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揺蕩う夢の時間 (野崎)
しおりを挟む恋愛は妄想の中でしかしたことがない。
自らの煩悩で創り出した想像の中の彼等は、何時だって俺を大切に扱い、大事に想い、愛してくれた。俺の思い描いた通りに、寸分違わず望みを叶えてくれた。
憧れの体育教師は、高校生だった俺を軽々と抱え「かわいいな」と言って、頬に何度もキスをした。
野球部の同級生には、優しく肩を抱かれ「愛してる」と情熱的に愛を囁かれた。
妹に紹介すると言われた医師とは、互いの劣情を煽るように高め合った。
だが、現実の彼等は違う。
体育教師には名前すら覚えて貰えずに、殆ど接点もないまま思い出になったし、野球部の彼には人生の汚点と消せない傷を付けられた。顔を見たこともない医師は、勝手に創り上げた幻の恋人だ。
自分の想いに応えてくれる人は、何時だって煩悩が生み出す架空の人物だけ。空想上の幻影だ。
そこに誰かを当て嵌めることはあっても、その実在の人物が現実で俺に愛を囁く事はないし、視線が絡み合う事もなければ、この身体を抱き寄せたりもしない。堪え切れず吐露した恋心は、激しく拒絶され、踏み付けられて、グチャグチャに壊された。
ーーー『好きです』
浅沼の言葉が耳の奥に響いた時、何処かで「これは夢だ」と繰り返す声がしていた。
年上で上司で、男の俺を?
密かに焦がれていた浅沼が?
こんなの、奇跡じゃないか。
いつか想像した、あの逞しい腕に抱きしめられている。ワイシャツ越しにも感じる、弾力のある分厚い胸板。想像してたより、もっと体格がいいんだな。それとも俺が貧弱すぎるのか。
恐る恐るその背中に腕を回してシャツを握ると、苦しいくらい胸が高鳴った。
浅沼が、俺を好きだと言った。それに応える自分は彼の腕の中にいる。
何度も…、何度も夢に見たシチュエーション。
嘘みたいだ。
これは夢かもしれない。
もしも夢なら覚めないで欲しい。出来るだけ長く。もういい、満足だと思えるまで。
あんまりにも非現実過ぎて、白昼夢だと思う事で落ち着いた。
目覚めた時の虚しさを振り払うように、シャツを掴むその手に力を込める。
夢が、逃げて行かないように。
暫く抱き合って互いの体温を感じ、その暖かさにほっと息を吐いた。
安心したら急に空腹感を覚えて腹が鳴った。その気恥ずかしさに笑い合う。
なんて……、素敵な夢だろう。
胸の奥が擽ったい。こんな気持ちは初めてだ。
現実の恋は何時だって、酷く苦くて辛いものだったから。
痛いくらいの抱擁が緩んだタイミングで、シャツを掴んでいた手を離した。
長い事握り締めていた手は、開くと関節がギシギシと軋んだ。
「腹減りましたね。やっぱり俺、コンビニまで、ひとっ走り行ってきます」
「あ……… ま、」
今し方、ぴたりとくっついていた体温が、す…っと離れていくのが嫌で、思わず腕を伸ばした。
ーーー 『待って』
嫌だ。まだ目覚めたくない。
伸ばした手が掴んだものをじっと見る。自分より、遥かに太くて硬い浅沼の腕。これは夢で、この腕に痛いくらい抱きしめられたのは俺の妄想のはずだ。なのに何でだろう。やたらとリアル過ぎやしないか。
「野崎さん?」
「え? ………ゆめ」
本当に?
「ハァ……。今度は現実逃避ですか? まぁ、いいですけど。夢ではないので、飯を食いましょう」
「え…… と?」
めし? あ、飯か。
そうだよな。腹が減った。
ぼう…としたまま顔を上げると、ヘニョリと笑う浅沼がいる。
ああ、そうだ。この顔が好きなんだ。
「そんなぽやっとしてると、またキスしちゃいますよ」
きす……キス…。うん。飯より今はそっちがいい。
「ん、…いい」
さっきのあれ。凄かった。あんなの、妄想でもした事ない。
「案外、甘えん坊なんですね」
甘えん坊……?
