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1章
拉致、再び
しおりを挟む廊下で殴り合いの喧嘩をした葛西と野島くんは、二人揃って一週間の停学処分を受けた。
『喧嘩両成敗なのよ』
松本先生はそう言った後、俺にも課題として反省文を書かせた。………もう危ない事はしませんという、誓約書みたいなものだけど、書き上がったその反省文は何故かお母さんの元に届き、俺は生まれて初めて怒ったお母さんを体験した。兄ちゃんや爺ちゃんが言っていた通り、それはそれは恐ろしいものだった。何しろにこにこと笑いながら、昏々と続くお説教は二時間も掛かった。その間トイレに立つことも許されず、ずっと正座をさせられた。終わった後暫くは立ち上がる事も出来なかったんだ。
あの二人は一体何をして、あんなおっかないお母さんを体験したんだろう。俺はもう二度と、お母さんを怒らせないと固く誓った。
あれからも俺は、変わらず学校に通ってる。毎朝眠そうなてっちゃんと一緒に、バスを乗り継いで片道一時間の少し長めの通学。お昼休みは松本先生と、お母さんの作ったお弁当を食べながらのお喋りタイム。そして体育は相変わらず苦手だ。
梅雨が明けて増々気温は上がる一方で、来週は期末テストも始まる。それが終われば長い長い夏休みだ。
陽射しが強くなってきたこの頃は、窓際の一番後ろの席は暑さとの戦いだ。やっぱり特等席なんかじゃないな。今週はずっと隣に誰も居なかったから、まるで離れ小島みたいで寂しいし。
葛西の居ない学校は、まるで色褪せた風景画みたいに映った。心が壊れた時に似てる。ただあの時と違うのは、今の俺には友達が居ること。
「じゃあまたね、棚橋くん」
「じゃあね」
「棚橋またな、ばいば~い」
「うん、またね」
下山くんや鈴木くん、他のクラスメート達から帰りの挨拶を受ける。それに応えて返事を返しながら、教科書を鞄に詰めた。
今日は金曜日で週末だから、俺の鞄はまたパンパンに膨らんだ。土日はテスト勉強をやるんだ。
先週末は何やかんやあって、勉強は全然手に付かなかった。
───『ごめんな』
あの言葉をポツリと吐いた葛西は、その後何も言わずに席を立った。丁度戻って来た先生と入れ違いに帰ってしまい、それから一度も姿を見てない。
パキン…と心が鳴らした音は、恋する俺が壊れた音。何時も煩いくらいに燥ぎ回っていた心の中の恋する俺は、今は何も言ってくれない。でも分かってる。ちゃんと理解してる。葛西に「ごめんな」を貰ったのは、俺の好きには好きを返せないって事なんだ。てっちゃん曰く「振られたんだ」って事だ。
今週ずっと空席だったお隣の席。そこに座るはずの人は、週が明けたら戻って来る。その時俺はどうなるのかな。一週間のインターバルは、俺を変えてくれただろうか。
壊れてしまった恋する俺は、もう一度葛西を見たら元に戻ってしまうかな。それとももっと壊れて、小さく小さく砕け散って、それから消えてしまうのかな。
ぼんやりと隣の空席を見詰めながら、お迎えのてっちゃんが来るのを待っていた。
「まな。帰るぞ」
「遅いぞ、てっちゃん」
教室の中がすっかり空になってから、ツンツン頭は現れた。
俺はとっくに帰り支度も済ませていたのに、今日はやたらと時間が掛かったんじゃない?
「ちょっと寄る所がある。着いて来い」
「むっ、お願いしますと言え!」
なんだいっ、その偉そうな口振りは!
待っていた俺に謝罪もないまま、ズンズン先を歩くんじゃないやい!重たい鞄を担いで着いて行くは大変なんだぞ!
「ちょ…、ちょっと、待ってよっ、鞄が重いんだから、も少し、ゆっくり歩いてよっ」
「うるさい、遅いぞ。もっとキリキリ歩け」
むっ、キイイィッ!
この野郎っ、自分が遅れて来たくせに、今度は俺に遅いとは何事だ!
周りの皆はてっちゃんが俺に甘いと思ってるようだけど、それは完全なる誤解だ。この世で一番俺の扱いが雑なのが、この図体ばかりやたらとデカい、ツンツン頭の幼馴染みだぞ!確かにてっちゃんとは心の友だけど、それだけに遠慮が無い。無さ過ぎる!
