恋情を乞う

乙人

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榮氏

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「いらない!」
 榮氏は下女が運んできた食事を手で叩き落とした。カランカランと音を立てて食器が転がり、中身が無残に散らばっていた。
「お嬢様、少しはお召し上がりください!」
 汚れた裳を叩きながら、下女は叫んだ。何て無礼な娘だろう。
「同情するなら、此処から出しなさいよ!あの女をリョウを、殺すくらいしてみなさいよ!それが、忠誠心ってものでしょう!?」
 榮氏は頭を抱えて、蹲り、流れる涙をこらえていた。

『お前は舞が得意だね。莉鸞レイラン。』
 今は亡き父は、そう言ってくれた。
 それから喪が開けるのを待たずに、母は再婚した。その継父は雀斑ソバカスの散らばった顔の娘を連れてきた。
 間もなくして、榮氏は居場所を失った。小さな部屋に閉じ込められた。朽ちかけた寝台と食事を取るためのテーブルが置かれた、殺風景な部屋だった。
「好い様ねぇ。媽媽母さんが言ってた。爸爸父さんは、あんたで金を稼ぐつもりだよ。まあ、痩せっぽちだから、無理だろうね。あたしの方がまだマシだわ。」
 似合わぬ裙に身を包んだ娘が、毎日茶化しに来た。その度に、苛苛した。
 よく言う娘だ。雀斑女なんて、物好きしか好まないのに。

 娯楽のない世界で、唯一思い出せるのは、舞だけだった。
 ひれがゆったりと舞い、簪の玉がふわりと揺れ動く。裱を絡ませないように踊るのは難しかったが、慣れれば簡単だった。幼いながらもこの街では一番有名な舞姫だった。
わらわは特別な人になるの。なってやるわ。」
 親が持って来る縁談は、全て跳ね除けた。どうせなら、身分も金も十分にある屋敷で、奥様と呼ばれて暮らす生活をしたかった。

「媽媽。連れて来たよ。」
 久しぶりに外に出された。他でもない、継父の許可で。
「有難う。………莉鸞。あのね。」
 吃驚した。母の手には、漆塗りの化粧箱があった。家計は火の車なのに、何処から手に入れのか。
「ちょっと、お金、稼いできてくれない?」
 -何だと。何をさせるつもりだ。
 何となく察し、無性に苛ついたので、取り敢えず隣にいた雀斑女の指を踏んずけた。
「あのねぇ、何を想像したのかしら。別に、口減らしで売り飛ばすわけじゃないわよ?舞いを披露して欲しいと、頼まれたの。近くに住んでるお偉いさんよ。報酬は高くつくって、言われたの。だから、頼んだわよ。」
 ここまで落ちぶれたか。父がいれば、まだマシだったのに。人の死は不可逆的だ。仕方がない。
 下女がさっさと髪を結って、着替えさせてくれた。そういえば、この下女を雇う金は何処にあるのだろう、着替えさせられている間、ずっとそんなことを考えていた。

 連れてゆかれた先は、まあ、豪華なお屋敷だった。庭には、仮設の舞台があった。此処で舞えとのご命令らしい。
「榮莉鸞を連れて参りました。」
 下男は頭を深々と下げた。どうやら、ご主人様の御登場らしい。
 取り敢えず、昔に習ったとおりに、頭をたれて、三指ついた。
「表をあげよ。」
 そう言われて見上げたのは、壮年の男だった。生えた立派な髭が汚らしく見えた。
「其方が、莉鸞か。噂に聞いたとおり、美しいな。」
(そりゃ、どうも。)
 それ以外の感想は出なかった。さっさと舞を披露して、帰りたかった。とても、居心地の悪い場所だと、しみじみ感じた。

 仮設の舞台だったが、演奏者達はちゃんと居た。
(さっさと帰りたいわね。)
 それだけを頭に残し、空を仰いだ。
 華やかな樂が聞こえ、それに合わせ、榮氏はくるりと回った。裱も裳も髪も風に舞い、焚き染められた香はふわりと香った。ただ、生温さを孕んだ風は、不快だった。
 記憶の奥底、昔好んだ舞だった。何度も何度も踊り、指先から足先まで、全ての動きを熟知していた。どうすれば美しく見えるかも、自分なりに研究した。だが、それを今となっては恨んだ。
「見事だ。」
 壮年男は手を叩いた。
 終わったのだ、さっさと帰らせて頂きたい。だが、それは叶いそうにない。
 使用人らしき女達が数人、榮氏に近寄って、腕を掴んだ。
「何をする!?離しなさい!」
 掴まれた腕をぐいぐいと引っ張り、抵抗したが、やはり、多勢に無勢。引きずられていった。
「何をするのだ。せめて、それくらいは聞いておかないと、納得せぬぞ。」
 女は笑った。背筋がゾクッと、冷たいものが走った。
めかけになるんですよ。聞いてなかったんですか?」
 そんなの聞いていない。だが、ふと過ぎった悪い予感が本当になったのは、もう、分かったことだ。
(莫迦な。)
 最悪の事態は免れたい。榮氏は女を蹴り飛ばし、窓から逃走した。逃げ足には自信があった。

「あら。なんで帰ってきたの。莉鸞。」
 母は優雅に茶を嗜んでいた。報酬で懐があたたかいのだろう。ほくほくとした顔をしている。
「妾をどうするつもりだったのよ!舞を披露して、それで終わりじゃなかったの!?」
 かなりドスの効いた声でそれを問いただした。胸ぐらを掴んだ。
「気が付かなかった莉鸞が悪いのよ。私達は何も。」
 母はそれを正当化させるように、よよよと嘆いてみせた。
 隣では、継父と雀斑女がじっと冷たい視線を送っていた。
「無知は罪ね。」
 榮氏は溜息をついて、背を向けた。
「世間知らずだから悪いんじゃないの。ねぇ、爸爸。」
 雀斑女は嘲笑っている。農民出身だから、詳しいのだろう。

 榮氏は踵を返した。面を向かって、母に言った。
「三千回の死を。」
 最も酷い死を、と言う意味だ。
 榮氏は近くにあった椅子を振り上げた。順に、母、継父を殴った。
 きゃあ、と雀斑女の劈くような悲鳴がした。足元は血の池地獄だ。
 榮氏は結髪から簪を一本引き抜いて、それを投げつけた。雀斑女は恐ろしくなって、固まってしまっていた。
「親不孝にさせないだけ、妾は優しいと思うわ?そう、思わなくて?」
 榮氏は笑った。美しい顔が酷く歪んでいた。だが、何故か、そちらの方が、美しく見えた。

 榮氏はすぐに家を出た。
 殺人は重罪だ。胴と首がおさらばしてしまう。

 紅く染まった衣裳に、乱れた髪の榮氏がいた。目は虚ろで、何処か、遥か遠くを見つめていた。
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