そんな事を言うのはお前だけだ。そんな台詞、今まで創り上げた誰にも言わせなかった。
掴んだ腕とは反対の手が、こちらに向かって伸びてくる。
頬に添えられると想像したのに、その手は頬を通り過ぎ、首の後ろを包むように回ってきた。
おかしいな。この夢は俺の想像を遥かに超えて、まるで一人歩きしてるみたいだ。
「野崎さん」
違う。そこは名前を呼ぶんだよ。ここは会社じゃないんだから、和巳って呼んでくれよ。
ーーー『晋ちゃん』
「し……」
ピンポーン!
「っ!!!」
突然鳴り響いたインターフォンが、現実に引き戻す。
ぱち、と瞬きをして、状況を把握するまで1秒もいらなかった。弾かれたように目の前に迫っていた浅沼の顔を両手で押し退け、縺れそうになる足を動かしてインターフォンの受話器に飛びついた。
「は、はい!?」
『あ、和巳ちゃん? ごめ~ん。さっき鍵、置いてっちゃって。玄関、開けてくれる?』
美花!?
一気に現実に引き戻された。心臓が口から飛び出しそうだ。俺はいったい、何をしてた!?
『ちょっと、聞いてる? 早く開けてよ。荷物重いのよ!』
「あ、…ああ。今、開けるっ」
突然現れた現実に、心臓がバクバクと音を立てる。
インターフォンの受話器を戻しそのまま玄関へと進む足を、背中を包む体温が引き止めた。
薄い腹に回された大きな手。耳の裏側に感じる息遣い。頬にあたる少しごわついた硬い髪の感触。
後ろからついて来た浅沼に背後から抱かれ、また夢の中に引き摺り込まれそうだ。
「待ってください。……ミカさんて、貴方の何なんですか? まだ、教えて貰ってないです」
耳を擽るその拗ねたような言葉を聞いて、少しだが冷静さを取り戻せた。
そういや言っていなかった。
「あいつは、妹だ。あまり待たせると煩い。…離せ」
自由の効く片手で、肩に乗った浅沼の硬い髪をそっと撫でた。
パッと顔を上げた浅沼と、至近距離で見詰め合う。ああ…、やっぱり駄目だ。さっきから夢と現実が曖昧で、頭がぼんやりとしてしまう。
「本当に? 妹、さん?」
「ああ…。そうだ、から…、」
自分の瞳がゆらゆらと揺れているのが分かる。浅沼の瞳も、同じ様に揺れているから。
途切れた言葉の紡ぐ先が見付からない。ふ…と伏せた視線が追うのは、男らしい少し厚めの唇。今にも触れそうなくらい間近にある。
触れたい。塞ぎたい。
「ぁ……さ」
ピンポーン!
