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第二章:名古屋の烏
氷見:新たな参入者
しおりを挟む「はあ、はあ……」
やっと終わった鬼ごっこに、氷見の全身から緊張が解かれ、気を緩めたことで酷使した筋肉の痛みやきしみがどっと疲れとなって現れる。あの後結局は数人撒き切れずに殴り合いをするはめになった。
「こんなことしてる場合じゃないのに……店行かないと」
よっこらせ、と年寄りのような掛け声をかけて立ち上がった。
この鬼ごっこでわかったのは、自分がもう若くないなという悲しい現実である。
いやそんなことはない。まだいける、と悲しい喝を入れながら、体力を根こそぎもぎ取られた身体をようによろよろと動かし、仕事場のあるビルへと入っていく。カラン、と鳴るベルの付いたドアを開けて中へと入るとそこには……床に倒れている人物が此方に向かって手を伸ばしていた。
「……何これどういう状況」
「ひ、氷見君……助けてくれぇ……」
その人の頬はこけ、目から涙を流している。
「何やってんのよ阿良々木!さっさとこっち手伝わんかい!」
床へ伏せ、此方に助けを求める阿良々木という男に一括する女性……いや、ニューハーフと呼ばれる男性。いや、この場合はやはり女性と言った方がいいのであろうか。
まあそれはさて置き、蘭(らん)は夜の仕事をしており、職場がこの店の近くにあるため愚痴を零しによくやってくる。
「何で俺が手伝わないといけないのー!」
「店員が行方不明だから」
その言葉にハッと我に戻り、そもそもの自分の今の状況を思い出す。
「すみません蘭さん、阿良々木さん」
バーカウンターの中でグラスを磨いていた蘭と、床に倒れている阿良々木に謝罪する。
「気にしないで、いつも愚痴沢山聞いてもらってるし。阿良々木も大袈裟な演技するんじゃないわよ!」
阿良々木は蘭に指摘され、服についた床の塵を叩きながら立ち上がる。
「どう、俺の名演技!これでもしがない俳優なんだから少しは評価して欲しいものだね」
ふふん、と誇らしげな阿良々木は普段は俳優として東京の方で活動している。元々名古屋が出身地であり、新人の頃に活動拠点としていた名古屋に戻り、現在は一時的に出張のような感じで仕事のときに東京へ出向くと言うスタイルにしたようだ。
グラスを拭いていた蘭と入れ替わりにカウンターの中へと入る。
ここは名古屋駅から歩いて十分程の奥まった通りにある『BEBOP』と言うバーだ。二人は常連で、度々チンピラに追われて店から消える氷見の代わりに何故か手伝ってくれる。その理由を聞いたら、曰く此処は居心地の良い第二の家のようなものだからと言われ、それを聞いたときは凄く嬉しかったのを覚えている。
「少なくとも、一度は人気ナンバーワン俳優に選ばれた人には見えないわね」
「ふっふっふー、あの時は俺もまだ若かったなあ……」
自称しがない俳優の阿良々木は、【蕪木樹(あぎいつき)】と言う芸名で活動する東京では名の知れた有名人だ。過去の俳優好感度ランキング投票で一位になっていたのをテレビのニュースとかで見たことがある。
「何でこっちに帰ってきたのよ」
知名度があるならば仕事場の集中する東京にいた方が、何もかもが便利だ。なのに何故戻ってきた?と蘭が確信を付く質問をすると、阿良々木が頬をぽりぽりと指で掻く。
「いやあ、まあ……」
どこか煮え切らない阿良々木に、しかし蘭はそれ以上突っ込むことはなかった。職業柄、秘密事を抱えるお客の相手をする事が多いようで、そう言った気遣いの良さには関心する時がある。
「悩みなんか一つもなさそうな顔してあんたも苦労してんのね」
「ちょっとそれひどくない!?」
引き際の気遣いとは逆に蘭の辛辣な物言いにすかさず阿良々木のツッコミが入る。だがその時には蘭の視線が氷見へと向いていた。無視された阿良々木の目に涙がほろりと浮かんでいるのは気のせいだろうか。
「ところで、最近ここらのキャバクラに面倒な客が現れてるらしいけど……氷見ちゃんも気を付けてね」
氷見の店の周りには蘭の言ったキャバクラやホストクラブ、居酒屋などが濫立している。その中に蘭の経営するオカマバーがあり、その関係もあって蘭とは仲良くしているのだが、たまにこうやって素行の悪い客の情報を教えてくれる。
同系統の店がいくつか集まることで売り上げ競争が行われてはいるが、決して同族嫌悪のような状態ではなく、いくつかの店では客関係のトラブルや、客同士の諍いを避けるためにも情報共有をしているところもある。
