恋情を乞う

乙人

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下女

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(私は、誰?)
 水面に映る顔を覗いて、泣いた。

 誰も助けてくれない。
 少しのことで、太后は鞭打つ。
 侍女には笑われた。
 此処には、自分を守る術は無い。ただ、耐えることしか出来ない。
 何が駄目だったのだろう。何処で道を踏み外したのだろう。
「私が死んだらどうするのだ。」
 太后はけらけらと笑った。
「さっさと死ねばいいのにね。」

 高価な衣裳や身を飾る装飾品は奪われた。古参の下女の着古した、擦り切れた麻の衣を与えられ、長い髪も肩上で切られた。働く為に爪も切られた。
 化粧も出来ず、身も繕えず、怪我を庇う様に歩く姿は、五十路を超えた老婆の如く、どっと老け込んだ。
 食べる物も与えられず、元から痩せ型だったので、骨と皮にまで痩せこける。
 たまに与えられる食事は腐りかけた物ばかりで、食べると直ぐに腹を下してしまう。それを見て、やはり、皆、笑う。
 九つの頃の仕打ち。
 もう、二十年近くも前なのだ。
 それよりも酷い。あの時は兄が助けてくれた。もう一度、公主に戻れた。
 多分、もう、戻れない。大長公主には戻れない。
 長公主-本来の姪達-は嘲笑うどころか、貶してきた。
『まぁ、誰かしら。これ。下女?随分と年老いているのね。』
『醜いわ。』
 このまま太后に飼い殺しにされるのか。それも、辛いことだ。

「これ。」
 また侍女は籠を渡す。これを洗えと言うわけだ。
「この間みたいに汚したら、承知しないから。」
 堪忍袋の緒が切れた。
 何て無礼な奴だろう。
「何すんのよ!」
 何をしたのか。
 簡単だ、侍女の衣を剥いだ。
「黙れ。」
 侍女は珞燁から衣を奪い返そうとする。
「私は大長公主だ。前の東宮だ。」
「はぁ?あんた、莫迦じゃないの?いつの話をしてんの?」
 侍女は大きく目を見開いて、口を歪めている。醜い。
「私を莫迦にするな。」
「立場分かってんの?」
 侍女は見たところ、十七くらいだろうか。十も若い。
「歳上を敬えと、習わなかったの?」
 侍女はそんなの知らないわと言う素振りだ。
「死ね!」
 侍女は珞燁に籠を蹴りつけ、衣を奪い返した。
「死ねよ!屑!」
 更にその衣を、池に投げ捨てた。
 太后の宮には、池がある。太后が作らせた物だ。
「溺れて死ね。」
 侍女は簪で珞燁の顔を掠る。肉が裂かれて、血が溢れた。

(あの下女は、姉さん………)
 祖父-永寧の本当の父-に、珞燁という女を聞いたことがあるかと問うた。
『それは、永寧大長公主の名だ。』
 祖父はキッパリと答えた。
『永寧がどうしたのだ。』
 位を廃された永寧を、祖父は心配して、気を病んでいた。
『永寧姉さんは…………』
 口にしたくなかった。だが、父が助けてくれない今、祖父を頼るしかない。
『太后の宮で、下女をさせられていました。』
 祖父を目を見開いて、動揺を顕にしている。
『莫迦な真似を!』
 祖父は怒鳴った。

 池に投げ込まれた衣裳。
 それを拾う為に、池に入った。
 とてつもなく寒い。凍りそうだ。左半身は麻痺して、感覚が疾うに失せていた。
 水面に映る顔を覗く。
「私は、誰?」
 誰も答えるわけが無い。だが、自問自答を繰り返す。
「東宮?永寧長公主?永寧大長公主?珞燁?どれなの?」
 衣裳に手を伸ばした。濡れた衣裳は美しく、自分の過去の生活を思い出させる。
「私、何者だろうね?」
 箍が外れた様に大笑いして、そして、声を上げて泣いた。
「私の、せいじゃ、ないわよね………これ。櫖淑妃のせい。父上のせい。兄さんのせい。あの婆さん太后のせい。」
 涙は流れ流れ、頬を伝って、ぽろぽろと零れてゆく。こんな顔、人には見せられない。
「ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ。ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ。も、やだ。」
 何が何だか分からなくなってきた。自分が醜く、汚らわしく、死に値する程の屑だと分かった。
 全て拾い終えて、池から上がった。
 苦労して拾ったのに、衣裳を破いてしまった。また、鞭打たれてしまう。
「も、嫌。」
 地に寝転がって、空を仰いだ。
 崩れそうな天気だとは思っていたが、急に雨が降り出した。珞燁の涙雨かもしれない。
「私は永寧よ………………珞燁じゃないわ…………………」
 ざあざあと、桶をひっくり返した様に、激しく、降り続く。
 大きな雨粒が、珞燁を打ち付けている。鞭に打たれる気分がした。だが、このまま死ねると良いな、恥をかかずにすむ、そう思った。
「ねぇさん!」
 誰の声だろう。酷く懐かしい。そして、心の奥がぽかりと暖かくなる。如何してだろう。
「永寧!」
 聞いたことはある。だが、こんなのじゃなかった。
 珞燁は笑った。瞼を開けたかったが、そんな体力は残っていないらしい。
 寒い。右半身はあかぎれの痛さを訴えるが、左半身は何もならない。やはり、麻痺している。太后のせいで。
(此処は、何処なのだろう。)
 分からない。ただ、次に目を開いた先に、桃源郷があれば良いなと願った。

「姉さん!」
 祖父を連れて、太后の宮に向かった。
 辺りを見渡していると、痩せた女が池の付近で倒れていた。
「永寧!」
 祖父はそれを見つけて、駆け寄った。
「どうしたんだ、永寧!」
 答えない。口は開いている。だが、目は閉じられて、体は氷の様に冷たかった。
「私のせいだ。」
 祖父は珞燁-永寧廃大長公主-をが抱えて、涙を零している。
「私が偽りを言って、お前を孫として育てさせたのが悪かった。娘だと、認めれば良かった。最初からそうしていれば、お前は太后から目を付けられることもなく、幸せに生きられていたはずなのに。」
 濡れて張り付いた髪を手で払うと、真一文字に裂かれた傷が現れた。
「誰だ、こんなことしたのは。私の吾我子は、何をしたんだ。」
 祖父は永寧を乗って来た輿に横たわらせ、それに旲瑓と乗り込んだ。
「お前は醜い下女じゃない。」
 頬の痩けた、憐れな女の髪をそっと撫でた。
「気高く美しい、私の大長公主だ。」
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