「は、離せと、言っただろ!」
「ゔっ!」
反射的に肘を引き、背後の大型犬を引き剥がした。痺れを切らしたかのようにもうニ度、三度とチャイムが鳴る。
美花のやつ。待たされて相当苛立ってるな。
内鍵を解錠すると、弾かれたように勢いよく玄関ドアが開いた。
「遅いっ!何時まで待たせるのよ!」
「ご、ごめん…」
ん、と胸元に大きな包を押し付けられ、反射的に受け取った。
「何?、これ」
「母さんから。碌なもの食べてないだろうから、って、持たされたの」
横をすり抜け我が物顔の妹は、さっさと靴を脱ぎリビングへと向かう。
「お、おい美花。ちょっと待……、」
後ろから慌てて着いて行けば、開け放たれたリビングのドアの前でピタリと止まった。その奥には浅沼の姿。
何だか急に居た堪れない気持ちになった。落ち着かない。妹の後頭部と、その奥にいる浅沼とを見比べてしまう。
別に、何も不自然な事は無いはずだ。さっきまでの浮ついた空気が妹に伝わる訳がない。…と、思う。
「み…、美花?」
リビングの入口で微動だにしない妹に、声を掛けたが返事もない。いったい何をしてるんだ。何時もはズカズカと入って来るくせに。お前がそこにいたら邪魔だ。入口を塞ぐなよ。
「先程は大変、失礼致しました!」
立ち尽くす妹に、緊張した面持ちの浅沼がいきなり腰を折り声を上げた。
「野崎主任には、日頃から大変お世話になっております。浅沼晋一郎と申します」
「あ…、え? はあ……?」
流石は体育会系だ。挨拶だけはいつも立派だと感心する。それに引き換え美花、お前は何だ。はあ…?、じゃないだろ。
「おい、美花。お前も挨拶くらい、」
「和巳ちゃん!! どうしたの!?この部屋!」
は……?
「今朝の惨状からウソみたいに見違えたじゃない! え!? もしかして、会社の方に掃除させたの!? いやだ、すみません。大変だったでしょう? もう、本当に。あんなになるまで放っておくなんて、だらしのない兄で、申し訳ないわぁ」
「へ? あ、いや、そ…、と、とんでもないっす」
「でも助かっちゃったわぁ。ありがとうございます。 浅沼さん、でしたっけ? いつも兄がお世話になってます。妹の美花です。会社でも、面倒掛けてばかりなんじゃないですか? この人不器用だし、すぐ道に迷うし。外回りの営業職なんて、ちゃんと勤まるのかって、いつも家族で心配してたんですよ~。でも、貴方みたいなしっかりした方が、傍に居てくれるなら安心だわぁ。それにこの部屋も…、本当に綺麗に片付けて頂いて。何から何まで、すっかりお世話になってるみたいで恐縮です。……ほら、和巳ちゃんも!ちゃんとお礼して?」
ペラペラとよく回る口で弾丸のように喋り出した妹に、Tシャツの袖を摘んで引っ張られ、部下の前に立たされた。矢継ぎ早に捲し立てるこの口調が苦手だ。口を挟む暇もない。それに……、兄の恥部を、よくもそんなに大声で語れるな!言っておくが、会社でこいつの面倒を見てるのは俺の方だ。人を勝手にお荷物上司にするんじゃない!
「……………………」
「ちょっとぉ!聞いてるの?」
「あー、あの、美花さん。え、えぇと、これは、俺が勝手にした事なので、その、主任にお礼を言われるのは、何だか、申し訳ない…、と言うか…」
「あら。例えそうだとしても、お礼はすべきよ。ねえ、和巳ちゃん」
「………ああ、そうだな」
口煩い妹に言われるのは癪に触るが、確かに人として礼儀を欠くことは出来ない。
「い、いや、本当に。礼なんかいいですから!」
「そう言うな。…助かったよ。何か望みがあるなら、聞いておく」
「ですって!この際、遠慮はいらないわよ、浅沼さん」
「何でお前が口を出すんだよ。…言っておくが、今回美花には何もやらないぞ」
「いいわよ、別に」
そうは言っても図々しい美花のことだ。後日、何かしら要求されるのは分かっている。毎回理由をこじつけては、二重取りするのがこの双子の片割れだ。自分だって働いている癖に、何かと人の財布をあてにするのが納得いかない。
「あのぉ……」
斜に構えてこちらを見やる妹に、こちらも胡乱げに見返していると、置いてきぼりの浅沼が遠慮がちに口を開いた。
「お礼なんかいいんですが、その…、野崎主任が宜しければ、定期的にこの部屋、掃除しに来てもいい…、ですか?」
「…………え?」
「俺、本当に家事仕事が好きで、掃除も片付けも、趣味みたいなもんなんです。実家が洋食屋で料理も割りと得意だし、食いたい物言ってくれたら、だいたい何でも作ります。歳の離れた妹と弟がいて、そいつらの世話ばっかしてたから、実家を離れて独りになったら、何かこう…、物足りなくて、」
いったい何の話だ。
そこは、1杯飲みに連れて行け、くらいで済む話だろう!?
