102歳のばあちゃん

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102歳のばあちゃんの話

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「百二歳のばあちゃんの話」

「おばあちゃん、もう危ないんだって」
最近では珍しい母からの電話であった。食事は何を食べているか、ラーメンばかり食べるな、まだビール飲んでるの?などのいつもと同じ聞き飽きた小言のあと母がそう言った。
「たけしにも一応知らせとこうと思って」
そこに別に悲壮感はさほど感じられなかった。
無理もない。ばあちゃんは百歳を超えて東京の病院に入院している。何時亡くなってもおかしくないばあちゃんに、皆出来る限りやさしく接して来たに違いないし、曾孫も三人いる。何時亡くなっても大往生と言えるかも知れない。


百歳を越えた母方の祖母であるばあちゃん、まだまだ生きたいと意欲を示していたと言うが、もう病院暮らしは二年を越えていた。僕にとっては、百歳を越えてもっと生きたいと言う気持ちを持つ事は生命力を越えるの意思があるのだとも思えた。ばあちゃんは別に気丈なタイプではなくって、どちらかと言えば伏せがちでしょっちゅう病院に行っている印象があった。自分の体に気を遣って来た結果こんなにも長生きできたのではとも思う。百歳になった時、東京都から表彰状が届いた。ここまで来たら、もっともっと長生きして欲しいと思っていた。


父方の祖母も大変長生きした(九十六歳没)。父方の祖母は千葉の館山でずっと農業を営んで来た。こちらは七十過ぎても畑仕事を続けた強い人であった。しかし僕の知る限りでは、八十代後半からは「いつお迎えが来るのか待ってるだけだよ」と小さく口癖の様に言っていた。もうこの世に未練はなく、お迎え(死ぬこと)を待って生きているだけだと。 
長く生きて老いて行く事は、そう、自然に死を受け入れて行く様になる事かも知れないな、などと朧げながら思っていた。それが自然な姿で、最も幸せな事の一つではないかと。しかし、百歳のばあちゃんはもっと生きたいと言う強い意思を持ち、弱って行く自分の肉体と闘って、そこまでして生きている。それ自体を漠然と「ばあちゃんって凄いな」と思っていた。
僕自身が年齢を重ね、身内の死などを経験するにつれ、その漠然とした考えは次第に現実味を増して行った。いつかは死ぬ。それは当り前の事。しかし自分が生きる世界で、自分自身が周囲に対して意味を持たなくても、生きる喜びが無くなっても、それでもやはり生きたいだろうか。
きっと、生きる事の意味は、生きる事その物であるとばあちゃんの生きざまは僕に感じさせた。





その母方のばあちゃんの家、つまり母の実家は東京の大田区にあった。僕の実家の横浜からそう遠くもなく、母に連れられ小学生くらいの頃から気軽に遊びに行っていた。どう行くかは分っていて、十歳位の時に僕が一人でいきなり行って、驚かせた事もある。おじいちゃんは早くに亡くなっていた(僕が六歳のころ)が、まだ幼いかった僕の事を大変かわいがってくれたらしい。病床ついて入院して間もなく亡くなった。病名は僕には分からない。しかし死ぬ間際、自分の息子を差し置いて「たけしは何処だ」と盛んに言っていたらしい。しかしまだ幼かった僕にはおじいちゃんの記憶は薄っすらとしかない。


ばあちゃんの方が物心付いてからの記憶も多くあり、小学校の頃は毎年二回は僕と妹、従妹など親戚が集まって皆で遊んだものだ。近所の公園などの遊び場や、半径一キロくらいの地理、何処のスーパーが安いかなども分かるくらいその土地に慣れていた。今思うと東京の街は近くに何でもあってコンパクトで便利だった。


戦前から東京のばあちゃんの家は、十人位小僧さんを抱える呉服屋だったらしいのだが、空襲で全てが焼けてしまい、引っ越してから今の家になったらしい。戦後に建てられた昔の家の作りで、階段がとても急でしかも一直線。何度か四,五歳の妹が転がり落ちた。今考えるとよくケガをしなかったものである。


 ばあちゃんはお正月に遊びに行くとお年玉をくれるのだが、いつも五百円(当時は札だった)で子どもながらにも「ケチなばあちゃんだ」と思っていた。父方の祖母は毎年五千円くれた。また大笑いした時に、総入れ歯が口から外に飛び出した事も良く覚えている。僕も妹も従妹たちも周囲の全員がビックリした。大変熱心な仏教の信者で、朝夕必ずお経らしきものを仏壇の前で数珠をカリカリ鳴らしながら唱えていた。


子供の頃はそんな風だったけれど、社会に出てからは、五年から十年くらい会う事もなく、従弟の家庭教師とかで、たまにばあちゃんの家に行く機会があったりすると、会うたびにさすがに年を取ったなぁと思った。実際、ばあちゃんは身の丈も眼もどんどん小さくなって行った。
そのばあちゃんが、もう危ないと言う。
                                           *
僕は自分の小さな会社を経営していて仕事は休みにくく、なかなか易々と東京の病院まで行く時間が無かった。しかしもう危ないと聞かされ、これは絶対に行かねば、と病院の名前からネットで場所を探し、電車で多分これが最後であろうばあちゃんに会いに出かけた。
前回会ったのは一年前位だったか。ばあちゃんは別の病院に入院していたが、まだ普通に話をして、何を話したか忘れてしまったが頭もしっかりしている様子だった。ただ、とにかく目がしじみの様に小さくなってしまっていて、瞳の色は少し濁った灰色になっていた。その時は嬉しそうで、


