心ですら否定されるようでエリザベスには、それが耐えられなかった。

「ミリア、遠駆けに行きたいの。いいかしら?」

「今からでございますか? すぐに準備致しますのでしばしお待ちを」

「大丈夫よ。領地からは出ないし、ここら辺の地理は頭に入っているわ」

「しかし、護衛をつけずに行くのは……」

「ミリア、お願いよ。どうしても一人になりたいの」

 最後まで一緒に行くと言って聞かないミリアをなだめ、エリザベスは愛馬にまたがり駆けだす。手綱たづなを操り、風に乗り、愛馬と駆ければ過去の記憶がよみがえる。

 幼い日の母との思い出が。

(あの日……、母が死んだ日、私は生けるしかばねになった……)

 元々体が弱かった母、ルシアンナはエリザベスを産むと急激に体調を崩すようになった。それと同時に増していったルシアンナのエリザベスに対する執着は、常軌を逸していたという。

 今考えればルシアンナは、自分の死期が近い事を察していたのかもしれない。

 本来であれば、高位貴族家の赤子は乳母に育てられるのが定石だ。しかし、ルシアンナはエリザベスを乳母に預けず、自分で育てる事をかたくなに固辞したという。

 そんな日々の中育てられたエリザベスもまた、ルシアンナの存在が特別だった。

 側にいて当たり前だった存在が突然いなくなる。その現実は、幼い心に大きな傷を残した。

 母を失い、心を失ったエリザベスは、全ての感情を失った。

 笑うことも、怒ることも、泣くこともない。人形のようなエリザベスに、母亡き後、残された家族は困惑を極めた。どんなに手を尽くしても感情が戻ることはなかった。

「……ついた」

 目の前に広がるのは、キラキラと輝く湖面。木々が生い茂る森を駆け抜けた先にある想い出の泉を前に、エリザベスは過去の記憶を呼びさます。

(この場所で、彼に出会えたからこそ、今の私はあるの)

 生ける屍となったエリザベスの世界は灰色だった。何を言われても、何をやっても、何を与えられても心が動くことはない。

 彼と出会ったあの時も、無意識的にこの泉に来ていたのだ。

 あの時、なぜこの場所に立っていたのかすらも覚えていない。ただ、この泉に入れば、母に会えるのだと漠然と考えていた事だけは覚えている。

(死ぬつもりだったのかしらね……)

 ゆっくりと、泉ヘと入っていく幼いエリザベス。まとわりつく水の重さ、ぬかるむ水底に足を取られ、気づいた時には身体が沈んでいた。

 薄れゆく意識の中、これでやっと母に会える、漠然とそう感じていたことだけは覚えている。

 そんな深淵へと沈みゆく意識が突然浮上したのだ。

 閉じていた瞳に感じる暖かな光。ぼやけた視界が徐々に鮮明になっていく。そして、目の前に現れたのは、必死の形相で何かを叫ぶ誰か。

 ただ、その全てがどうでもよかった。

 何かに取り憑かれたように泉へと入ろうとする身体を強い力で引き寄せられ、頬を打たれた。

『君の命は、君一人だけのものではない』

 放たれた言葉が、全てを変えた。

 父や兄や乳母やミリア……、大切な人達の顔が次々と脳裏を駆け巡る。

 母の存在一色だった世界が、その一言で変わっていく。

 このまま死ねば、愛する人達を今のエリザベスと同じ状況にしてしまう。あの時、唐突に己の罪深さを理解した。

(あの言葉がなければ、私は生きていないわ)

 動くことのなかった心がトクンっと動き出し、灰色の世界が色鮮やかに色づき出す。

 そして、何も映し出さなかった瞳に感情が宿った時、初めて命を救ってくれた少年の存在を意識した。

 陽の光を背に立つ、とても綺麗な少年。

 彼とウィリアムが同一人物ではないことくらい理解している。

 ただ、ウィリアムの笑みを見た時、金色の少年もまたエリザベスを探していたのだと思った。

 この再会は運命なのだと。

(馬鹿みたいね。そんな運命的な再会、あるわけないのに)

 もう、この想いに決着をつけねばならない。

「お父様の決めた方に嫁ぐのが一番ね……」

 これ以上、領地で塞ぎ込んでいるわけにもいかない。

 父が、エリザベスの今後をどう考えているかはわからない。ただ、未だに修道院へ送られていない現状を考えれば、まだ利用価値があると思われているのだろう。

(ヒヒジジイの後妻だろうと、隣国の変態貴族への貢物だろうと、お父様のお役に立てるなら、それで良いじゃない!)

 ウィリアムの事で散々わがままを言ってきたのだ。それなのに、彼の心をつかむ事は出来なかった。

 だったら親孝行と思い、父の政治の駒となればいい。

(最後に、この泉に来られて良かったわ。さよなら、私の初恋――)

 愛馬にまたがりエリザベスは思い出の泉に背を向ける。そして、ベイカー公爵邸へと駆け出した。




 
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