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最終話 宝物を手放しても○宝に恵まれたから全然平気な彦次郎

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 義尚の死から数ヵ月後のことである。
 上原左衛門大夫邸宅の門を敲く何者かがある。見れば若い僧侶。
 番手衆が用向きを訊ねるとこうだ。
「むかし縁があって、とある高貴の御仁より譲り受けた色紙を、上原様に進上したいと思い罷り越しました」
 
 見れば極彩色で彩られた衣冠束帯姿の公卿或いは裳唐衣もがらぎぬ(十二単)に身を包んだ美しい女官が描かれ、喩えようもない流麗のわざでなぞられた和歌の数々。
 若い僧侶は続けた。
「詳しいことは知りませんが、譲り受けた際に、将軍家にゆかりのある品と聞き及びました。尤も、それも本当の事かどうか、いまとなっては知る由もございませんが……」
 番手衆は無学であったが、その目に見ても逸品と分かる代物だ。
 これほどの品を持参するとは徒者ただものではあるまいと思われたが、そのなりはといえば見るからに小柄な若い僧である。まとっている僧衣も最下層の学侶が身に着けるもので、富貴の身分とも思われぬ。
 大方、主人に仰せ付かって寺の宝物を持参したのであろう。
 番手衆はこの僧に不釣り合いな色紙の様子を見て、勝手にそう納得し一旦邸宅に姿を消した。主人である上原左衛門大夫に僧の用向きを伝えるためであった。

 このころ、細川京兆家家宰上原左衛門大夫は宝物を天下の人々に求めていた。
 幕府の権威は失墜甚だしく、大御所義政にしてからが自ら小遣い稼ぎに励まねばならないほどだったから、余程貧窮していたのであろう。細川京兆家は幕府管領として、その財政を支えなければならない立場にあった。上原左衛門大夫が天下に宝物を募ったのも、京兆家家宰として主家の、延いては幕府の財政を支えなければならないからであった。
 上原左衛門大夫は番手衆から若い僧の来訪を聞いて、その者を邸宅に招き入れた。

 差し出された色紙をまじまじと眺める上原左衛門大夫。
 はたと気付いたように
「これは、後光厳帝御宸筆の三十六歌仙色紙だな」
 と言い、続けて
「ということはそなた、廣澤彦次郎か」
 と問うた。
 僧は少し口角を上げながら答えた。
「その名も身分も、もう捨てました。いまは一僧侶として修行に励む日々。大悟の妨げになるから執着を断ち切ろうと思い、持参しました。どうか、お納め下さいませ」
 そうだけ言って立ち去ろうとする僧侶。

「待て、彦次郎!」
 上原左衛門大夫は知っていた。
 元は猿楽大夫の子であり、地下人ぢげにんとして生まれた彦次郎という若者が、生前の常徳院殿(義尚)の寵愛を得て士分と成り、将軍家一門の待遇を得たことを。
 そしてその地下人が
「廣澤彦次郎尚正」
 という一端の侍のような名を名乗ったという話を。
 加えてその廣澤尚正が、義尚の寵愛の末に、将軍家累代の宝物である後光厳帝御宸筆の三十六歌仙色紙まで賜ったという話は、元を辿れば地下人の子に過ぎなかった廣澤彦次郎の身に余る栄誉として、天下に知られた話であった。

 曾て上原左衛門大夫は、将軍の寵愛を得てさしたる武勇もなく取り立てられた廣澤尚正なる人物を人並みに憎んだ。
 その廣澤が、義尚の死を契機として出家したという話を知らなかった上原ではなかったが、このような逸品を彦次郎が持ち込んできたということは、余程貧窮してのことだろうと上原左衛門大夫は思った。栄華を誇った者のあっという間の転落劇に、俄に憐憫の情をもよおしたあたりは、平家物語の冒頭にはしなくも示されたとおり、この国に生まれた者として等しく共有する情緒である。

 しかし彦次郎はといえば、上原左衛門大夫に呼び止められても立ち止まることがない。
 その表情は、喩えていえば三十六歌仙色紙のような什宝を手放してとしても、「確固たる何か」さえ手許てもとにあるのだから、何ら惜しむものではないといった風情を醸すものであった。

「確固たる何か」とはいうなれば、愛するものとの間に成した子。

 そういう確固としたものがあるがゆえに、宝物の代価となる金子きんすですら求めないほど満ち足りた者の表情を、彦次郎は示していた。
 上原左衛門大夫は去っていく彦次郎の後ろ姿を空しく見送るより他なかった。

 だぶついた僧衣に隠れる彦次郎の腹が、さながら孕んだ女人の如く大きく膨らんでいることを、上原左衛門大夫は知らない。

                   (完)
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