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ep0. 「真夏の夜の爪」 64.百年分の感情

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ガックン、とマコトは震える声で少年の名前を呼んだ。

「ねえガックン、僕もガックンのこと好きだよ」

でも。

「ガックンが僕を思ってくれてる気持ちの方が大きいんだって今、解った」

少年の右手は彼自身の左手首に深く食い込み、その短い爪痕から鮮血が床まで流れていた。

瞬間、マコトの身体に少年の温もりと涙が洪水のように流れ込んで来たかのような感覚に襲われた。

コバルトブルー不在の絵の具箱、マコトの心に空いた空白がその赤い鮮血で全て覆われて行く。

鮮やかなその血はマコトの身体にぽっかり空いた空白をも埋めて行った。

マコトの心と身体と魂はその瞬間に全てその容量以上に満たされた。

溢れてくる涙とセロトニン。

脳内麻薬のような多幸感がマコトの身体を包み込む。

自分という存在が無条件で肯定され受け入れられる。

究極に満たされた心身の状態。

まるで精神そのものが絶頂に達したかのような未知の感覚にマコトはその身体を震わせた。

床に流れ落ちていく鮮血。 

マコトはその血を見て全てを悟ることができた。

その鮮血こそが少年の嘘偽りない本心そのものだった。

本能や衝動より、傷を負ってまで僕の未来を守る方を選んでくれたんだ。

ガックンは破瓜の代わりに、僕の代わりにその血を流してくれたんだね、とマコトは呟いた。

少年は緊張状態がピークに達したのか小さく震えていた。

「さっきの、世界一最低最悪な告白だったね」

マコトは小さく笑った。

「でも世界一カッコいいよ、ガックン」

人生で一番嬉しかった、とマコトは微笑みを浮かべながら泣いていた。

いつも側に居てくれたのはガックンだったのにどうして気がつくのが遅かったんだろう。

もし僕が“普通に”しててガックンを好きになってたら。

違った未来が僕たちにあったのかな。

「ああ僕、ガックンの事こんなに好きだったのか」

僕、そんな事すら知らなかった。

二人は狭い部屋で距離を取ったままで泣いていた。

手を触れることすら出来ない距離だった。

灼かれるような悲しさに二人で打ちひしがれていた。

今の二人は泣く事でしか身体の機能を使えなかった。

ひとしきり泣いた後マコトは深呼吸した。

最愛の少年に対してマコトが最後にしてあげられる唯一のことは黙って少年の前から立ち去ることだけだった。

少年がその生命を削り、なけなしの勇気を振り絞ってまで守った矜持と尊厳を保てるように。

何も気付かないふりをして姿を消すことだけがせめてもの最後の思いやりだった。

ねえガックン、とマコトは最後に少年の顔を見た。

少年に触れたかった。抱きしめて欲しかった。

しかしそれはもう叶わない事だった。

「……僕、十年先も百年先もガックンのこと一生忘れないからね」

百十四歳まで生きる気か?と少年は少し笑って、その後また泣いた。

僕はガックンから一生分の愛情を貰った気がする、とマコトは呟いた。

「……ありがとう。ずっと大好きだよ」

マコトの唇はさよならと言いかけて声を詰まらせた。


足早にマコトは秘密基地を出て振り返らずにその姿を夜の暗がりに沈めた。
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