「たけしちゃん、よく来てくれたね。あれ、点滴が変だよ」


そう言って僕に見せる腕には点滴の針が刺さっていたが、そこから血が流れていた。僕は看護師を呼ぶボタンを押した。あとで叔父さん(母の弟)に「たけしが来た」と言ってもボケていると思っていて信用しなかったらしい。
祖母との昔の思い出を考えながら、車窓の外を見ていた。思い出は芋づる式に浮かび、当時の事を懐かしむ。
京急線の小さな駅から病院に歩いて向かった。初めて訪れる駅だった。地図を頼りに歩くと、予想以上に駅から遠い様で、病院の面会時間もあるので、足を速めた。きっと何人か知っている人も見舞いに来ているだろう。
初めての駅、初めての町。僕は地図を頼りに進んだけれど、意外と病院は遠く、コンビニに寄って、その病院への道を尋ねるためにペットボトルのお茶を買った。
道は細く人通りもなく、暗かった。周囲に家はあったが、あまり家庭から漏れ出る光の様なものはなく、静かだった。

面会時間終了の三十分前、午後七時半くらいにようやく病院についた。思ったよりも小さな病院で、駐車場も十台分くらいしかなかった。周囲の家並み以上に院内は静まり返っていて人の気配はほとんど無く、まだ消灯時間でもないだろうに電気も消してあった。ベルを押すと受付には当直らしき人が奥から出てきた。


明かりが付いているのはエレベーターをナースセンターだけの様だ。
案内された病棟に行くと、ナースセンターからすぐに見える一つだけ明るいドアのない部屋があった。そこに祖母がいると言われ部屋に入ってみる。意外な事に祖母のベッドの周りには誰も居なかった。個室の真ん中にぽつりと小さな祖母が横たわるベッドがあった。
祖母は目をつぶって天井を向いたまま点滴を打ちながら全く微動だにしない。入れ歯を外してしまっているからだろう、顎がクシャクシャにしぼんで、顔が半分くらいの大きさに見えた。
たぶん異常を感知できるようにだろう、センサーに繋いだ計測器などが幾つか隣りに置いてある。全く静かで、ただ眠っている様に見えた。もうすぐ亡くなるかも知れないと聞いた時に想像された、昏睡状態と言う訳ではない様だった。
あまりの静かさに、
(まだ生きているのだろうか?)
そう思って顔に耳を近づける。呼吸はしている様だ。


「おばあちゃん、たけしだよ、お見舞いに来たよ」


子どもに話し掛けるような大きくはっきりとした口調でそう耳元で話しかけた。微動だにしない。


そのままおそらく意識も無いであろう祖母に向かって、色々な話をした。
「俺は今自分の会社をやってて、大変だけど面白いよ」


「・・・・」


「(孫の)ひとし君の結婚式はとても良かったよ。ひでちゃんももうすぐ結婚するんだよ、おばあちゃん、それまで死んじゃだめだよ」(その年一人の孫が結婚し、もう一人がすぐに結婚することになっていた)


「・・・・」


全く反応のないばあちゃん。意識が無く聞こえていないだろうが僕は話し続けた。
そんないつ死んでもおかしくない状況なのに、別に看護婦や医者が付き添っている訳でもない。
・・・まあ当たり前か。死ぬのを待っているだけの状態なのだ。病気で危篤になっている患者とは少し違う。老衰と言う、人生を全うした死に方なのである。恐らく、その時が訪れた時は、心臓の鼓動が止まった事をセンサーが感知し、ナースセンターに知らせるのだろう。それまでの時間が、淡々とこの室内に流れている気がした。ただただ、終わりを待っている時間。
 その時、突如不意に祖母が顔をしかめ、苦しそうな表情になった。そして大きく口を開けた。・・・まさか。


「どうしたの、苦しいの!?看護婦さん呼ぼうか?」


焦って僕がそう言うと、苦しそうに二、三回パクパクと口を開けてからすぐに静かな表情に戻った。その後何を話しかけても、何の反応も無かった。緊急のボタンを押す前に呼吸を確認した。
(ああ、良かった)と安堵する。
そろそろ面会時間のリミットだった。
「じゃあね、おばあちゃん。また来るよ」


僕はそう言い残して、多分これが最後なのだと思い祖母を一瞬強く見つめ、病室を去った。祖母はやはり目を閉じたまま全く動くことはなかった。

                         *

帰る途中、その初めて訪れる駅の周辺を何となく散策してみた。駅前の商店街はもう夜八時過ぎだったから人通りはそんなには無かったが、小さな駅のわりに賑わっている様だった。軽く食事をとろうと思い適当な店がないか探してみる事にした。
その後、この駅前商店街はいったい何処まで続いているのだろう、とかすかな発見の期待などを持って駅から離れて行く方向にメインの商店街を歩いてみた。まっすぐに伸びていて、見える限り光はあった。五分ほど進み、しかし、やはりどんどん寂しくなり、結局大したものがなくもと来た道を戻った。来る時に開いていた店も次々に閉まって行く。
もう周囲には興味はなくなり、考えながら歩いていた。仕事の事とか明日に予定とか。お腹は空いていたけれど、横浜まで戻ってから食べようかと。
そうやって駅まで戻る道の途中、唐突なひらめきの様な言葉が突然、僕の気持ちを覆い尽くした。


「・・・ありがとう」

さっき僕には聞き取れなかった祖母の言葉が、その時はっきりと聞こえたのだ。あの時の一瞬の祖母の苦しそうなあえぎは、口をぱくぱくと二、三回開けた苦しそうな表情は、あれは僕に最後の力を振り絞って「ありがとう」って言ってくれたのだと。
 泣いた。
                         
                               (了)
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