前を行く憎たらしい背中を恨みがましく睨みながら、肩に食い込む重たい鞄を投げ付けてやりたい衝動に駆られた。
「お、おい!ど、何処に、行くんだ!後からゆっくり、着いてくから、先に行ってろっ」
息切れしながらそう叫ぶと、漸く歩みを止めたてっちゃんは振り向いた。
「チッ、やっぱり担いだ方が早かったな」
「はあ? お、…おいっ、何だよ、何する…っ、──…ぅ、うわあぁぁ!!」
舌打ちにムカッとしてたら、今度はズンズンこっちに向かって来たてっちゃんは、俺を鞄ごと軽々担ぎ上げた。
「やっ、やだやだ!怖いよ!」
「大丈夫だ。俺がお前を落とした事あったか?無いだろ? 分かったら大人しくして黙ってろ」
「おっ、横暴だぞ!」
「うるさい。俺を弱虫呼ばわりした罰だと思え」
ね……、根に持ってる!?
「あ…、あれは、謝っただろ!」
「謝れば済むと思ってるのか?ははっ、残念だが、世の中そんなに甘くない。俺があの日、どれだけ幸雄くんから怒られたのか知らないだろ。お陰で楽しみにしていた試合にも出られなかった。おまけに勝手に転んで勝手に作った、お前の擦り傷まで俺のせいだ。親にまで叱られた俺の身にもなれ、このポンコツめ」
先週末の出来事は、俺の失恋だけでは済まなかった。
あの日迎えにやって来た兄ちゃんは、俺を置いて帰ってしまったてっちゃんに大層ご立腹で、俺を布団に押し込んだ後体育館に乗り込んで行ったらしい。チームに合流したばかりのてっちゃんの耳を引っ張って連れ帰り、車に乗せて何処かへ連れ去ったまま真夜中迄帰って来なかった。
ま…、まぁ、目立った怪我なんかは無かったから、酷い事をされた訳じゃないと思う。兄ちゃんの事だから、きっと精神的に追い詰めたに違いないけど。
日曜のお昼頃訪ねて来たてっちゃんはその事には一切触れず、ただ一言「大丈夫か」と訊ねた。
俺は泣いた。
あの時の事を心友に語りながら、心から泣いた。壊れてしまった恋する俺に、さよならしながら泣き続けた。
そんなボロボロの俺に心友は言った。
『これで終わると思うなよ』
あれは確か、てっちゃんの弱味を口走っちゃってごめんと、話し終わった後の事だ。それをまだ根に持っていたとは、恐るべき執念だ。
「それは…、悪かったと、思っている」
「ふんっ、だっだら大人しく担がれたまま、黙って俺の話を聞け」
ノシノシと進みながらてっちゃんは話し出す。仕方が無い。どの道こんな風に拉致られたら、俺に逃げ場はないも同然だ。里中くんに担がれた時も同じ気持ちだった。せめて振り落とされないようにと、背中の鞄に押し潰されそうになりながら、てっちゃんのシャツにしがみ付く。
「いいか学斗、これから俺の言う事をよく聞け。───俺には昔、好きな子がいた」
何だよ、今頃になって自分の恋の話を教えてくれたって、今の俺はちっとも楽しめないぞ。恋が楽しいと思っていた俺はもう居なくなった。パキンと音を立てて壊れちゃったんだから。
そんな俺の心の文句とは裏腹に、てっちゃんの話は静かに進む。
「出会った時、その子はとても弱っていた。とても可愛い子なのに、ちっとも笑わないんだ。俺はその子に、何とか元気になって欲しくて色々試した。毎日会いに行ったし、時には一緒に泣いてもやった」
そうか。てっちゃんの恋は、その子に笑って欲しい気持ちから生まれたんだな。うん、分かるよ。好きな人には笑ってて欲しいもんな。
「少しづつ仲良くなって、その子が初めて俺の前で笑ってくれた時、嬉しかったよ。凄く可愛い顔して、楽しそうに笑ってくれたのが嬉しくて、ずっとこんな風に笑っていればいいのに、て思ったんだ」
そうだよね。好きな人の笑顔は何よりも幸せなご褒美だもんね。
俺は葛西の笑った顔を思い浮かべた。
───『まなちゃん』
きゅうぅ…と、心から変な音がする。
あぁ…、ダメだ。まだダメなんだ。恋する俺は壊れちゃったけど、死んではいない。ちょっと思い出すだけでその息は吹き返す。何度でも立ち上がって、何度でも好きだと叫ぶ。
