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1章

自分を守っただけだ

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 走って走って、いっぱい走った。
 パンパンの鞄は重たいし、体力のない身体は息が切れて苦しい。
 校舎を出ててっちゃんの待つバス停に向かう途中で2回転んだ。上手く手が着けなくて、顎の辺りを擦り剥いたみたいでヒリヒリする。膝と肘も同じくらいヒリヒリズキズキしてるから、きっと擦り剥けているんだと思う。
 だけどそんなところより、俺にはもっと痛い場所がある。

「まな!?」
「痛っ、」

 ハァハァゼィゼィしながら裏門を通り抜けると、そこで待っていたてっちゃんに肘を掴まれてやっと止まった。

「どうした、これ。……転んだのか?」
「うん……」

 掴まれた肘を持ち上げられて、擦り剥いた傷を確認したてっちゃんは「保健室に行くか」と聞いてくる。
 いいよ。これくらい大丈夫だ。何しろ俺は頑丈だからな。
 そう返したいのに、言葉はまた喉に引っ掛かる。それに本当に痛い場所は、目に見える所じゃない。

「………早く、帰りたい」

 そう言うのが精一杯で、その精一杯出した声もゆらゆら揺れてて情けない。
 早く家に帰りたい。暫くは誰にも会いたくない。ギリギリ痛む場所が治るまで、何の音も聞きたくない。何も見なくていいように、布団を被って丸くなるんだ。それから小さい俺達と、沢山話し合いをしなくちゃならない。
 水を含んだ雑巾は、まだ絞り切れてはいなかった。ちょっと持ち上げるだけでも水が垂れて来そうだから、放って置いて欲しい。そしたらその内乾くんだ。時間は沢山掛かっても、ジッとして動かなければいいだけだから。大丈夫。俺はもう、対処法を知っている。 

「どうした、何があった?」

 普段はちっとも空気なんか読まないてっちゃんは、こんな時は嫌になるくらい察しが良くて困る。
 今はその話をしたくないんだ。だから見なかった事にしてくれよ。
 俺は小さく頭を横に振る。あんまりブンブン振ると、また水が落ちてくるから。

「………葛西か?」
「違うっ、から…、早く帰ろう」

 その名前を聞くと、また心臓をギュウッとされる。
 お願いだから帰ろうよ。もうここに居るのが嫌なんだ。

「まな、ちゃんと話せ。頭の中で会話をするな。思ってる事は口に出すんだろ? 言わなきゃ何にも伝わらないぞ」

 何だよ、それ。俺は分かり易いとか言ってたクセに、こんな時は言わなきゃ分からないのか。本当にてっちゃんは、空気の読めない困った奴だな。

「まな」
「………お姫、…て、言われた」

 聞いた事もないくらい冷たい声だった。

「それは…、」
「バカにされた。変な奴、だって」

 葛西は何時だって、ちょっと笑って凄く楽しそうに俺を誂うから、ドキドキして困っちゃうけど嬉しいと感じてた。
 だけどさっきのは全然違う。俺の顔を指差して笑った、あの女の子達と同じくらい、嫌いの気持ちが詰まった痛い声だった。

「それで、逃げてきたのか?」

 そうだよ。当たり前でしょ。
 怖い時は逃げてもいいんだ。
 今まで出会った先生や大人達は、皆そう教えてくれた。頑張らなくてもいいって言ってた。頑張って辛い思いをするくらいなら逃げてもいい、それは負けたことにはならないんだ、て。

「俺はただ、自分を守っただけだ」

 俺の中の小さい俺達、心の中の心の声は小さくて臆病でとても弱い。だから怖いものや痛い事から守ってやらなきゃならない。そうじゃないと、壊れて粉々になって消えてしまう。心が壊れたら俺が俺でなくなっちゃう。
 俺の心は一度、粉々になった。まだてっちゃんと出会う前だ。
 
「てっちゃん、知ってるか。心が壊れると、耳も聞こえないし目の前も真っ暗なんだよ。何を食べても味がしなくて、その内ご飯を食べるのも嫌になるんだ」

 息を吸うのも吐くのも面倒で、ただぼんやりと時計の針が動くのを目で追う。毎日がそんなだった。
 寝て起きて、誰かの声はただの音でしかなくて、目に映るものは色褪せた風景画で、味のしないご飯を流し込んで、また眠る。
 その繰り返しに、心はどんどん砕けて散っていく。

「最後はね、もう何もかも嫌になって、生きてるのも嫌になるんだよ」

 ある時ふと目が覚めて、生きてるのが不思議になった。お父さんもお母さんも笑ってくれないし、兄ちゃんは何時も何かに怒ってた。爺ちゃんは悲しそうな顔をして無理して笑顔を作る。
 それが全部俺のせいなんだと思ったら、急に生きてるのが申し訳なくなった。

「だから神様にお願いしたんだ。早くそっちに連れてってください、迎えに来てください、て。でも、お迎えは中々来ないから、自分で行こうとしたんだけど、行き方が分からなかった」

 神様にまで嫌われていたのかと、悲しかったのを覚えてる。

「学斗。それは死ぬって事だぞ。そんなの、分からなくていいんだ。知る必要もないだろ」
「うん。カウンセラーさんもそう言ってた。神様のお迎えは、一人一回だけなんだって。ちゃんと人生を満足して、終わる人の所にやって来るんだ、て。だから俺は、それを大人しく待つ事にした」

 あの恐ろしい通り魔と戦ったのも、高校に進学したのも、いつお迎えが来ても断ったりしないように、満足して終わりの時を迎えられる為の準備だ。
 
「………そうか」

 てっちゃんは見るからにホッとした顔になった。脅かしてすまないな。だけど心配するな、心の友よ。俺はもう、あの頃みたいな小さい子供じゃないんだ。
 俺に男の心得を教えてくれた、爺ちゃんは言っていた。
『男足る者、人生に一変の悔いも残しちゃならん。それが本物の男ってもんだ』って。

「じゃあ…、月曜日はまた、学校に来るよな」

 ………ん?

「今日は逃げても、学校からは逃げないよな」
「そ…、それは、……どうだろう」

 時間が必要かも知れない。生乾きの雑巾じゃ不衛生だよ。どんよりした空気を纏った俺は、きっと周りに迷惑ばかり掛けそうだ。そんな俺を見せたら、葛西はまた怒り出すんじゃないかな。
 
「俺は、何をしちゃったんだろう……」

 理由も分からないから、対処のしようもない。謝って済むなら土下座くらいするんだけどなぁ。

「なら……、聞きに行くか。丁度迎えも来た事だしな」
「え?」

 てっちゃんが顎をシャクって示した方向から「まなちーん!」と呼ぶ声がした。
 さっき置いて来た里中くんが、叫びながら走ってくるところだった。

「助けてくれ、まなちん!ヒロを止めてくれよ!」

 …………………は?





 
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