「お…、おい、」
「実は今もっ、野崎さんのその寝癖を、何とかしたくて仕方がないんです!」
「ハア!? な、何言って…っ」
「それからっ!!」
まだあるのか!?
「その、……」
忘れてた寝癖を指摘され居た堪れないっていうのに、渡された包みを抱えてるせいで手櫛を通すことも出来ない。変に言い淀む浅沼の視線が痛い。隣でポカンとしていた妹の視線まで、こちらを向いている。
何だよ…。言いたいことがあるなら、さっさと言えばいいだろう。
服か? このヨレヨレのシャツの事か!?
「それ……、少しいただいても、いいですか?」
盛大に腹を鳴らした浅沼が、抱えた包みを指差した。
凛々しい眉を情けなく下げて、ヘニョリと困ったように笑う。
ああ…、駄目だ。その顔を見せないでくれ。
最初はガタイの良さに惹かれた。
部下に配属され、その人柄を知って増々興味が湧いた。礼儀正しく何事にも一生懸命。出来ない事を出来ないままにせず、コツコツと努力を重ねる姿勢に好感が上がった。
人当たりよく誰からも好かれ、明るくて誠実で実直。
言われた事、頼まれた事は、時間が掛かっても最後まで遣り遂げる持久力と責任感もある。
浅沼を知れば知る程、想いは膨らみ心は囚われ、この出来の悪い部下が可愛くて愛しくて、恋しくて堪らなくなった。
傍に居られるなら見ているだけで満足だ。そう自分自身に言い聞かせてきたのに、酔って正体を失くして爆ぜた後は、自分の愚かさを呪った。
「もう…、腹が減って死にそうです」
それなのにお前は、こんな俺と一緒に居てくれるんだな。
「なら丁度よかったわ。たくさん持たされたのよ。遠慮なく召し上がって」
「いただいていいですか? ありがとうございます! あ、俺が開けますね」
「ああ…、じゃあ、頼む」
受け取った包みの中身をテーブルに並べる浅沼に、今返せる精一杯の礼が何かを考えた。
「うわ…!お稲荷さんだ。美味そう」
「あ、やだ。お茶買ってくるの忘れちゃった!ちょっと行ってくるから、先に食べててね」
ついでに纏めてあるゴミ袋を幾つか持った妹は、慌ただしく外へ出て行く。
「ああ…、ゴミ捨てなら、俺が帰りに寄るからいいのに…」
「浅沼、」
「はい? 何ですか」
こんな事が礼になるかは分からない。俺なら頼まれても絶対に断る。だけど、お前はそれが望みだと言ったよな。
だから、俺が決して言わない様な事も、今は恥を偲んで口にしよう。
「飯が済んだら、……寝癖、直してくれ」
「は、…………はい!是非、やらせてください!」
見栄もプライドも上司の顔も、そうやって喜ぶお前を見たら、全部剥がれてしまうから。
「それから…」
恋愛は妄想の中でしか、したことがないんだ。役に立つ知識は、何一つ持ってない。だから……ーーー
「面倒……、掛けてもいいか?」
伸ばした手を振り払わないでくれ。
「はい、喜んで! 任せてください」
いつか目覚めるその時までで構わないから。
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今日、見つけて一気読みしました。
野崎さんも浅沼さんもかわゆい!!!
続き待ってます。
めっちゃ待ってます。
ありがとうございます。続き頑張ります!
浅沼君、頑張って〜!
野崎の家族!好き〜❣️
更新楽しみにしてます☺️
こんな埋もれたお話を見つけていただき感謝です。
浅沼は頑張るので見届けてやってください。
感想を送ってくださりありがとうございました。
更新も頑張ります!