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1章
陽キャホイホイ
しおりを挟む日常に潜む危険とは、得てして遭遇するまで気付かないものだ。そして遭遇してから後悔する。
あの時こうしておけば……とか、あんな所に行かなければ……とか。
そして俺は今、その後悔の真っ最中だ。
休み時間はなるべく教室から出ない様にしているけど、人体の生理現象には逆らえない。三時間目の終わりのチャイムが鳴った後、俺はトイレに駆け込んだ。
すっきりと用を足して教室へと戻る途中、何時ものように廊下の隅っこをコソコソ歩いていたら、正面の壁にコツンとぶつかった。
「ぅわっ」
「痛てっ、…て、あ。棚橋くんだ」
壁だと思ったそれは、隣のクラスの陽キャだった。うわ、面倒臭い。どうもこの手の人種は苦手だ。何故なら、ウザ絡みしてくるからだ。
「ご、ごめん」
「どうしたの~? 下向いて歩いてたら危ないよ」
「どこ行くの?俺達が送ってあげよっか?」
いや、教室に戻るだけだし。すぐそこだし。送るとか、よく分かんない。面倒臭い。
「いや、大丈夫です」
「遠慮しなくていいのに」
「そうそう。ね、そんな俯いてないで顔見せて」
ヤダよ。遠慮じゃないし。それに何で顔を見せなきゃなんないんだ。通行税か? これが噂のカツアゲとか言うヤツか? 何て悪どい奴等なんだ。これだから陽キャは苦手だ。陰キャを誂って何が面白いんだ。多分陽キャというのは、陰キャを誂わないと死んじゃう病気なんだと思う。気の毒だけど、それに構われるこっちも可哀想だ。
「あの、そこどいて……」
「えぇ~何なにぃ? 聞こえないぞ」
「棚橋くん、声ちっちゃ!ウケる」
別に面白くないし。寧ろ不愉快極まりないし。もう、やだ。早く教室に戻りたいのに。
こういう時、どうしていいのか分からない。どうしようどうしようと頭がぐるぐるして、その内段々焦りに繋がる。そうなると緊張で顔が…………
「うわ、何か耳が赤いよ? えー、何? もしかして顔も赤かったりする?」
「うーわ、かわい~。マジ、顔見せてよ」
くそっ、バレた! だから嫌なんだ。この顔のせいで、今まで味わった屈辱は数知れず。誂われ笑われ、気味悪がられた。嫌いだ、こんな顔!
「おーい、棚橋くん?」
「どしたの、黙っちゃって、」
「おい、まな。何してるんだ、もうすぐ授業が始まるぞ。早く教室に戻れ。お前らもあんま誂ってやるな。へそ曲げて、そのうち泣き出すぞ」
「あ、山本」
「いや別に、俺ら泣かそうと思って無いし。ごめんね、棚橋くん。泣かないで。またね」
正面の教室から出て来た山本哲朗が助け舟を出してきた。漸く陽キャが離れて行く。よかった。……けど、何だそのへそ曲げて泣くとか。俺は幼児か!失礼な!
「ほら、まなも早く教室戻れ」
「俺、泣かないし」
「はいはい。泣かなくてよかったな」
「そんな弱っちくないし」
「分かったから、早く戻れって」
「謝れ、てっちゃん。俺に謝れ」
「ソーリー、ソーリー、髭そーりー」
「ブフッ、何だよ、その誤り方。笑っちゃっただろ」
「そうか。よかったな」
「うん。ありがと、てっちゃん。また放課後な!」
くだらない親父ギャグでこの場を収めるとは、さすが俺の幼馴染みだ。褒めてやってもいい。
ホッとしてつい顔を上げた。
あ、葛西だ。
どうしてか、俺の目は葛西感知が頗るいい。教室のドアに持たれて誰かと談笑している葛西が、一発で視界に飛び込んできた。今日も絶好調にカッコいい。
だけど俺はこの前の保健室以来、ちょっとだけ葛西の事を避けている。あんな醜態を晒してしまったのが恥ずかしくって、どうやら居た堪れない病を患ってしまったらしい。葛西を見てしまうと、あの時のやり取りが浮かんできて、それはそれはとんでもない恥ずかしさに見舞われる。これが結構辛い。
それに困りん坊なんていう変なあだ名と、家族以外には呼ばせないと決めていた『ちゃん』付け呼びが、葛西の中で定着されては困る。小さい頃からそう呼ばれていたからか、何だか赤ちゃんに戻ったみたいで嫌だ。………もう16歳なのに。
なので授業中の居眠りタイム以外ではあんまり見ないようにもしているし、出来るだけ葛西の視界に入らない努力もしてる。こんな風に見てるのを見付かったら、また死ぬほど恥ずかしい事になりそうだ。
なんて考えてぼぅ、と眺めていたら、パチッとちょっと目が合った。……ような気がする。
どうしよう…。ただでさえこの頃、俺の心臓は激務に耐えてるというのに、これ以上酷使したら本当に止まってしまうかもしれない。
どうか気付かれていませんように…と祈りつつ、コソコソと壁を見ながら歩き出した途端、ドンッ!!、と壁を打ち鳴らした長い腕に通せんぼされた。
「まーなーちゃん」
「ひゃあ!?」
眼前にカッコいい葛西の顔面が、90度の角度からにゅっと現れて息を呑む。
ち、近い近ーいっ!そしてちゃん付けで呼ばないでよ!