その中で独特のリーダーシップ力を持つ蘭は、近くのキャバクラやホストクラブの従業員たちからの相談や経営者からの悩みなども聞くほど聞き上手。とても頼られている存在なのだ。
あまりにも悪質な客が頻繁に訪れる場合には、蘭が仲介役として間に入るときもあるらしい。因みにその後の悪質な客の運命は言わずもがな、締め出し及び永久的な出禁となる。
そんな蘭が警戒を促すくらいなのだからまだオイタをし始めて間もない感じなのだろうか。ひどい時は一度の過ちで出禁にする客もいると聞く。
「名前は確か……鈴木サトシだったかしら。何でもまだ若いのにやりたい放題らしいわよ?」
「やりたい放題って……」
「一晩で五十万は普通に落としてくって。でも、大学生っぽいのよねえ」
氷見はその話を聞いて、一瞬身を震わせた。たった一晩でそんな大金を落としていく若者と言われればもうやばいし面倒くさそうな臭いがぷんぷんする。
「何で大学生ってわかるんですか?」
「そのサトシって子を相手してたキャバ嬢がね、見せられたらしいの、学生証を。店側も面倒事には関わりたくないし、でも大金を落としてくれる客だしで様子見状態」
「学生なら尚更おかしいですよね」
社会人ならともかく、学生で一日に五十万も使えるような収入なんてまず無理だ。アルバイトを必死にしたところでたかが知れている。蘭の言い方だと五十万を落としていったのは一度ではないようだし、一体何をして手に入れたお金なのか……。
「でしょう? って、阿良々木? さっきから黙ってどうしたのよ」
そう言えば先ほどから話に入ってこない、と思い氷見も阿良々木の座る方を見ると、ぼうっとしながら、カクテルの入ったグラスを傾かせたまま固まっていた。
視線も一点を見つめたままである。
二人が阿良々木を見つめること数秒、漸く氷見と蘭の視線に気づいたようで、
「ん?ああ、ごめん。その鈴木サトシって名前、何処かで聞いたことあるなあと思ってさ」
「あらそうなの?」
何処で聞いたかを必死に思い出そうと腕を組む阿良々木。そんな姿も流石現役俳優、絵になる。
これは貴重なシーンだと、氷見が咄嗟にスマホを取り出して写真を撮った。
「あっ!今写真撮ったでしょう!撮るなら言ってくれればちゃんとしたポーズ取るのに~」
「いえ、阿良々木さんのちゃんとしたポーズはちゃんとした雑誌を買って見るので結構です」
そうなのだ。阿良々木のかっこいいちゃんとしたポーズはその辺にある雑誌やらインタビュー記事やらでいくらでも見る事が出来るから不要なのだ。
近頃、我が家の同居人である梵が大学の友人に勧められた影響から、『山田一郎の事件簿』シリーズをかかさず見るようになった。
一度『そのシリーズ好きなの?』と聞けば、『主演の俳優さんがかっこいい』とボソリと聞こえてきた。その俳優こそ、この今目の前にいる阿良々木なのだ。梵は、氷見と阿良々木が知り合いなのを知らないが、これを見せたらどんな反応をするかが少し気になった。
なんせ、テレビを見るときはいつも無表情な梵が、『山田一郎の事件簿』を見ているときは心なしか瞳が輝いているように見えるのだから、梵の過去を知る氷見からすれば嬉しい事だった。
「ひっど~~~!」
子供か、と言いたくなるほど嘆き悲しむ阿良々木を置き、氷見はチラリと前方上部の掛け時計を見る。現在の時刻は一七時。
※
「蘭さんもう五時だけど仕事いいの?」
カウンターの奥の壁の掛時計の短い針が数字の五の部分を指している。
「あらやだ、もうこんな時間っ!氷見ちゃんもっと早く言ってよ!遅刻しちゃうじゃない!じゃあ私行くわ!」
蘭は飲みかけのグラスを一気にあおって空にする。そしてバッグと上着を取って慌てて出勤していった。阿良々木と言えば暢気に「行ってらっしゃーい」と手を振っている。
「そう言えば彼女、職場はこの近くなの?」
阿良々木は度々名古屋に出没しており、その度に氷見のバーに勝手にやってきてはいつも蘭と飲んでいる。しかし数回飲んだだけだという事らしく、蘭の職業については知っていてもその職場はまだ知らないようだった。
「歩いて五分くらいの所にある【MIRAGE】ってバーだよ」
「へえ。今度行ってみようかなあ」
「何回か行ったことあるけど結構楽しかった。話し上手な人も多いし、ノリがいいよね、ああ言う人達って」
「東京で友人に強制連行されて行ったことあるけど、俺もあの雰囲気結構好きだなあ、今度行こうよ氷見君!」
「いやですよ、阿良々木さん酒癖悪いし」
「そんなこと言わないでさ~、ねえ~」
三十を超すオッサンに駄々を捏ねるられても可愛くもなんともない。