恋はこんなにも苦しい気持ちだったんだな。俺の恋は壊れているけど、まだちっとも失くなってはいなかった。
「笑えるようになっても、その子は弱ったままだった。俺が好きになった子は、心に傷を負っていたから、俺はその傷を癒やしたかった。だけどそう簡単に心に付いた傷は癒えない。だから根気よく、長い時間を掛けて見守る内に、ある時ふと気付いたんだ」
随分と長い話だな。俺なんて、恋と気付いてから壊れるまで、ほんの数ヶ月の出来事だ。
それにしてもあのてっちゃんに、そんな事があったなんて知らなかった。いっぱい頑張ったんだな、偉いぞ。流石俺の心友だ。褒めてやる。その子に変わって、俺が感謝をしてやろう。
「俺はその子を好きだったけど、その子にとって俺は、友達であり家族であり、心の欠片を集めて繋ぐ支えになってる、って。だから、学斗」
ありがとうてっちゃん。
それから、ごめんね。
俺、ちっとも気付かなかった。
「泣くなよ。言っておくが、過去の話だ。俺の恋はとっくに終わって、今はそれより遥か高みを目指してるんだ。俺とお前はあの苦しい日々を、一緒に戦った心友なんだろ? 俺はそれを誇りに思うし、これからもお前との付き合いは何にも変わらない、だろ?」
「ぅん…、うん…」
「大体、お前みたいな赤ちゃんなんて、俺の趣味じゃないんだよ。本当に気付けて良かった」
「………ぅ、」
ひ、一言余計なんだよ!
バチンッと背中を叩いてやった。それを高笑いで「全然痛くないぞ」なんて言ってくる。悔しいけど、何も言い返せない。
「学斗。お前、タマえもんになるんだろ? 友達想いのヒーローだよな。なら、俺を助けてみろ。実は変な男にしつこく絡まれてうんざりしてる。俺とお前には、確かに特別な絆があるけど、恋だの何だのを持ち込む関係じゃないはずだ」
「…………そうだね」
「なのにそいつは、俺とお前の仲を勘繰って、いちいち絡んで来て鬱陶しい。お前が一言、そうじゃないと言ってしまえば終わると思う。だから俺を助けろ、まなえもん」
「……………はぁ?」
また口数が多くなってる幼馴染みに、疑いの芽が育つ。普段無口なてっちゃんが、こうもペラペラと喋るのは、何か都合の悪い事を隠す時の癖だ。それに何だよ『まなえもん』て。ちっとも面白くないぞ。
だがこの偉そうな幼馴染みに「助けて」と言われたら、満更でもない気がするのは確かだ。
ふん、仕方無いな。そんなに言うなら助けてやらなくもない。……貸しもあるみたいだし。
「よし、着いた。それじゃ頼むぞ、まなえもん」
「それ、止めてよ」
なんか、バカにされてる気がする。
ムスッとしながら降ろされた場所は、学食の入口だった。
「ほら、早く行け。中にそいつが待ってるから、頑張って誤解を解くんだぞ」
「…………分かったよ」
怖い人じゃなきゃいいな。
そう祈りつつ、心友の頼みを叶える為、俺は初めて学食の奥に踏み入る覚悟を決めた。
学食の扉は嵌め込み窓の付いた、両開きの引き戸になっている。手前に一枚、奥にも一枚。
一つ目の扉は開放されているから、俺はその奥の扉を目指して、三つ並んだ自販機の前を通り過ぎた。
中からは人の話し声が聞こえて来る。てっちゃんを困らせてる奴は、その中のどいつだろう。
「ねぇてっちゃん。その人、どんな人?」
「ん? ん~……ああ、黒い髪で制服はきちんと着てる。身長は…、葛西くらいだ」
そ、そうか。葛西くらいなんだな。
………結構大きい人だ。
「ち、ちなみにその人、怖い人じゃないよね?」
「ああ。全然怖くない。……むしろへなちょこだ。お前と同じで」
むっ!
だから一言余計なんだよ。弱虫のクセに、生意気だぞ!
大体俺は、松本先生との約束があって、もう危ない事はしちゃいけないんだ。もしそれを破ったら、今度はどんなおっかないお母さんを体験する羽目になるのか、想像するのも恐ろしい。
あの苦痛の二時間を思い出してブルッとした後、恐る恐る学食の奥の扉に手を掛けた。
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