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第十六話 今回は登場しない彦次郎

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 陣中は大騒ぎになった。
 義尚はあっと言う間に典医や薬師に囲まれて、七郎も彦次郎も手の届かないところに置かれてしまった。果ては義尚と折り合いの悪かった御台日野富子までが急報を聞いて洛中から鈎に下向してきては、その身辺に付きっ切りになって看病を始める始末であった。
 しかし義尚は病床にあってなおも酒を求める生活を改めなかったという。

 わずか九つで将軍位に就いた義尚は、その若年ゆえに常に政務に後見を要した。ある程度の年齢に達したならば本人の思うとおりに政務を遂行させておけば良かったようなものを、周囲がいつまで経っても義尚を子供扱いして、単独での執政を許さなかったのはどうやら事実らしい。

 その義尚が、飲酒や荒淫によって成年に達したことを周囲にアピールした行為を短慮と嘲うのは簡単である。しかし真に短慮と嘲うべきは、後見を要することを良いことに政務を他人任せにする不見識にあるといえはしまいか。
 少なくとも義尚は将軍親政を志していた。
 執政を側近に任せてよしとする馬鹿殿ばかとのなどでは断じてなかった。自らが理想とする政治が確固としてあり、自分自身の手でそれを執行できない葛藤があったからこそ、義尚はストレスを感じもしたし酒色に溺れもしたのである。そういった事情を考えあわせると、彼が堕落していった経緯にはそぞろ哀れを禁じ得ない。

 義尚が十五に達したころ、御判始、評定始、御前沙汰始といった儀式が執行された。しかしこれによって義尚親政が確立されたとみる研究者はいない。依然大御所義政は健在であり、義尚の執政とは別次元で、独自に権力を行使していたからである。
 義政は主に訴訟沙汰に関わるなどして独自に権力を行使した。これは訴訟に関して片方の当事者に有利な取扱いをし、礼銭を徴収するためのものであった。
 義政の政務が実利の追求であってみれば、その権力を容易に手放すはずもなく、事実父子の間では権力の行使を巡って、当てつけ合戦のような対立があとを絶たなかった。幸い両者は武力衝突にこそ至らなかったものの、文明十七年(一四八五)には義尚への面会の順序を巡って奉公衆と奉行衆との間で対立が発生した。
 この当時、奉公衆は義尚派、奉行衆は義政派にそれぞれ立っており、謂わばこれは父子の代理戦争であった。対立は、奉公衆が義政派の巨魁布施英基とその息子を小川御所で斬殺する刃傷沙汰にまで発展し、父子の対立は武力衝突寸前まで先鋭化している。

 そして、その義尚の将軍権力が確立された画期こそ「鈎の陣」である、と研究者は口を揃える。京都を離れることによって父母の干渉から解かれ、初めて義尚の将軍権力が確立されたとする見解である。

 しかしだからといって義尚が酒毒を脱し得たかといえば、それはまた別の問題といわなければならなかった。
 所謂アルコール中毒は、飲酒開始年齢が早ければ早いほど依存の度を増すという。
 義尚の飲酒開始年齢はおそらく十代の半ばである。近江在陣によって将軍としての実権を手にしたといっても、そういった話とは別のレベルで、義尚は酒盃を手放すことが出来なくなっていた。ようやく父母の束縛から解かれたというのに、義尚の全身に回った酒毒が既に手の施しようのない段階に至っていたことは、皮肉と言うより他ない。

 御台に介添えされて病床に上体を起こした義尚。
 なにを言い出すのかといえばこの期に及んで
「酒を」
 と近習に求めるではないか。
 近習は御台が鬼のような顔をして睨んでいることに気付かないふりをしながら義尚に酒盃を手渡した。御台はその酒盃をはねのけた。
 義尚は呂律の回らない口調で感情を失ったものの如く
「代わりを持て」
 と求めた。
 近習が持参した酒を、ゴクリゴクリと美味そうに飲み干す義尚。御台は今度は酒盃をはねのけなかったが、代わりに助けを求めるような目で典医の顔を見た。
 典医は気の毒そうな表情をしながらかぶりを振った。
(どうせ助からない。好きなようにさせた方が良い)
 典医の目は無言でそのように語っていた。
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