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第八話 義尚と痴話げんかする彦次郎

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 彦次郎は迂闊だった自分を悔いた。
「義尚との間に子を成したい」
 という願望の代わりに自分を士分に取り立て、しかも将軍家一門に列してくれたことに浮かれていた自分を、彦次郎は激しく責めた。
 
 確かに義尚が酒を好むことは以前からよく知っていた。彦次郎との情事に及ぶ際には必ずといって良いほど酒臭い息を吐いていた義尚である。それはほとんど唯一といって良い、彦次郎の嫌う義尚の一面であった。
 しかし一方で、酒の力で理性のタガが外れた義尚は彦次郎を激しく責め苛み、彦次郎は彦次郎でその快楽に身を任せてきたのもまた事実であった。

 しかしこうなってしまったからには話は別であった。
 いま目の前にいる義尚を、うっすらと黄疸の症状が見舞っていた。明らかに酒の飲み過ぎが原因であった。

 義尚との情事がひと月ほど途絶えたあの時、そして久しぶりに抱かれた義尚の胸が、薄く頼りなくなっていると感じたあの時。
 彦次郎は単に
「夜の営みが途切れたのも、少しお痩せになったのも、政務が忙しかったからだろう」
 と軽く考えていたが、いまにして思えばこの時から既に義尚は酒毒に犯されていたのではなかろうか。
 そう思うと、肛姦の快楽を我慢してでも義尚から酒を取り上げねばならないと決意する彦次郎である。寵愛を受けた末の取り立てに浮かれている場合ではなかった。

 なのでこの日、彦次郎は彦次郎を抱き寄せようという義尚を初めて拒否した。
「どうしたというのだ彦次郎」
 困惑する義尚に彦次郎は言った。
「お願い事ばかりで申し訳ありません義尚様。でもどうか叶えて欲しいのです。でなければ、この彦次郎、金輪際夜伽よとぎ致しかねます」
「申してみよ」
「どうか、どうかご酒をお控え下さい。見れば眼も顔も身体も、うっすらと黄色く濁っております。 
 彦次郎はどうしようもない馬鹿ですが、ご酒が過ぎてそうなったお人が長く生きたという話を聞きません。それくらいは知っています。なのでどうかご酒をお控えなされて……」
 彦次郎の諫言はさながら懇願であった。
 愛する義尚の体調を気遣うあまりの懇願であった。
 一気に言った彦次郎の言葉を危機ながら、義尚の黄濁した瞳が次第に悲しげな光を帯びる。
 彦次郎ははたとそのことに気付き、口を噤んだ。

 しばしの沈黙ののち、義尚が口を開いた。
「余は将軍などと称してはいるが、その実政務は父上と母上が取り仕切っており、誰も余の言うことになど耳を傾けぬ。いっそのこと将軍の地位など擲って出家しようとまで思い詰め、もとどりを切ったことも一再ではない。
 酒はそんな余の数少ない楽しみなのだ。止めろなどと言ってくれるな」
「だからって……」
 なおも続けようという彦次郎に対し、義尚がげきしながら言ったひと言は彦次郎を悲しませるに十分であった。 
「夜毎尻穴を貫かれ快楽に喘ぐばかりのそなたには、余の苦労は分かるまい!」
「ひっ……酷い!」
 彦次郎は義尚が自分との情事を愉しんでくれているものとばかり信じていた。
 愛し合ってお互いを激しく求めあった日々は全部嘘だったというのだろうか。
「そんなふうに思ってただなんて……。私はただ義尚様の御身を案じて……」
 
 義尚はといえば、彦次郎に背を向けて振り向きもしない。いたたまれなくなった彦次郎は、わっと泣き出して御座所を飛び出してしまった。

 夜月に照らされる京の街区を、あてどもなくただ駆ける彦次郎。
 義尚との情事を想定して軽く羽織っただけの寝間着は忽ちはだけ、白いももが覗く様は、華奢な肢体も相俟って半裸の女が彷徨い歩いているようにしか見えない。
 素足で駆けたので足は血に染まり、息が上がってこれ以上進めなくなった彦次郎は、その場にへたり込んだ。
「酷い……あんなふうに思ってただなんて……」
 夜中ということもあって彦次郎は人目も憚らず泣いた。
 それは迂闊な行為だった。
 これまで将軍御座所の中で暮らしてきた彦次郎は、夜の街区がどれだけ危険なものか知らなかったのである。
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