「今、見なかった事にしたでしょ?」
「し、しし、知らない!してない!」
片眉をひょいっと上げてニッと笑う。
うはあぁぁ……、カッコいい!その顔、凄い好き!
至近距離のイケメンは破壊力が半端ない。頬がみるみる内に熱くなり、心臓は道路工事並みの騒音を上げ始める。
「嘘はダメだぞ。この頃微妙に避けてるの、俺が気付いてないとでも思った?」
「ししし、してない!知らない!」
頭の中では緊急会議が急速に始まって、何て言ったらこの危機を乗り越えられるか小さい俺達が頑張っている。
「そんなに慌ててどうしたの?言い訳でも考えてる?」
「そそ、そそそそっ、そん、そん、そんな、事は、」
「あるよね~え。だってまた、すご~っく困ってるもんねぇ」
「ぅぅ………」
何で葛西には分かっちゃうんだろう。これは抗議なのかな? 謝ればいいのかな? それともこのまま、知らんぷりを貫くか? 俺には分かんないよ!?
「こーらお返事は? ふーっ」
「ぅわ、っ! な、何すんだ!」
どーしよどーしよ、とオロオロして言葉に詰まってる俺に、葛西がふーっと息を吹き掛けてきた。ミントの香りが顔いっぱいに吹きつける。
「赤いから冷ましてやろうと思って」
「ぐ……っ、」
俺の顔はふーふーしても冷めないの!寧ろもっと熱くなるよ!?しかもスースーする匂いで目が痛い。いや、目が痛いのは葛西の顔がカッコいいからか?
「ふーっ」
「わっ! や、止めてよ!」
2度目のふーっ、攻撃に思わず体が後ろに飛び退く。そのままくるりと背を向けた。
赤い顔が恥ずかしい。ミントの匂いも恐ろしい。そして葛西の顔面どアップは心臓に悪い!
これ以上絡まれたら俺は死ぬ。早鐘の心拍がそう告げている。ここはさっさと逃げるが勝………
「ふぐ…っ!!」
壁にドンしてた腕が、今度は喉元に絡まった。
さっきまで頭の中に、エマージェンシーが黄色く点滅を繰り返していたけど、今この瞬間に真っ赤なワーニングに切り替わる。
小さい俺達からの接近注意報が、たった今接触事故を表示した。
───あ……、これダメだ。
「お…、っと。どこ行くの? もうすぐ授業が始まるよ」
「ヒ………ィ…ッ」
鼓膜に直接響く声。肩に乗っかる葛西の顎が、喋るたびにモソモソ動く。ミントの香りが鼻奥にツンとして、脳ミソがグツグツと煮え立った。心臓は高速ドラムロールを打ち始め、血液がザワザワと身体中を駆け巡る。
これは生命の危機に瀕している。頬を掠めるミントの風が、俺の命の灯火を今にも吹き消しちゃいそう!
死んじゃう死んじゃうぅ!俺、死んじゃうよ!!?
「ちゃんと見なさいって言っただろ。忘れちゃったの? そんな忘れん坊のまなちゃんには~、はい、これあげる」
「は…っ、は…っ、 …んむ!!?」
は、は、と浅い呼吸を繰り返す口の中に放り込まれた小さな粒。甘いと思ったその瞬間───。
「それ、俺のキスの味だから。覚えておいてね」
「キ……、」
耳元で囁やかれた破滅の呪文と、途端に口いっぱいに広がるミント味。舌がピリピリと焼け付くように痛くなる。
強すぎるその刺激と耳奥に残る葛西の声。
───「キスの味」
音が言葉に変換されて、脳に到達した直後。俺は奇声を上げながら逃げ出した。
「きっ、ぃやああぁぁぁああ!!!」
鼻から抜けるミントの香り。
ヒリヒリする口の中。
「あっははははは」
背後から追い掛けて来るのは、魔王様の笑い声。俺の日常は、潜まない危険でいっぱいだ。
葛西の構い倒す宣言は、全然伊達じゃなかったよぉ!!
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