「こっちに来たのだって叔父さんと叔母さんに頼まれたんでしょ?」
「君は本当に察しがいいね」
「それほどでも。ああ、それとこれ、お渡ししときます」
氷見は先日手に入れたある物を阿良々木の前に置いた。
「これ……」
「黒ですね」
「やっぱり?」
片肘をつきながら、傾けた頬を掌で支えるようにしている阿良々木は、目の前に氷見から渡された薬袋のようなものを掲げている。
「真っ黒です。しかも相当前から」
「先代の山野組組長が凄く良い人だったから、こうなる事態は避けたかったんだけどね~。それもこれも……はあ、面倒事だらけだよ……癒しが欲しい」
現実逃避をするように、阿良々木はぐでっとカウンターの上に伏せた。
「それならそう言うお店に行っては?近くにありますよ」
「あーいいねえそれ」
お疲れ気味の様子に、氷見が気分転換を勧めた所で、ヴヴヴ、とカウンターに置いてある阿良々木のスマホが振動する。
一度だけではなくずっと続くその振動はどうやら電話のようで、阿良々木は最初は出ないつもりだったようだが鳴り続けるそれに仕方なく手を伸ばした。
「はい」
電話に出た瞬間、阿良々木の口調が上司のそれになる。掛けてきているのは部下か、と氷見は想像しながら、先ほど蘭の飲み干したグラスを洗っていた。
水洗いが終わり、今度はクロスで水気を拭き取っていると、
「どういうこと?」
電話に出た阿良々木の第一声に、氷見は不穏な気配を感じてつい聞き入る。
「は?」
『……』
「――― それで?その後をつけてた奴ら捕まえたの?」
『……』
「何やってんだよ。いいからそいつらの足取り追って」
『……』
「そう。わかったらまた連絡してこい」
部下からの報告らしき電話に、最初は普通に対応していた阿良々木であったが、会話が進むにつれて段々と普段の口調が崩れていく。
そのまま電話を切った阿良々木は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「……どうかしたんですか?」
「うーんとね、梵君の立場上、最初の方だけでも安全確認した方がいいなあと思って部下をつけてたんだけど、なんか柄の悪い連中が辺りをうろついてたらしい」
梵が今日、大学で出来た友人と遊びに行くという事は、一応伝えてはいたが、まさか部下の人を付けているとは……。
阿良々木は目の前に置いてあったグラスを手に取り、残っているブランデーを再び飲み始める。
「情報が漏れたか……?でもどこから」
ボソボソと呟きながら険しくなる表情に、その情報源に心当たりがある氷見が一言告げる。
「それ、もしかしたら僕の知り合いかも」
阿良々木の刺すような視線を向けられ、氷見は少し身体を固くする。
こういう威圧のような視線は昔から慣れてはいるが、本業がヤのつく人からやられると少々背筋が伸びる思いをするのは仕方がないことだと思いたい。
「どういう事?」
「その知り合い、情報屋やってて……」
その瞬間、空気が冷えたようにピシリと固まる。
阿良々木が氷見のいるカウンターの内側に上体を寄せるようにしてぐっと近づけると同時にピリピリとした殺気を感じた。
「氷見君が漏らしたわけじゃあないよね?」
「それはないです」
氷見は即答した。ここで答え方を間違えると、この人は間違いなく氷見を疑うだろう。
阿良々木とはそういう男なのだ。どれだけ親しくしていようと、その時々で相手の事をきちんと見極め、組にとって不利になるような状況下では敵にも味方にもなる。
「……信じよう。まあ氷見君とのよしみで今回は見逃してあげるけど、もしこのことで梵君に何かあったときは―――」
言外に嚇しをかけられた氷見は、阿良々木の譲歩にほっとし、今度はおくびれもなく返答する。
「ちゃんと伝えときます」
「そ。なら今回は許してあげよう!その友人にもほどほどにしないと死ぬよって忠告しときな~」
先ほどまでの雰囲気とは一八十度変わり、いつもの阿良々木に戻る。
この豹変の仕方が阿良々木の特徴であるが、怒ることはあれど氷見は阿良々木が本気でキレる所を一度も見たことがなかった。こういう人種が沸点を超えたときにどうなるか、見てみたい気もするが、とばっちりを喰らいそうなのでやはり見たくない気持ちの方が大きかった。
「じゃあそろそろお暇しようかな」
「用事か何か?」
「今日はもう終わりなんだけど明日のお昼にね、古い友人とご飯の約束してるんだ~」
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